2段目とばして3段目
「改めてあなたに問いましょう。あなたは何を望むの?」
天使は悠然とした微笑みを浮かべながらまるで私を迎え入れるかの如く、両手と翼を広げ、幾度目かになるこの問いかけをするのだった。
「わ、わわ、わた、わたた、し、私、は……」
開けっ放しになっている口をなんとか動かそうとするが、どうにも上手くいかない。それとは反対に眼だけはしっかりと彼女の姿を捉えて放さなかった。いや、これはこれで上手く働いていないのかもしれない。見蕩れて、見惚れて、まばたきすら忘れてしまうぐらいに私の眼前を優雅に、軽やかに宙に浮いている天使の彼女。それは触れてはいけない非現実的な、それこそ私の妄想に出てくるような存在のようで、まるで私の現実が麻痺を起しているみたいだ。幻想や幻覚を見ているようで恐ろしくも嬉しい。それにしてもただでさえおいさらばえたと身に染みて思い知らされていたのに、さらにここまで役に立たないものになれるとは思ってもみなかった。現在がどん底だと考えていたのだけれど、どうやらそこから先に穴を掘って突き進むほどの余裕があったようだ。驚くべき事実だ。この歳になってある意味での可能性を知ったわけだ。この場合の可能性は悲観思考極まりないのだけれど。
「どうしたのですか?」
先ほどまで威勢よく雄弁だった私の口先が急に鈍くなったのを不思議に思ったのか、天使は首を傾げていた。なおも私は言葉を紡ごうとしたが、まるで駄目だった。
「今、あなたが本当に望むことを言えばいいのです。気兼ねなく、心からやりたいことをあなたの口から直接私は聞きたいのです。それだけのことをあなたはやってきたのですから」
天使は諭すように、優しく私に囁く。それがどれだけありがたいことか。そういえば、胸に温かさを感じるのはいつ振りだろうか。少しばかり己の人生を顧みたような気がした。
「……今、私が望むこと。やりたいこと」
するりと言葉が出た。もごもごとそれらの言葉を繰り返した。恐らく呟きにすらなっていないこともあっただろう。ふと、天使に視線を移した。彼女は地に足がついていないからか、忙しなくぶらぶらと足を動かしていた。その様子を見て、私は心を決めた。普段ならばそのような感情は心に留めて霧散するまで放置しておくところだが、今回に限りそれを良しとせず、外に出すことにした。言葉を、自分を出すことにした。
「――――たい」
「ん?」
「私は――あなたを書きたい!」
「……へっ?」
彼女は実に間の抜けた声を発した。今まで少女らしからぬ態度をとっていた彼女は、ここで初めて年端のいかない少女らしい表情を見せた。そこで改めて私はしっかりと、はっきりとした口調でこう言い直したのだった。
「私にあなたを書かせてほしい!」
「……………………あー、えっと、どういうことでしょうか、それは」
彼女はしばらく呆然としていたが、咳払いをして毅然とした態度を取りなおした。それがなにより可愛らしい。私は緩みそうになる目尻と口をきゅっと絞った。卑猥な爺と思われたくなかったからだ。少女を目の前に老人が緩やかな笑みを浮かべる。孫と祖父が戯れている微笑ましい光景ではないか。もしくは実に犯罪的な光景ではないか。しかし私と彼女は先ほどあったばかりの縁。似ている要素もくるりと捻った髪ぐらいで、後は似ても似つかない。これでは誰も祖父と孫とは思うまい。何より可憐な彼女とおいぼれの私を同一視するのは彼女にとても失礼だ。そして後者の場合は洒落にもならない。言葉にするのもおぞましい。どちらにしても御免被る。だから私は自制しなければならない。自制して、こう言うしかないのだ。
「私は裸の君を書きたいのだ!!」
「はだかぁああ?」
彼女は素っ頓狂な声を発して床に墜落した。翼が生えている背から落ちたのでそれがクッションとなって衝撃はそこまでないようだった。のっそりと立ち上がったかと思うと急にこちらをキッと睨み、
「何を言っているんですか、あなたは!」
と、怒鳴った。私はその様子を見て安堵した。彼女の素晴らしい柔肌に傷でもついたら大変だ。それにしても彼女は威厳も一緒に落としてしまったみたいで、癇癪を起した子供のように感情を剥き出しにしていることが私を大きく戸惑わせた。どうして彼女はここまで怒っているのだろうか。
「何って……。だってあなたが私のやりたいことを、望むことを言えとおっしゃったではないですか。私はただそれを忠実に従って行動したまでです」
「だからって限度というものがあるでしょう。まったく、けがらわしい! 大体、あなたは偉大な小説家を目指しているのでしょう。何故それを願わないのですか」
「確かに私は偉大な小説家になりたいと言いました。だからこそ、私はあなたを書きたい」
「だからそれが理解できないというのです。先ほどまでの熱弁は嘘だったとでも言うのですか!?」
「まさか。あの言葉は真意ですよ」
「ならば――」
「ゆえに、私はあなたを書きたいのです」
「ああ、もう!!」
彼女は地団駄を踏んだ。翼もそれに呼応してか、ばさばさと荒ぶる。怒り震える主から逃げるように抜け出た羽根たちは無秩序に散らばり、有象無象の衆とかして辺り一面を埋め尽くす。
「訳がわからない。本っ当に腹立たしい! これだから人間は!! 曖昧な癖に変に頑固で。繊細かと思ったら大胆で、柔軟かと思ったら融通が利かない。私には人が理解できない」
白々しいまでの頬を真っ赤に染めて、彼女は憤慨していた。
「かっはっはっは」
私は彼女のそんな様子を見て、思わず笑ってしまった。それはもう満面の笑みだ。腹を抱えるとまではいかないが、目許に涙が溢れてくる。笑い過ぎて咳き込むほどだ。それがさらに彼女の頬の色合いをより濃くさせることだと分かってはいたものの、どうにも止めることができなかった。案の定ではあるが彼女は、
「何を笑っているのですか!」
ますます声を荒げて地団駄を踏み、逃げ出る羽根たちの数もますます増えるのだった。私は溜まった涙を指で軽く拭うと、
「いやー、なに。大したことではありませんよ。まあ、でもあなたには分からないことではないでしょうかね」
と嘯くのだった。
「それはなんですか、私が阿呆とでもいうのですか!」
彼女は今にも襲い掛かってきそうな剣幕で怒鳴りつける。
「くっくっく」
さすがに明瞭な笑い方こそしなかったが、忍び笑いがつい漏れ出てしまう。
面白きことこの上ない。
彼女は人間を、私を理解することは一生できないだろう。天使の一生がいかほどあるのかは知らないが、それだけは確実に言える。
だがそれでいいのだ。
彼女は、それがいいのだ。
私たち人間を理解できないからといって私が彼女のことを侮辱するかといえばそうではなく、むしろますます好感を強め、崇拝すらするだろう。神さえ信じない私が、天使は信じることになるだろう。信じて敬うことになるだろう。彼女は我々人間を理解する必要はないのだ。彼女の存在は我々人間とは格が違う。生きているステージが違う。彼女は私の妄想に登場する人物たちのようにピュアで、そして決して汚してはいけない存在だ。現実に汚されることなどないのだ。わざわざ私たちと同じ位置に堕ちることなどあってはならない。そもそもこうやって相対していることさえ奇跡のなせる業だと私は思う。それこそ、神のなせる業だと思う。だからこそこの奇跡を使って、私は裸のままの彼女を書きたいのだ。先ほどはいきなりで戸惑ってしまったが、今ならはっきりと言える。この彼女を見たかったのだ、と。今のような、素の、天の使いであることを意識せず、感情の赴くまま、自然体であるあなたという確固たる個を書きたかったのだ。それほどの価値が彼女にはある。私が長年思い描いていた理想――つまりは私の妄想に近い、いやそれ以上の、予想外で想定外の至高とでもいうべきか。もう彼女と同じ存在など二度と私の前に現れることはないだろう。老い先短いこの身でもあるし、今までも出会うことがなかったのだ。これからもそんな幸運が訪れるなんてことはないだろう。また出会えるなどと、そこまで楽観的になるには私は多くの別れを経験し過ぎた。だから今のこの機会しか私には残されていないのだ。
「もう知りません!! いかに神に言われたこととはいえ、あなたのような下賤の輩のことなど私には関係ありません。私、帰らせていただきます」
どうやら彼女は怒りの限界点を通り越したらしく、今にも飛び立たんとしている。
「ちょっとお待ちください。それは困ります」
私は彼女の衣を掴んで引っ張り、なんとか飛び立つのを阻止した。どうやら衣の強度があまり高くないのか、彼女は無理矢理飛んだり、引っ張り返したりはしなかった。代わりに、
「それこそ知ったものですか。むしろ困りなさい、このケダモノ! 人間の屑!! あー、すみません間違えました。人間自体がそもそも屑でしたね。私としたことが言葉を誤りました。訂正しますね――この屑以下の塵が。ちなみにこの発言に対しての誤り、ましてや謝りは絶対にありません」
などと、罵倒を私に浴びせかけるのだった。背筋に奇妙な感覚があった。それは虫が這いあがってくるような、痺れるようなそんな感じだった。よく分からない奇妙な感覚に手の力が緩みかけたが、逃がしてはならないという強い思いから残り少ない歯を食いしばる。それでどうにか衣を離すのだけは免れた。だが、このままではいずれこの手を離してしまい、彼女に帰られてしまう。だから私は彼女を宥め、説得することにした。
「落ち着いてください天使様。とりあえず、どうして駄目なのか教えてもらえないでしょうか」
「それは当たり前でしょう。その……なんか倫理的に」
口ごもりながら彼女はそう言った。
倫理的に?
それは一体どういうことだろうか。どうして彼女の自然体を書くことが倫理的な問題に繋がるのだろうか。私には不思議でならない。
「しかし願いを叶えるとおっしゃったのはそちらですよ。天使というのは一度言ったことを違えるものなのですか?」
「まさか! それはあり得ない。神に誓ってもいいです」
「ならば我が願いを叶えることに何ら問題はないではありませんか!」
「それは……てっきりあなたの願いが偉大な小説家になることを前提とするものだと高をくくっていたから――いや、何でもありません。とにかくあなたの変態的な願いには付き合い切れません。諦めて違う願いにするか、願い自体を失くしてしまうか。そのどちらかです」
「むぅ……」
このままでは埒があかない。
そう思った私は少々説得の方向性を変えることにした。
「そういえば話は変わりますが」
「……なんですか急に」
如何にも不自然な話題転換だったので、彼女に少々警戒されてしまったようだ。不審そうな顔をされた。
「先ほどあなた様は神に言われたから、といった塩梅の話をされましたが、これはどういう意味ですかな?」
「……それをあなたに言う必要はないです」
これまで怒鳴りつけたり口調が荒くなることはあったが(まあ、どれもこれも私が悪いようなのだが)、その中で投げかけられたどの言葉よりもこの時の言葉は重く、そして冷たかった。
これは当たりだな、と私は思った。
「ああ、それもそうですな。失礼しました」
しかしここで押すことはせずに、一端引くことにした。核心を一気に突いて逆上されても困る。
「正直、無理な願いだとは分かっているのです。私のようなもの相手に身を任せるなど、到底できるものではないでしょう。しかし、それを承知で私は頼みたいのです」
地べたにおでこをこすりつけるように私は頭を下げた。
「……ふん、無様ですね」
私からは見えないが、恐らく彼女は軽蔑の眼差しで私を見下ろしていることだろう。
本当に無様だと思う。
だが、今更誇りなどいらぬ。
願いを叶える――その大事の前では実に下らない。そもそも何かを成したことによって誇りは産まれるものだと私は思う。そういう意味では私はまだスタート地点にすら立っていないのだ。
私は頭を切り替えることにした。
現実と、妄想を入れ替える。
夢と現を行き交う私だからこそできる。
おいぼれのじいさんから――あらゆる事件を冷静さと理論によって、些かニヒルに振る舞いながらも解決へと導く、そんな存在。そう、今の私は名探偵なのだ。
「――ところで」
「もういいです。あなたが何と言おうと、何をしようと私の意志が変わることはありません。あなたの下衆な願いは取り下げです」
「まあ、そう言わずに。それに今から話す内容は私の願いのことではありません。例えば――そう、これは仮定の話。このおいぼれの達者な妄想力を働かせた戯言だと思ってください」
彼女は怪訝そうな表情を見せた。だが、私の話を遮ろうとせず、ふわりと飛んで足を組み、手に顎をのせながら説教台に座った。どうやら彼女の興味は引けたようだ。
「あなたは先ほど神に言われて――といったようなことを言いました。まあそこはさして問題ではありません。あなた方天使は元より神の使いと、我々人間たちの中では呼ばれております。そんなあなた達のことです。神から何かしらの使いを仰せつかったのでしょう。だからこうしてこのようなところにいる。まあ、そんなこと関係なくやって来る物好きな方も、もしかしたら天使の中にはいるかもしれないですが。それでも大抵は使命として降り立つことでしょう。勿論、あなた様がその『物好き』だとしたら話は代わりますが」
ここで一度話を止め、彼女の様子を窺った。すると手に顎をのせたまま、ぷいっと横を向いてしまった。横からだけでも不機嫌なのが見てとれる。どうやら物好きは意外と多いらしい。天使でいることに誇りを持ち、かつ人間が嫌いな彼女にとってそれはあまり面白くないことなのだろう。そして自分がそれらと同類扱いされたこともまた――などと邪推してみる。確認はしない。あまり機嫌を損ねすぎると話を聞いてくれないどころか本当に帰られてしまうだろうから。
閑話休題。
話を戻そう、いや話を続けよう。
「つまるところ、天使であられるあなた様は神に何かしらの『使い』を頼まれたのでしょう。それが何なんのかまでは今の段階ではあまりにも情報不足ですので私には分かりません。ですがここで私が重要視するのは『what』ではないのです。現在注目すべきなのは『why』――つまり、なぜ? です。なぜ、の問いに関して既にあなたは答えをご自分で言っておられます。そう、それが『神に言われたから――』というあの発言ですね――そして」
「話が長い。要するに何が言いたいのですか?」
彼女は結論を急かす。
「わかりました。私としては分かりやすく話しているつもりだったのですが、まあいいでしょう。それでは少々掻い摘んで」
軽く咳払いをしてから私は言った。
「つまり、神の使いで私の元へ来たと仮定すると、もし私の願いを断ったらあなたは堕天します、以上」
「何故そうなった!?」
いつの間にか私のところへ近づいていたかと思うと頭を叩かれた。しかし、まるで痛みを感じなかった。
「いや、だってそうでしょう。使いが嫌だってことは、それ即ち神の意向に逆らうってことではないですか。つまり堕天させられるでしょう、そんな天使」
「いやいやいや! 神はそんなに狭量な方ではありません」
「そんなもの知りませんよ。だって私は神を見たことないのですから」
ましてや、
「――いるかどうかも怪しいものですよ、神なんて」
「なっ!! 侮辱とみなしますよ!」
「まあまあ。そんなに顔を真っ赤にしなくてもよろしいではないですか。ただの人間の戯言ですよ」
「いいえ! 例えあなたの発言を神が許したとしても――恐らくそうなることに違いないですが、けれど私は絶対にあなたを許しません!!」
「なるほど。どうやら神は器が大きい方のようだ。少なくともあなたよりは」
「――っ!」
彼女は悔しそうな表情を浮かべたが、私の発言を否定することはしなかった。否定すると逆に神の器が小さいと肯定してしまうことになるからだ。
ふむ。どうやら私のペースだ。そろそろ畳み掛けるとしよう。
「ならば、同じ天使ならばどうでしょう」
「どういうことですか?」
訝しげな顔をして、彼女は問い返してきた。
「例えば、同じ職場の者が職務を放棄したと聞いてどう思いますかね。しかもその理由が嫌だからというだけで」
「それは――」
と、何かを言おうとしたが結局彼女は二の句が継げなかった。どうやら思い当たることがあるようだ。
「恐らく、我儘な奴だと思われるでしょうね。そうなってくると慈悲深い神がいくら許したとしてもその辺りが黙っていないでしょう。そうなってくると神としてもけじめをつけなくてはならなくなります。一人だけ贔屓をしてはいけないですから。神として。だから堕天するしかなくなる。いやー、怖いですね。本当に怖い。私が関係作りで最も慎重になって、怖いと思うのは上の立場の者よりも同じ立場の者ですね。そこを敵に回すと守ってくれたり徒党を組んだりすることができませんからね」
「…………」
彼女は黙り込んで、愕然としているようだった。
どこの世界も環境も、変わらない。根本的に。根幹的に。何も変わらない。
だからこそ私は妄想という世に影響されぬものを心に抱くのだ。
彼女は呆けたまま、ぴくりとも動かくなった。
先ほどの私もこうだったのだろうか。
そう思いながら、このまま時間が過ぎるのを待つのも何だったので、
「……堕天使」
ぼそりと聞こえるようにわざと呟いた。すると、
「うっ」
しかと彼女の耳に届いたようで一瞬怯んだ。そして悔しそうに、身悶えしそうなほど歯痒い表情を浮かべて、
「ああもう、分かったわよ! 書きなさいよ、書けばいいじゃない!!」
と、半ば投げやりなりながらも彼女は確かに承知してくれた。
よし。
そこで私は目を閉じ、頭の中の現実と妄想を入れ直した。現実の私が帰って来る。そして今までの自分の行動発言を思い出し、多少の罪悪感に蝕まれた。今更ながら少し強引だったかなと反省した。これは詫びの言葉をかけなければと思ったところで、目をかっと見開く。すると驚くことに彼女はなぜか急に服を脱ぎだしているところだった。あまりの衝撃に咄嗟の言葉が出ない。そんな私の代わりに消え入りそうな声で彼女はこう言った。
「……綺麗に書いて、ね」
あぁ。私は今日、死ぬかもしれない。
そう思いながら愛用のペンと本をしっかりと持つのだった。
私の手はもう、震えることはない。
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