第103話 虫の声を聞こう

 10月も下旬になろうかという秋の夜。すっかり涼しくなってきた。

 お風呂に入って、夕食を食べた俺たちは思い思いに部屋で過ごしていた。俺は木橋きばしに影響を受けて、『プログラミング言語の作り方』という本を読んでいる。まずは、


(1 + 2 * 3) / 4 → 1


 という風に、カッコのついた数式を解釈できるようにするのが最初の目標だけど、なかなかどうして一筋縄では行かない。


 ミユはといえば、PCに向かっていて、何やら熱心に見ている。と思ったら、


「ね、ね。ちょっとこれからお散歩に行かない?」

「そりゃいいけど。何かお目当てでもあるのか?コンビニのデザートとか」

「そういうのじゃなくて、ちょっと、虫の声を聞きに行かない?」


 そんな彼女の一声で、ちょっとした夜の散歩に出かけることになった。


◇◇◇◇


「んー。なんだか、風流だよねえ」


 目を閉じて耳を澄ませた様子でミユがつぶやく。静かな中に、虫の声が聞こえてくる。筑派大学周辺はちょっと歩けばすぐに林の中だ。学生寮もあるから時々街灯があるけど、ここら辺は真っ暗だ。


「まあ、風流かはともかく、いいよな。で、なんで目をつぶってるんだ?」

「うーん。深い意味はないんだけど。目を閉じた方がよく聞こえない?」

「なるほどねえ。ちょっとやってみるか」


 真似をして、目を閉じて周りから聞こえる声に耳を澄ませてみる。確かに、余計な視覚情報が入ってこない分、虫の声がはっきり聞こえる。


「お。確かに、これはなかなか。でも、何の虫なんだろうな」


 擬音にすると、コロコロコロ、や、キリキリキリ、だろうか。フィーンフィーンという感じにも思える。


「この辺りだと一番多いのはやっぱりコオロギだね。種類は色々あるみたい」

「実家の近くだと、あんまり虫の声とかしなかったよな」


 実家のある両国駅近くはそこまで緑が豊富というわけではなくて、そこかしこから虫の声が聞こえてくるという環境ではなかった。


「そういえば、なんで急に虫の声聞きたくなったんだ?」


 別にわざわざ聞きに行かなくても、部室からの帰りでよく聞いているだろうに。


「だって、せっかくつくなみにいるのに勿体なくない?」


 振り向いたミユの表情は穏やかで、まばらな街灯の中に照らされている表情はとても魅力的だった。


「あ、ああ。そうだな。確かに、勿体ないな」


 ドキっとしたというのが少し気恥ずかしくて、ごまかしてしまう。


「なんだか挙動不審だけど。どしたの?」


 純粋に疑問に思っているような表情だった。

 なんかこっ恥ずかしいんだけど……まあいいか。


「いや、なんか綺麗だなって思ってた」


 その言葉に一瞬、目を丸くしたかと思うと、少し照れ臭そうになる。


「も、もう。最近、リュウ君ってば、そういう褒め言葉よく言うよね」


 指をこねくり回して、まんざらでもなさそうな彼女。


「ま、まあ。婚約してるわけだし。悪い気はしないだろ?」

「それはそうだけど……。そ、それじゃあ」


 少し深呼吸をしたかと思うと、


「リュウ君もカッコいいよ」


 赤くなりながらも、そんな事を正面から言ってきたのだった。


「いや、別にカッコ良くなんかないって」

「もう。褒め言葉くらい素直に受け取って欲しいな?」


 首を傾げて、じーっと、見つめられる。


「だって、俺って体力ないし、身体も鍛えてないしさ」


 その事は前々から少し気にしていた事だった。


「そうだね。リュウ君は、もう少し鍛えた方がいいと思う」


 クスっと笑いながらも、容赦ない言葉。


「さすがに、そこはオブラートにくるんでほしいんだが」

「そこはトレーニングだよ。ガンバ!」

「わかった、わかった。そっちは頑張るから」


 筋トレも始めてみようかと密かに思う。


「それはおいといて。今でも十分カッコいいよ」

「あ、ああ。ありがとうな」


 長い付き合いだ。お世辞じゃないことはよくわかっている。

 だけど、カッコいいって褒め言葉はまだ慣れない。


「それより、虫の声はいいのか?」

「ふふ。照れ屋なんだから」

「それはおまえもだろ」


 そんな他愛もないことを話しながら、夜の大学構内をたっぷり1時間は散歩して、雑談をしたり虫の声に耳を澄ませたりしたのだった。

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