私はその日も煙草を吸いに出かけていた。

 その日は朝から曇天で、天気予報でも日付が変わるころには雨になるだろうと言っていた。しかし曇天だからと言って涼しいわけではなく、いつから夏になったのだろうという気温と不快感のある蒸し暑い日だった。

 ほどなくして彼女が姿を現した。

 いつも通りに少しけだるげで、それでいて華憐とも呼べるその振る舞いは出会った時から変わっておらず、はかなげに輝いていた。この人が今から煙草を吸おうというのだから人は見た目によらないのだと実感する。


「見つめちゃってどうしたの?」


「いえ、何でもないですよ。強いて言えばパーカーを羽織っていたので熱くないのかなと。」


 きれいだったのでつい、と口にするか迷ったが、以前に外見をほめた際にすねられたことを思い出し、とっさに話を変えた。


「意外と熱くもないのよこれが、下はショートパンツだし。御心配には及ばないわ。ありがとう。」


 楽しそうに彼女は一回転して見せた。部屋着と呼ぶべき薄さのショートパンツからのぞかせる陶器のように白く、容易く手折れるのではないかというほどに細い脚は扇情的でありながら上品さを兼ね備えていた。


「僕としては目のやり場に困りますが。」


「あら、全くそうは見えなかったけどね。」


 そういいながら彼女はにやりと笑った。


「今度からはもっと露出の低い格好でお願いしますよ。健全な青年のために。」


「健全な青少年ね。もう大人でしょうに。」


「二十歳になっただけで大人になれるなら世の中もうちょっとましですよ。」


「そのとおりね。毎年成人式の日のニュースを見てると悲しくなってくるもの。政治家とかを見てるとこの国のご老人にも期待はできないし、若者もダメとなったらもうこの国は救えないわ。前門の虎後門の狼とはこのことね。」


「心配させるような若者は狼なんて呼ばれてうれしくなってしまいそうですけどね。」


「そうね、江嶋君の代で情けない世代は終わりにしてくれるかしら。」


 自分の名を呼ばれて少しむず痒い気分だった。昨日名前がばれた(隠していたわけではないのでこの表現は不適切だが)のだから当然のことなのだが。


「そうしたいのはやまやまですが、僕一人の力じゃなんとも。」


「あなた一人が動けば何とかなるものではないでしょうけど、何か行動するだけで変わるかもしれないわよ。風が吹けばなんとやらっていうじゃない。」


「桶屋が儲かる、あるいはバタフライエフェクトみたいな感じですか。」


「そういうこと、それよりもマッチ貸してちょうだい。」


 私は自分の煙草に火をつけた後それを投げ渡す。

 彼女の口から煙が舞い、お互いに一息ついたと言わんばかりにベンチに座る。

 少しの沈黙のあと、私が口を開いた。


「聞いてもいいですか?」


「いいわよ、答えるかは別だけど。」


「名前です。あなたの名前を教えてください。なんて呼べばいいかわからなくて困ってたんですよ、出会った時からずっと。」


 きっと彼女は今日それを聞かれると思っていたのだろう。やっぱりね、と言わんばかりの顔をして私に言った。


「何でもいいわ、好きなように呼びなさい。」


「そういうことじゃなくてですね。」


「でも、ここで私が本名を名乗るとは限らないわけだから一緒のことじゃない?」


「そう言われちゃったらそうですけども、ペットに名前を付けるわけじゃないんですから。」


 付け加えるように私が言う。


「それに、僕はあなたの名前が知りたい。それが偽名だったとしてもかまいませんよ。自分の信用が足りなかったんだと思って諦めます。」


 彼女は少し考えこんで煙草をふかした。


「いや、やっぱり教える義理はないわ、いやよ。なんとでも呼びようはあるでしょう?おばさんとか、ご婦人とか。」


「呼ぶとしても、お姉さんとかじゃないですかね?」


 もしかして、私って嫌われているのだろうか。かたくなに教えてくれない彼女と真剣そうな表情を見ながら私はおもった。嫌われるようなことをした覚えはないが、いつだって嫌われる側はそんな理由は思いつかないものなのだ。


「念のため言うと、あなたのことが嫌いなわけじゃないのよ。むしろ好ましく思ってるわ。それでも名乗るわけにはいかないの。」


 しかし私は今回に限り切り札を持っている。勝算なく勝負に挑むほどあほではないのだ。今日しっかりと名前を教えてもらうと私も決めているのだから。


「あなただけ、私の名前を知っているのはフェアじゃないと思いませんか?」


「それを引き合いに出されると少し苦しいわね。それでもいやよ、そんなのにフェアもくそもないわ。」


「それでも、僕の名前に関しては僕が名乗ったわけじゃないんですよ?」


 彼女が困ったような顔をした。あと一押しで行ける。しかし、勝手に画面をのぞき込んだ彼女の両親の呵責に賭けるという切り札は切ってしまった。煙草の火を消し、最後のあがきをすべく口を開いた。


「じゃあ、勝負をしませんか?」


 明らかにクエスチョンマークを浮かべた顔をした彼女が聞き返す。


「勝負というと?」


「今から吸うたばこの火が消えるまでに雨が降るか否かです、雨が降ったら名前を教えてください。どうです?」


 彼女は驚いた顔をしていた。いや、少しだけ違う。彼女は今までに全く見たことのない顔をしていた。それを形容する言葉を私は知らなかった。それでも一番当てはまる言葉を選ぶとすれば驚愕という言葉が適切であると思う。

 我に返ったように彼女は笑って言った。


「しょうがないわね、今回は受けて立ってあげる。でも、いいの?そんな勝負の内容で。たぶんこれが、私の名前を聞ける最初で最後のチャンスよ?」


 最初で最後か、悪くない。私はそう思った。

 そして答える。


「神様に身を任せてるみたいで素敵じゃないですか?それに僕、昔からこの手の勝負で負けたことないんですよ。」


「あら、言われてみればそうね。でも私、」


 彼女と私はにやりと笑った。


「神様って信じてないのよね。」


 その時の笑顔は、僕の知る限り一番魅力的な表情だった。


 ___________________


 慣れた手つきで私は煙草に火をつけた。これからおおむね十分間というのが煙草を吸い終わるまでにかかる時間だ。


「天気予報だと日付が変わるころに雨が降りだすみたいよ。ちょっと私に分が悪いんじゃない?」


 携帯で天気予報を確認した彼女が聞いてきた。時刻は23時42分を指している。


「雨そのものは降るでしょうけど、今から約十分以内に降るかどうかって勝負なら条件はイーブンじゃないですか?」


 煙草をふかし、一息つく。手元にある煙草はやけに頼りなく見える。


「煙草ふかしたら火が消えるの早くなるわよ、余裕ね。」


「余裕ですよ。僕は自分が勝つって信じてますから。」


「大層な自信ですこと。」


 そういって煙草に火をつけた。煙を吐く彼女をみながら天に祈る。気分は太古の時代に雨ごいをする巫女である、あるいは砂漠でオアシスを求める遭難者か。

 それから少し沈黙が続いた。二人で空を見上げながら煙を吐いていた。いつまでもこのままでいられたらいいのにと、他愛のないことを考えていた。彼女は何を思っているのだろうか。ふと、彼女の横顔をみると、少しだけ悲しそうな顔をしていた。



 ___________________


「あとどれくらい?」


 彼女は尋ねる。


「1.5センチってとこですかね。」


「あら、もうすぐ私の勝利ね。」


「そう思いますか?」


 私は今この瞬間でも自分の勝利を微塵も疑っていなかった。


「言い訳は聞いてあげないから、素直にあきらめてね。」


 煙草の火を消しながら彼女が立ち上がる。


「傘を買わないで済みそうで私としては良かったけれど、江嶋君としては残念な結果になりそうね。日頃の行いかしら。」


「悪いけど、そろそろ来ますよ。」


 その言葉を合図にするかのように雨が降り出した。ぽつり、ぽつりとアスファルトの色を変えてゆく。隣にいる彼女は空を見上げていた。

 私はお役御免となった煙草を一吸いして火を消した。


「信じられない。」


 彼女がつぶやいた。


「僕の勝ちですね。」


 私は彼女にそう告げた。彼女は私の顔を見ながらため息を吐き、ポケットからセブンスターを取り出した。


「火を貸して。」


 私はマッチを取り出し彼女に投げ渡した。彼女は煙草に火をつける。喫煙所の軒下から出て雨にさらされながら私を見つめた。


「本当に降るとはね、私の負けよ。」


「言ったでしょう、この手の勝負で負けたことないって。そして今日も勝ちました。それだけですよ。」


「本当にそっくり。何もかも。」


「誰にですか?」


「いいえ、こっちの話よ。名前だったわね。教えてあげるわ、私の名前は桜庭さくらば秋葉あきは。春に咲く『桜』に『庭』、春夏秋冬の『秋』に枯れ葉の『葉』で桜庭秋葉よ。」


「そうですか。ありがとうございます桜庭さん。僕も改めて名乗ります。江嶋拓馬です。これからもどうぞよろしく。」


 その時の私はいったいどんな顔をしていたのだろうか。まったくもって想像もつかない。嬉しそうな顔だろうか、笑っていただろうか、存外照れたりしていたかもしれない。なんにせよその時の私にわかったことは、彼女が笑っていたこと、そして少しだけそれが寂しそうに見えたことだけだった。

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