終わりの始まり
「そろそろいい時間だ。秋葉、悟君を送って行ってあげなさい。」
時刻は十一時を回っていた。成人した人間相手にいい時間というほど遅い時間ではないが、すぐそこに迫っているテストのことを考えると遅くまで悟を引き留めるのも気が引けた。
「そうね。悟、駅まで送ってあげる。」
そう言って私が立ち上がる。悟もわざわざ長居はするまいといった様子で立ち上がった。
「こんな年頃の娘さんに送ってもらうのは少しだけ気が引けるけれど、お言葉に甘えようかな。」
「上着とってくるから、ちょっと待ってて。」
「じゃあ、悟君。一本付き合ってくれないかい?」
「ええ夏樹さん、よろこんで。」
そういって二人はベランダへと出て行った。ご飯を食べている途中に父の名前を聞いた悟は父のことを夏樹さんと呼ぶことにしたようだった。男同士の秘密の会話だろうか、後でどんなことを話したのか問いたださなければと思いながら私は外に出る準備をするべく自室へと向かった。
ハンガーラックから厚手のコートを手に取る。駅までの道のりはそこまで遠い距離ではないが、一月の寒さはなめてかかるには少し厳しい。風邪でも引いてしまったら授業に出れず、出る単位も出なくなってしまうので防寒には万全を期するべきだろうと思い、部屋着を脱ぎニット生地のセーターに袖を通した。
リビングへと戻るとベランダには煙草を吸う二人の姿があった。もしも彼と結婚して、実家に帰ったらこんな感じだろうか。きっと私のもとにはかわいい子供がいて一緒に悟と父の姿を見るのだろう。二人に禁煙をさせるために子供と一緒に作戦会議なんかをして、それでも煙草をやめない二人を子供と一緒に叱りつけるのだ。
笑いながら話す二人を見ながら自分の頭に未来を思い描く。付き合い始めて三か月と少ししかたっていない分際で何を偉そうに考えているのかと、一人で笑いそうになった。それでも悟と父の話す姿は今日初めて会ったとは思えないほどに自然で、いつまでもそこにあってほしいと思い描くには十分すぎるほどに美しかった。
悟が私のことを見つけて手を振る。窓を隔てただけの五メートルもない距離で大げさな人だ。私は『早くしろ』と声をかける。聞こえたわけではないのだろうが、悟と父は煙草の火を消して部屋に入ってきた。
「待たせちゃってごめん。」
悟はそう言って、荷物をまとめコートを手に持った。
「いいえ、お父さんとずいぶんと楽しそうに話してたじゃない。」
「夏樹さんはやさしいし、いろんなことを知ってるから話してて楽しいんだ。」
「秋葉、そんな顔するなよ。別に秋葉から悟君を取り上げようって訳じゃないんだから。」
「そんな顔ってどんな顔よ。」
「大好きなおもちゃをとられて拗ねる子供みたいな顔だよ。」
「そんな顔してない。」
そういって私がそっぽを向くとキリ君が足元によって来た。
「ほら、キリ君も秋葉のこと慰めてるんだよ。『悟君がいなくても僕がいるよ』って。」
足元のキリ君を撫でるとゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「あ、そうだ悟君。」
「なんですか夏樹さん。」
「呼び方なんだが、『お義父さん』でかまわないよ。また、いつでも来なさい。」
それを聞いた私と悟が顔を見合わせた。悟の顔には安堵があった。すごく嬉しそうな顔をしている。
「はい、お義父さん。また来ます。」
「じゃあ、行くわよ。」
そう言って私たちは家を出た。
帰り道を歩きながら悟に話しかける。
「お父さんとタバコ吸いながら何話してたの?」
「何でもない話だよ。本当に取るに足らないような。」
「本当に?男同士の秘密の話でもしてると思ったのに。」
「まさか。あ、でも」
「でも?」
「『秋葉を頼む』って言われたな。秋ちゃんのほうがしっかりしてますよって返したけど。」
「そのとおりね。最適解だわ。」
「そこはもうちょっと謙虚でもいいと思うよ。」
悟はそう言って笑っていた。ほどなくして駅に着き、またねを言おうとしたとき今週の金曜日が学期の最後の金曜日だったことを思い出した。
「私、授業があるから今週の金曜日は喫茶店に行くのが遅れるからよろしく。」
「おっけー、マスターと話でもしながら待ってるよ。」
「そうしてちょうだい。じゃあ、またね。」
「うん、また。」
手を振りながら言う悟に手を振り返した。悟は私に背を向けてホームへと歩いて行った。その姿が見えなくなるまで私は手を振り続けた。
________________
翌金曜日、九月ぶりの講義室に私はいた。講義室の教壇には件の教授が立っていた。少し早めに教室についたつもりだったが留年がかかった科目というだけあって皆が同じ考えをしていたようだ。講義室には多くの人がいた。続々とはじまっているテストの影響でノートや教科書を開く者やそれを写す者、諦めか余裕かわからないが春休みの予定について話す者など様々だった。授業が始まるまで時間があるので私もそれに倣ってノートを開きテスト勉強をすることにした。とはいっても、ほとんどの範囲の復習はすでに終えていたのでノートをペラペラとめくりながら自分の記憶が確かであることを確認する程度だったが。
そして授業が残り3分で始まるというタイミングで私の携帯電話が鳴った。電話をかけてくるような人間は私の交友関係の中では悟か父くらいしかいない。どちらだろうかと思いながら携帯電話の画面を見ると、そこには私の住んでいる地区の聞きなれた総合病院の名前が書かれていた。
嫌な予感がした。電話をとる。
「はい、もしもし。」
『桜庭秋葉さんですか』
「はい、そうです。」
平静を装う。悟に何かあったのかもしれないと思った。病院に行く用事というのは検査のことで、何か大きな病気が見つかったのかもしれない。
自分の心音が聞こえた。どんどんと早くなるそれを無視することができない。
「悟に何かあったんですか。」
『悟?いえ、違います。』
内心で少しほっとする。しかし、それが悟についてでないというのなら残る答えが一つだけだということに私は気づいていなかった。
『落ち着いて聞いてください。あなたのお父さんが、桜庭夏樹さんが脳卒中と思われる症状で倒れました。できる限り早く当院に来てください、時は一刻を争います。』
頭が真っ白になった。医師と思われる電話口の男が発した言葉が単語ごとにばらばらになり、頭の中を縦横無尽に駆け回る。
そして数秒が経ち、ようやく今どうすればよいのかがわかる。財布と携帯は手元にある。立ち上がって私は走り出した。急げ、私に何ができるでもない、でも急ぐのだ。
講義室を飛び出す私の背中に教授のものと思われる声がかけられたが、そんなことを気にしている余裕はすでになかった。
気付けば私は病院の手術室前の椅子に座っていた。あの電話からどれだけの時間がたっただろうか。外はすでに暗くなっていた。手術中という文字のランプが廊下を照らしていた。先ほど医師から何か説明を受けたような気もする。しかし何を言われても何も頭に入ってこなかった。一体何が起きているのか。今日の朝まで元気に話していた父がもう帰ってこないかもしれないという事実をいまだに受け入れることができていなかった。私にできることは祈ることだけだった。ひどく心細い。まるでこの世に私しかいないような感覚に陥っていた。
そのとき私の携帯電話が鳴っていることに気が付いた。画面を確認すれば『悟』という表示がそこにはあった。病院内での通話はご法度であるというのはわかっていたが私はその電話に出た。
『もしもし、秋ちゃん?なにかあったの?連絡がないから心配になって。』
その声をきいて涙が出た。一緒にいてほしい、ただそこにいてほしかった。病院に来てくれとそう言おうと思った。
「悟、助けて。」
しかし口からこぼれたのは全く要領を得ないぐしゃぐしゃの声で紡がれた救難信号だった。
しかしそれを聞いた悟の行動は早かった。
『わかった、必ず助ける。どうすればいい?』
「病院に来て、」
そう言って私は今自分がいる病院の名前を口にした。
『すぐに行く。俺が行くからもう大丈夫。』
そう言って悟は電話を切った。頼りがいのある声ではなかったし、根拠なんて一つもない。それでもその『大丈夫』に私はひどく救われた。
ほどなくして悟が到着した。走ってきたのか息も絶え絶えの彼が下を向く私に声をかける。
「状況は?」
「お父さんが脳卒中で倒れたの。今その部屋で手術してる。」
「、、、そうか。きっと大丈夫だよ。」
そう言って悟は私の手を握った。その手はひどく暖かかった。もう涙なんて枯れるほど流したのに、それでも私の目からは涙がこぼれた。
手術室の扉が開きテレビで見たことのあるような衣服に身を包んだ医師と思われる男が出てきた。私はすぐさま声をかけた。
「父は、夏樹はどうなりましたか。」
「最善はつくしました。」
「じゃあ助かったんですか?」
そう言って医師の顔を見た。医師の顔は晴れやかなものではなかった。そしてそれが答えだった。
「一命は取り留めました。命だけですが。」
言っている意味が全く持ってわからなかった。
私の気持ちを代弁するように悟が尋ねる。
「助かったなら助かったと、そう言ってください。」
気まずそうな顔をすることもなく、恐ろしいほどに平静な意思が口にした答えは黒でも白でもないものだった。
「命はつなぎました。ですが、眼を覚ますかどうかわかりません。おそらく夏樹さんの今の状態は、植物状態といわれるものに該当します。」
その言葉を聞いてもいまだに状況が見えない。
「目を覚ますかどうかはわかりません。明日の朝、目を覚ましてもおかしくないし、いつまでも眼を覚まさなくてもおかしくはない。そんな状態です。」
目の前がブラックアウトしていく。
途切れる前の意識に悟の声が聞こえた。
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