対局終了

 テストを終えた僕はその足で図書室に向かった。

 チェス盤の前には雨森が座っていた。駒はまた動いていた。盤上にはほとんど駒は残っておらず、相手の指した一手はポーンとポーンをぶつかり合わせるようなものだった。

この対局も終わる、僕の勝利で決着だ。僕のこの一手でチェックはできていないが、相手が次の一手で動かせる駒はない。さらに、キングがどこに逃げようとも僕の駒が効いている。

最後まで相手のことはわからなかったけれど、十分に楽しむことができた。チェス盤に付箋は貼られていなかった。僕は駒を動かす。


「雨森、このチェスの相手を見たことあるか?」


 話しかけられた彼女は少しだけ考えこんだ後に首を横に振った。


「そうか、付箋一枚もらっていいか?」


 彼女は僕に付箋を差し出した。僕はそれを受け取って、できるだけ丁寧な字で『対戦ありがとうございました。僕の勝ちです。』と書き込み、チェス盤に張り付ける。

 長くも短い対局だった。僕は高校生活で初めて何かに勝てたかもしれない、それが少なからず慰めになっている自分が少しだけ悲しくなった。


「本当に吉野の勝ちか?」


 背後から声がして振り返ると五十嵐先生がいた。


「僕の勝ちですよ。これでチェックメイトというか、相手はもう動かせる箇所ありませんから。」


 そう答えると五十嵐先生は納得した様子になった。


「吉野は将棋はやるけどチェスは初めてか?」


「よくわかりましたね。駒の動かし方をちょっと調べただけです。それでも勝てましたけど。というか先生、採点の仕事はいいんですか?」


「別にいいさ。あんなの大した仕事じゃない。すぐ終わる。出来はどうだった?」


「いつもよりはできました。」


 僕はいつもより小さな声で言う。


「へえ、お前がいつもより出来がいいってんならほとんど満点だろうな。」


「おそらくは。でも、飯田春奈に勝てる気がしない。なんでなんでしょうか?」


「さあな、でも別のルールのほうでは勝てるんじゃないか?」


「知ってるんですか?」


「まあな、クラスの奴が噂してたのを聞いただけだよ。平均点に近いほうが勝ちだっけ?ずいぶんお前に有利なルールだな。」


「3番が付け足した『平均点ピッタリを取ったら勝ち』ってルールもありますよ。」


 本当に意味が分からないルールだ。そもそも僕と飯田春奈が平均点を取るなんてありえない話だ。


「3番?ああ、出席番号か。へえ、そんなルールもあったのか。」


「先生、僕はこんなルールで勝って何を得るんでしょうね?」


「知らねえよ。自分で出したルールだろ。」


 そう言って先生は図書室を出て行った。何か答えをくれるような気がして聞いた僕が馬鹿だった。僕は少しだけ本棚にある本を眺めてから家路についた。


 いつもと違う帰り道を通って家に帰る。遠回りをした理由は何もなかった。ただ少しだけ一人で歩きたい気分だったのだ。いつも一人で歩いているくせにそんなことを思ったのは、自分がこれから手にする虚しい勝利のせいかもしれない。

 喫茶店を見つけて立ち止まる。看板には「喫茶店」という文字が書いてあった。店名が喫茶店ということだろうか、なんだか少しだけおかしく思えていつか来店してみようと思った。

 見たことのない家から音が聞こえる。見たことのない家の表札に書かれている名前を読む。西日が眩しくて、下を向いて歩いていたら塗装の禿げた白線が見えた。顔を上げると、小学生三人が白線をたどって歩いていた。敷かれた線の上しか歩けないルールの遊戯をしていた。黒いランドセルが少しだけ小さく見えた気がした。

 道端に何かの包装紙が落ちているのを見つけ、拾い上げる。必要がなくなって捨てられたそれに少しだけ同情する。手に持って少しの間道なりに歩いていると、公園を見つけたのでその包装紙をごみ箱に投げ入れた。

 こんな風に捨てられたらどんなに楽だっだろうか。剥がしてみた包装紙の中身に何も入っていないとしたら、包装紙を大切にするしかないだろう。僕だってそうだ、勝手につけられた包装紙を邪魔だと思って忌避していたのに僕の中身には何もなかった。どんなに優れた包装だって中身に価値がなければ無意味だ。


「そろそろ帰ろう。」


 そうつぶやいて、来た道を戻る。僕はもう戻れないのに。



「圭介、お帰り。」


「ただいま。」


 母親の声にそう答えて、リビングに入る。ソファに鞄をおいて、僕も座り込む。


「テストはどうだったの?」


「うーん、それなりには出来たかな。」


「珍しい、いつもなら『いつも通りだよ』って答えるのに。あ、そう言えばさっきお友達がお手紙届けてくれたわよ。」


「友達?手紙?」


「そこに置いてあるわ、中身は確認してないから安心して。」


 友達と言えるような人間が僕にいただろうか、そう思った。僕は封筒に入った便箋を取り出して中身を見る。

『あなたとチェスをしていたものです。お話ししたいです。図書室で待っています。』

 短く書かれた便箋の筆跡は紛うことなく付箋に書かれたものと一緒だった。


「どんな人だった?」


「うーん私にそれを渡してすぐに帰っちゃったから名前はわからなかったわ。女の子よ。でも、なんか見覚えあるのよね。どこで見たんだったかしら。」


「そう。」


 僕はそう答えて自室に戻る。

 一つ、疑問が思い浮かんだ。なぜ対戦相手の女の子は僕のことを知っているのか、それどころかなぜ僕の家を知っているのだろうか。

 僕の住所を知っている人間はそう多くはないはずだ。そう多くないというか、ほとんどいない。今まで通っていた各学校の先生くらいではないだろうか。では、これを届けたのは高校の先生方の誰かということになる。その中でも僕が図書室でチェスをしていたことを知っている人間は一人だけ、五十嵐先生だ。

 だが、この考えは否定される。なぜならこの手紙の筆跡は先生のものではないからだ。既に入学後に何度として授業を受けているからわかるが、先生はこんな字をしていない。なんというかもっとおおざっぱな字だ。きれいではないけれど僕らが読める最低限の文字といえばわかりやすいだろうか。

 少なくとも今目の前にあるこの手紙に書かれた文字は綺麗な文字だった。丁寧で、温かく、読む相手のことを想っている。そんな文字だ。というか、届けた人は女の子だった。五十嵐先生ではない。

 だがここで、僕には一つだけ住所を知る機会があった人間に思い当たる。

 悩んでいても仕方がないので、僕は携帯電話を取り出して電話を掛けた。うろ覚えの番号を打ち込んでコール音が二回耳に聞こえた後、電話は繋がった。


「誰?」


「吉野です。」


「お前なんで俺の連絡先知ってんだ?」


「始めて国語科に行った時に盗み見ました。」


 説教をされている間というのは暇なもので、部屋のいろいろなものに目が行くのだ。とはいっても、ちゃんと電話が繋がってほっとした。


「お前、まじか。」


「マジです。一応確認しますけど五十嵐先生ですよね。」


「いたずらか?俺忙しいんだけど。」


「へえ、明日は槍でも降るんですかね?」


「ぶっ飛ばすぞ。まあ、いいや。いたずらじゃないってんなら何の用だよ。こっちが忙しいのは本当だぞ。」


 耳を澄ませてみれば紙にペンを走らせる音が聞こえる。


「採点ですか。」


「そうだよ。今日やったテストの採点を一日でしろってんだからブラックだよな。やめてえよこんな仕事。」


「頑張ってください。」


「おう、ありがとよ。それで、何の用なんだよ。」


「僕、入学式の次の日欠席しましたよね?僕の住所を教えたのは誰ですか?家まで手紙を届けてくれたのは誰ですか?」


 住所を知っている人間についての心当たりは一つだけあった。あの日僕に手紙を届けた人間だ。先生は僕がお礼を言った時こういった。

『別に礼を言う必要はないぞ。』

 あの時の僕は謙遜の類から来た返答だと受け取ったが、これは別の人間に礼をしろという意味だったのかもしれない。


「へえ、ようやく気が付いたのか。これはいい変化だな。」


「もっとストレートに教えてくれても良かったんじゃないですか?」


「俺は生徒にすべてを教えるような勤勉な教師じゃないんでな。気づきを与えて、成長を促したかったんだよ。」


「気が付かなくて悪かったですね。」


「嫌味で言ったんじゃねえよ。それに、まだ余裕で。」


「間に合うとは?」


「こっちの話だ。その手紙を届けたやつについて、今回はヒントだけ教えてやるよ。」


「回りくどい。名前でいいでしょ、ほとんどの人のを覚えてないからヒント出してるのとさほど変わりませんよ。」


「いいや、名前は教えない。ヒントだけだ。あの日お前に手紙を届けたやつは吉野と同じ中学校だ。同じクラスでもある。それと、俺は別にお前の家の住所は教えてない。じゃあな、気張って探せよ?」


 そう言って電話は切れた。『住所を教えていない』どういうことだ?

 とりあえず僕はもらってから一度として開いていない卒業アルバムを引っ張り出して開いてみる。中学生のあどけない笑顔が映った体育祭や修学旅行の写真が見えた。顔を見ても名前も思い出せない同輩、なんだか赤の他人のアルバムを除き見したような感覚だ。あるいは有名人の写真集を見たような感覚だろうか。どこまでも他人事で対岸の火事そのものだった。

 自分の写った写真も見つけたが随分とつまらなそうな顔をしている。こんな奴と一緒の写真に写ってしまった不憫な奴は誰だろう。どうせ見たって誰かなんてわかりはしないけれど。そう思い、隣に映る生徒の顔を見る。


「おいおい、冗談だろ。」


 僕は一人でつぶやく。同級生のことなど一人として覚えていないはずだった。いや。それは事実だ。実際にこうやってアルバムをめくってみても覚えている人間など一人もいない、覚えてなどいないのだ。だって僕はその人間と、雨森雫とは高校で出会ったと思い込んでいたのだから。

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