第5話 2018/12/31 大晦日閑話 ~そば打ち~
諸君、突然だが蕎麦は好きだろうか?
私は好きだ。
うどんも好きだ、パスタも好きだ、ラーメンももちろん好きだ。
しこしこのうどんは冷やしても温めてもうまいし、パスタは濃厚なソースとの共演において最上、脂と出汁を楽しめるラーメンは奇妙な中毒性をもって我々を魅了する。
おっと、別にどれかに優劣をつけることはしていないよ?
麺の好みを競わせてしまうとそれはもう戦争にしかならないので、全部好きということで握手を。
さて、そんな中で蕎麦の魅力を語るとすれば、やはりそれは香りだろう。
蕎麦の香りを説明するとリパーゼ活性やら揮発性アルデヒドなどといった小難しい話になるので割愛するが、あの香ばしさの中に清涼感のある独特な香りは、一度食べたらもう逃げられないほどに惹きつけられるものがある。
ただ惜しむらくは、蕎麦を食べる日本人の姿が外国人にはあまり受けが良くないということか。
麺をすするという行為によって立てられる音が下品だと思われるからだが、日本人の立場から言わせてもらえば、蕎麦はすする際の口に入る空気も味わいとなるのであって、よその国の人間の気分でわざわざ味の落ちる食い方をなんでしなきゃならんのかと。
他の国でならまだしも、日本で食べるときぐらい好きに食わせろ!
…失礼、少々取り乱した。
俺、反省。
少し話がそれたが、そんなわけで、俺の蕎麦に対する情熱は並々ならぬものがある。
異世界に来て何度か年を越した中で、やはり年越し蕎麦を欠いていたことを何度も惜しんでいた。
だがそれも今日までだ。
今俺の目の前に広がる一面の白い花。
ペルケティアとアシャドルの国境近くのとある村、そこある畑の一画を借りて俺が二年がかりで土から育て上げた蕎麦畑だ。
この世界にも植物としての蕎麦自体は一部の地域で人の手によって栽培されていた。
しかしそれは家畜の飼料用としてであって、人間が食べる用ではない。
種用を覗いて大半は葉の状態で家畜に与えられるため、実が出回ることは極めて少ない。
なんとしても蕎麦を食べたかった俺は、実まで育てたものを買い取ると申し出たのだが、向こうも家畜の飼料用として量が必要であるため、育てるなら自分でやれと種を分けてもらった。
そうまで言われては農家としての魂が奮い立つもので、早速農地探しから始めた。
十分な水と日光が確保でき、かつ土の状態もと条件を求めればきりがないため、とりあえず米作りの延長でベスネー村を頼ってみたが、今村の周りの土地はほとんどが田んぼとなっているため、貸せる土地はあまりないとのこと。
別に村の近くではなくてもいいから適当な場所を勝手に使わせてもらおうと思ったが、畑につきっきりにできない職業である俺は、やはり管理も人の助けを必要とするため、あまり人里から離れた場所に作るのもまずいと助言を受けた。
そこでベスネー村の村長の紹介を受け、先の村で蕎麦畑を作ってみたというわけだ。
空いていた農地を借り、土魔術で一気に耕すとまずは堆肥を使った土作りからはじめ、最初の一年目は種から実、実から種と数を増やし、二年目になってようやく十分な量の蕎麦の花が育ってくれた。
ここまで実に長かった。
蕎麦自体は日本の減反政策の廃止による転作で作る人間も増えていたが、自分は本格的に手がけていなかったため、酒の席で聞いた話を記憶から引っ張り出し、農家としての経験で足りない部分は補ったが、果たして俺の望む物ができたかは収穫してみるまではわからない。
まぁそれも農業の楽しみではあるので、成功も失敗も甘んじて受け入れるつもりではある。
収量的にはどれくらいかというと、畑の大きさが一反に少し届かない程度であるため、結実率を考えると多く見越して40キロ程度だろう。
果たしてこれが多いか少ないか、人によるだろうが、異世界で蕎麦を育てるという偉業を思えば、俺は胸を張ってもいいんじゃないか?
とはいえ、決して少なくない金を払って村人を何人か雇い、任せられる部分は任せたが冒険者が二足のわらじで作るものではないということが身に沁みて分かった。
まだまだ収穫は先のことになるが、これが今年の年越し蕎麦となることで、俺の渇きは癒やされる!
あぁ!素晴らしき白!そしてなによりもこの蕎麦の花が醸し出す香り、まさにー
「…臭い。何この匂い!辺り一面にウ○コでも撒き散らしてんの!?」
「おいバカやめろ。ウン○とか言うな。これは蕎麦の花が出してる匂いなんだよ」
「だってー」
鼻をつまみながら眉を顰めるパーラが俺の隣に立ち、蕎麦畑を眺める。
確かに今この場にはウ〇コの匂いが漂っているが、これは蕎麦の花が出しているものだ。
蕎麦の花は受粉がしにくいため、虫を集めて受粉を助けてもらおうという性質がある。
人間にとっては臭い匂いでも、昆虫にとっては非常に好ましい匂いというわけだ。
パーラにはこの蕎麦畑は話していなかったのだが、定期的に飛空艇を飛ばしてどこかにいくのを咎められ、今回連れてきたというわけだ。
到着早々、漂う匂いに表情を凍らせたパーラのリアクションを見て、やはり連れてくるのは早かったかと心配してしまった。
蕎麦の花の匂いが酷いのはよーく知っていたので、本当は収穫して蕎麦粉にしてから説明するつもりだったが、まぁ本人が駄々をこねてついてきた結果なので自業自得だろう。
「ソバだっけ?こんな臭いのから本当においしい食べ物が出来るの?信じられないんだけど」
「臭いのは花が虫を呼び寄せようとしてるからだ。大体花が咲いている間だけの匂いだから、実になって蕎麦粉にする頃には匂いはなくなってるよ」
「ほんとかなぁ~」
半信半疑、どころか完全に疑ってかかっているパーラだが、蕎麦を食べたらどんな反応になるか見ものだ。
初めてパーラに蕎麦畑を見せてから暫く経ち、蕎麦畑も収穫の時期を迎えた。
現代日本であればコンバインで一気に刈ってしまうのだが、この世界では全部人の手で行われる。
一時期は酷い匂いに苦情もあったそうだが、収穫の手伝いに村人が来てくれる程度には悪感情も解消されたようだ。
一反ほどの蕎麦畑に多くの人手でかかれば収穫もあっという間に終わるもので、一定量に分けて束ねたものをさらに乾燥させれば次の段階に移る。
しっかりと乾燥したら、千歯こきにかけて脱穀する。
千歯こきはベスネー村で借りて行ったため、興味を持った村人の質問に答えながらの作業となった。
その代わり、ここでも村人の手伝いを借りることができ、脱穀もすぐに終わった。
この時点で細かい葉っぱや未熟な実も混じってはいるが、60キロが入る袋一つと少し、約70キロほどが手元にある。
次はパーラに協力してもらい、これを選別する。
脱穀したものをやや高い所からパラパラと落とし、そこへパーラの魔術による風を当てて細かいゴミや未熟な実を飛ばして、しっかりとした蕎麦の実だけをより分ける。
風量の調節はパーラの感覚便りだったが、重い実だけが飛ばされない風量はすぐに掴めたため、これもさほど時間がかからず終わった。
結果、最終的に残った蕎麦の実は50キロほどとまずまずの量だ。
ここから製粉に入るとして、実はいろいろと面倒な工程を踏む必要がある。
現代日本では機械で蕎麦殻の除去を行い蕎麦粉になるわけだが、この世界にはそんなものはないため、すべて人の手で行わなければならない。
だがこの世界でも小麦粉を作るという技術は普通にあるので、穀物を粉にするということに関しての道具類はある程度流用できそうではある。
そこで製粉作業は小麦粉作りを生業とする職人に丸投げすることにした。
職人達の元へ持ち込んだ蕎麦の実を粉にしてほしいという依頼に、小麦以外は専門外だということで難色を示されたが、十分な礼金を提示することで何とか承諾してもらった。
ただ、初めてのことになるので多少の目減りは覚悟してほしいともいわれたが、蕎麦が食えるなら大した問題ではない。
そんなわけで、後は蕎麦粉が出来上がるのを待つのみとなり、完成の知らせが来るのを指折り待つ日々を送ることとなった。
結果として、蕎麦粉の製粉は成功したが、やはりいくらかは失敗もしたそうで、思ったよりも少ない量の蕎麦粉となってしまった。
それでも俺とパーラが食べるだけなら十分な量なので満足だ。
これで今年は年越し蕎麦で大晦日を迎えられる!やったね!
季節は冬を迎え、へスニルで新しく広まったクリスマスの行事も楽しみ、とうとうやってきた大晦日。
この世界の習慣的に大晦日に何かをするということはないが、今回は年越し蕎麦を食べるということで、俺とパーラは夜遅くまで起きていた。
飛空艇のリビングには、ソファなどを脇にどかしてできたスペースに用意したテーブルの上に、蕎麦打ちの道具がずらりと並べられている。
捏ね鉢から麺棒まで、この日のために態々特注で作ってもらった道具を前に、腕まくりをして気合を入れる俺と、それを眠そうな顔で見守るパーラという構図がそこにはあった。
「ねぇアンディ、まだ起きてなきゃダメ?私もうかなり眠いんだけど」
「お前…昨日言っておいたろ。今夜は夜更かしするからしっかり寝とけって」
「昨日は早く寝たよ?けど、今日はマースちゃんといっぱい遊んでさぁあ~っふ……疲れてんの」
もはや噛み殺すことすらしなくなった欠伸で眠気を主張するパーラだが、それでも部屋に行って眠るという選択肢を取らないのは、蕎麦という新しい食べ物を逃さんとする食い気故にだ。
要は眠いからとっとと食わせろ、そして寝るという意思表示をしているに過ぎない。
そんなパーラの態度に少しだけイラっときつつ、ともかく蕎麦を打つことに専念することにした。
まずは捏ね鉢に蕎麦粉と小麦粉を2:8の割合で混ぜ入れ、そこに水を少しづつ加えながら混ぜ合わせる、水回しという作業から始める。
混ぜる蕎麦粉は細かい蕎麦殻がわずかに入っているおかげで真っ白とはいかないが、殻も香りとなるのでこれはこれでいい。
小麦粉との混合で所謂二八蕎麦となるが、100%蕎麦粉で作る生蕎麦は流石に難易度が高いため、二八蕎麦で作ることにした。
とはいえ、二八蕎麦も十分おいしいので不満はない。
早速捏ねていくが、なるべく指先を使って引っ掻くようにして固まっているのを崩し、細かくなった粉を擦り合わせるようにして混ぜていく。
最初にお椀入っている水から少量、捏ねながら残りの水をいれてさらにかき混ぜていく。
そうしていくと徐々に塊ができ始め、それをくっつけるようにして練っていくと、大きな塊になっていく。
一つの塊となった段階で、自分の体重をかけてさらに練る。
ゆっくりと捏ねて、生地の中にある弾力が失われない内に丸めて台に使う板の上に置く。
同時に板に打ち粉も振るうのを忘れてはならない。
これを怠ると生地が台に張り付いて敗れてしまうため、薄く広く粉を打つ。
この打ち粉には蕎麦粉の余りをそのまま使う。
打ち粉を振った台と生地で場が整ったところで、麺棒を使い生地を伸ばす工程に移る。
まずは手を使って生地を丸く伸ばし、程よく伸びしたところで麺棒で押し出していく。
なるべく四角くなるように伸ばしていくのだが、これを角出しといい、後で生地を切る際にこの角出しが適当だと作業がやり辛くなるので、集中して臨む。
うまいこと四角になったらそれを折り畳み、次はいよいよ切りだ。
蕎麦を切る職人の姿を見ると、よく折りたたんだ生地の上に板を乗せてそれに沿って包丁を入れているが、この板を駒板と言い、簡単に言うと色々と文句は言われそうだが定規のようなものだと思っていい。
駒板を左手で押さえ、これに沿わせて包丁を生地に下ろしていき、一定間隔の細さに切り分けていく。
生地に対して包丁を垂直に下ろし、板に刃が着いたら包丁を少し左に傾けると、駒板が左にずれ、次に切るべき丁度いい細さで生地が顔を出す。
そしてこれに包丁を下ろしてと繰り返していく。
トントンという小気味よい音が暫く鳴り響き、一枚の生地を全て細くすることに成功した。
切り終えたら余分な打ち粉を払い落とし、あとは茹でるだけとなる。
ちなみにだが、前世の俺が住んでいたところでは毎年秋の終わりにはJAが主催する蕎麦祭りというものがあり、俺はそこで農業従事者の中でも比較的若手であるからという理由で、ひたすら蕎麦を打たされた経験があり、それがいま生きているということになる。
本当、こっちの世界に来てから色んな経験が役立っているのだから、人生様々なことに手を出してみるもんだとしみじみ思う。
出来上がった麺を二人分に分け、たっぷりのお湯で茹でる。
乾麺と違い、茹で時間は短いのでここからは手早く行く。
茹で上がるまでの間、昼の内から仕込んでおいた出汁つゆを温める。
この出汁つゆは川魚の干物をさらに燻製したものからとった出汁と、自家製の味噌から取り出した溜まり醤油に貧者のワインという酒を合わせて作ったものだ。
貧者のワインというのは、ワイン造りの時に時折失敗して出来てしまうアルコール度数が極端に低いワインのことで、酸味や風味といったワインに欠かせない要素が兎に角足りないため、タダ同然で出回ることから貧乏人でも買える酒という意味が込められて貧者のワインと呼ばれている。
普通のワインを知っている舌であれば一度飲めば二度はいらないというほどに今一な品なのだが、この低アルコール度数でワイン独特の風味や味が薄い特性から醤油の良さを殺さず、むしろ微かなワインの味わいがコクとなって深い味わいが出るのだ。
みりんの代わりを探していた時に見つけて試したところこれがまた大成功で、いいものを見つけたと往来で小躍りしたぐらいだ。
麺が茹で上がり、器に移したら温めておいた出汁つゆをかけ、小口切りにしたネギと出汁を取って役目を終えた川魚の干物を添えたら完成だ。
蕎麦の入った器を二つテーブルに置くと、先程から無言でこちらを凝視していたパーラが音もなく席についた。
どうやら出汁つゆの匂いが彼女の食欲を目覚めさせたようで、キラキラとした目で器に視線を注いでいる。
そしておもむろに器へと顔を近づけ、立ち上る湯気を思いっきり吸いこんだと思ったら、うっとりとした顔で甘い溜息を吐く。
ちょっと色っぽい。
「はぁあ~…なにこれ、たまんない匂いだよ~。これで完成?食べていいの?」
「あぁ完成だ。…っとちょっと待て、これとこれ。蕎麦を食べて味の変化を楽しみたかったら途中で入れてみろ」
そう言ってパーラの前にスダチとよく似た柑橘系の果物を半月切りにしたものと、唐辛子の入った小瓶を置く。
蕎麦と言ったらこの二つが欠かせない。
「ふーん。味を変える、ねぇ…まぁとりあえず食べてみてからでしょ」
「そりゃそうだ。んじゃ頂くか」
「そうしよそうしよ!」
待ちきれないと蕎麦にフォークを差し入れ、パスタを食べるようにして麺を巻いて食べるパーラと、橋を使って食べる俺。
本当は蕎麦は箸で食べてほしいが、まぁこの世界で箸という食器が異質なのは重々承知しているのでとやかくいうことはしない。
一々人の食べ方にケチをつけるほど器の狭い男ではないよ、俺は。
ちゅるちゅると食べるパーラを上目で見てみると、麺を口に含んでまず目を見開き、次に笑みを浮かべて頷いて咀嚼する様子から、気に入ってもらえたと見える。
それを見届けて、俺は箸で掬った麺を口に含み、一気に啜り上げる。
「ぶふっ、ちょっとアンディ!音立て過ぎ!下品じゃない?」
「チュピッ…いいんだよ、蕎麦ってのはこうやって食べるんだ。空気と一緒に啜ってこそ、本来のうまさがわかるってもんだ」
「え~?ほんとにぃ?」
丸っきり信じられないと顔に出しながら、本来のうまさという言葉が利いているのか、器をジッと眺めながら何かを考えるパーラ。
あれは恐らく啜ってみようかと悩んでいるといったところか。
まぁ躊躇う気持ちがわからないわけではないが、パーラならきっとすぐに啜ってでも味わうという道を選ぶことだろう。
ではパーラが悩んでいる間に、俺は蕎麦の出来を確かめよう。
まず最初につゆの複雑な風味と味わい舌に広がり、そして麺を噛んでいくと蕎麦独特の香りが鼻を抜けていくということは、蕎麦としてはしっかりとした形になっていると言っていい。
だがやはりきちんとした醤油と鰹節がなければ蕎麦としては違和感を覚えてしまうが、異世界の食材で再現したにしてはかなり近い味わいにできたと思う。
蕎麦の方もやはり不完全に殻が残っているのが利いているのか、香ばしさがかなり強い。
これは盛りで食べたらもっと香りを楽しめそうだ。
まぁこの寒い時期にはかけ蕎麦が一番なので、それは今度の機会に回そう。
そんな風に考えていると、俺の目の前で奇妙な音が鳴っているのに気づく。
発生源はパーラだ。
「ひゅぅー…っぷ。ねぇアンディ、ソバってどうやって啜ればいいの?」
フォークで掬った蕎麦を口に含むまではできるが、そこから啜り上げるということができないらしく、どうしても麺がついてこないで先につゆだけが口に飛び込んできて難儀している。
確かに麺を思いっきりすするという行為は日本人以外ではやらないため、やらずに生きてきた人間が麺を啜ろうとしても上手くはいかないと聞いたことがある。
この世界でもそれは同じなのだろう。
「麺を軽く歯で噛んだら、口をすぼめて麺に唇を密着させろ。それで空気と汁を一緒に飲む感じで吸い込むんだ。やってみ」
「こう、かな?…チュロ―っぐぽ!おぇっほ!ごほっごほっごほ!…なんで~?全然できないよ」
やはり口の中に麺が一気に飛び込んでくる感触に慣れないのか、咽からか涙を浮かべて悔しがるパーラに、俺は苦笑を返すしかできない。
「んー、途中まではいい感じだったんだけどな。口に麺が上ってくる感触は変な感じだろうけど、それを気にしないで麺とつゆを口に含んだら後は噛んじまえばいい。まぁ慣れだろうからその内出来るようになるさ」
「その内じゃだめだよ。私は今、ソバを完璧に味わいたいの!」
その後も何とか啜るのをマスターしようとするパーラだったがやはり上手くいかず、仕方なくフォークでモソモソと食べていたが、その目の前で思いっきり音を立てて啜る俺を恨みがましく睨む目には苦笑を返すしかなかった。
蕎麦を食べ終え、片付けも終えた俺達は過ぎゆく年をゆったりとした中で感じていた。
生憎飛空艇には時計がないため、今が果たして大晦日なのか既に年を越しているのかわからないが、この世界の慣習に乗っ取り、夜0時に年越しということをこだわらないことにする。
「いやぁ、それにしてもあのソバっていいもんだねぇ。脂っぽさが全くないからスルスル食べられちゃった。結構お腹にたまるし」
「そりゃあそうだろ。てかあの後お代わりを作らされたんだ、腹がまだ空いてるなんて言われたら呆れるわ」
結局蕎麦を気に入ったパーラにねだられてまた蕎麦を打ち、しっかりつゆまで三杯を平らげたパーラはソファーで横になってだらけている。
「でもさ、なんで大晦日?ってのに蕎麦なの?」
「そりゃあ俺の故郷じゃそうだったから…じゃ納得できないよな。諸説あるんだが、蕎麦って切れやすかったろ?」
「確かにフォークで撒こうとしたらすぐ切れてたね」
「それにかけて一年の厄、悪い縁なんかを切って新しい年を迎えるとか、その形から縁を細く長く繋げるっていう意味も込められてるらしい」
「へぇ~、なんか面白いね、それ」
時代や土地によって年越し蕎麦の由来は色々あるが、よく知られているのはこの二つぐらいだ。
本当に諸説をどうのこうのと議論するのは正直粋ではないので、他の由来は伏せておこう。
「ねぇねぇ、あのソバってさミルタ達にも食べさせてあげようよ。あとマースちゃんとかセレン様とか」
「そうだな。今日はもう打ちたくないから明後日辺りにでも顔を出すときに持ってくか」
「そうしよ。アンディってばこないだルドラマ様に変なことを言っちゃったしね」
「変なことじゃねぇよ。俺の故郷じゃ年が明ける時に鐘を鳴らすって風習があるんだって」
「だからって鐘楼の鐘を夜中に突かせろってのは無茶だよ。しかも108回って…多すぎ」
実は年越し蕎麦を食べると決めた時に、せっかくだから除夜の鐘も聞きたいと思ってしまった俺がいた。
そこでルドラマの下を尋ね、本来危険を知らせるためにある鐘楼の鐘を使わせてほしいと頼み込んだのだが、使用目的を説明した途端、大声で怒鳴られてしまった。
曰く、『緊急用の設備をゆく年を見送る為だけに108回鳴らす、しかも夜中住民が眠っている時間にそれをすることがどれだけの混乱を招くと思っているのかこのバカチンがぁ!』とのこと。
尤もである。
俺も年越し蕎麦という魔物に魅了されていたとはいえ、少々はしゃいでいたということを改めて反省した瞬間だった。
そんなわけで、除夜の鐘は無理だったが、年越し蕎麦は十分に楽しめた。
本来の目的は蕎麦だったので、全く問題ない。
あくまでも除夜の鐘はついでの思い付きだ。
ただ、来年は街にある鐘楼ではなく、鋳鉄ででかい鐘を作ったらいいんじゃないかという思いが俺の中でもたげているのは内緒だ。
これでもルドラマのことで反省はしているのだ。
………今は。
「ふぅ、お腹も落ち着いてきたし、私はもう寝るよ。アンディも早く寝なよ」
ソファーから立ち上がり、一度だけ目を擦る仕草をしたパーラは自分の部屋へと向かって歩き出した。
その背中に俺も声をかける。
「ああ、俺も少ししたら寝るよ。おやすみ」
「おやすみー。…あ、そうだ」
「ん?」
そのまま去っていくかと思ったパーラだったが、何かを思いついたのかこちらを振り向くと軽く頭を下げてから口を開く。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。…でいいんだよね?」
「なんだよ、急に」
「アンディが言ったんでしょ!夜0時ってのになったらこう挨拶するんだって」
大晦日という概念がないように、日付をまたいだ瞬間に新年の挨拶をするという習慣もないこの世界だが、年越し蕎麦と一緒に話した日本の風習をしっかりと覚えていたパーラがわざわざ乗ってくれたみたいだ。
ただ、今が正確に0時かどうかはわからないので、パーラは眠る前にとりあえずやっておこうと思ったのだろう。
あっけにとられて反応出来ないでいると、パーラが少しだけ睨んでいるようだったので、急いで挨拶を返す。
「あぁ!そういえばそうだったな。あけましておめでとう。ことしもよろしくな」
「んふーよろしい。じゃ今度こそおやすみ」
軽く頭を下げて言う姿に何かの満足を得たのか、上機嫌で去っていくパーラを見送り、ふと窓の外へと目を向けてみる。
今年の冬は雪の降る時期が少し遅かったが、今窓の外で舞い散る無数の雪花弁を見ると、冬らしい冬が今年もやってくるのだなぁとしみじみ思う。
時刻はどれぐらいだろうか。
少ししか経っていないようでもあるし、長い時間が過ぎた気もする。
ただ、テーブルの上に置いていたお茶から上がる湯気が完全に消えている事から、きっと随分長く窓の外を見ていたようだ。
雪を眺めながら夜更かしをしてしまったのは、きっと蕎麦に感じた日本の大晦日というものに浸っていたせいだろうか。
この世界にすっかり染まったと思うことは日常の中で何度もあるが、それでもふとした瞬間にこうした元居た世界の何かを求めてしまうのは、日本人としての魂が決して染まらないということを示しているに違いない。
まさか年越し蕎麦一つで日本人としての有り様を思い起こさせるとは、蕎麦とは奥が深い。
来年、また蕎麦を作るかどうかはまだ決めていないが、ルドラマ達に振舞って反応を見たらそれも決まるかもしれない。
まぁ多分作ることになるだろうが。
後日、蕎麦に関連して支出した金額を算出してみると、なかなか洒落にならない額がはじき出された。
よくよく考えたら蕎麦用の土地の借り賃に雇った村人の人件費、蕎麦の製粉に使った職人への礼金に特注で揃えた道具類と、随分色々なところに金をばらまいた気がする。
合計するとちょっとした豪邸が建てられそうなぐらいの金額になるが、蕎麦を食べられたのだからこれはきっと必要な支出であり、貯金は犠牲になったのだ。
…しかしこれはパーラに知られたら説教コースは確実だな。
何とか誤魔化す手を考えておこう。
がしかし、結局バレてこっぴどく怒られました。
トホホ、もう蕎麦作りはこりごりだよ。
やるけど。
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