第24話 二重の世界
シャロンの安らかな寝息を確認し、ジェイクはようやく肩の力を抜く。手に巻いていたハンカチをスルッと外し、ロイに「悪いな」と言った。
シャロンが舌を噛まないようとっさに手を差し込んだのだが、寸前、電光石火の速さでロイが自分のハンカチをジェイクに巻いたのだ。おかげで噛まれてもそれほど傷にはならなかったが、このハンカチは返せないので謝った。
こういう時、阿吽の呼吸でしてほしいことや必要なことが出来るロイがそばにいたのは幸運だったのだろうか。とはいえ、青くなった友の端正な顔に苦笑する。突然姫君が苦しんでいたのだ。色々聞きたいことがあるのは当然だろう。
だがそれは後だ。
「ライクストン様も手当てを」
やはり青い顔をしたエルザの言葉に、ジェイクは首を振ってシャロンを抱き上げた。
「まずは彼女を休ませられるところへ。――あ、ぼくが連れて行ってもいいですか?」
今までの様子から彼女はジェイクの味方だとは思う。だが異国の男が姫君を抱き上げて運ぶのは問題だろうかと思い至り確認すると、エルザは大丈夫だと請け合った。
そして彼女は手早く周囲の後始末をすると、「こちらへ」と言って歩き始める。その後をロイとゼノンに挟まれるようにしてついて行き、昼寝用とみられる簡易的な寝台にシャロンを下ろした。
汗で張り付いたシャロンの前髪をかき上げ、だがその額に口づけたいのを我慢する。彼女の目の下には影が落ちているが、ほんのりと頬に血の気が戻っており、心底ホッとした。
本当にシャロンはよく頑張った。
封印を解く糸口を見つければ封印は解ける。だがそれを一気に解くには激痛が伴い、かなりの体力と精神力を必要する。――それを知識としては知っていたが、いざ苦しむ姿を目の前にすると、またシャロンを失うのではないかと気が気ではなかった。だが彼女は自分に「支えて」と言った。遠ざけるのではなく頼ってくれた。それが嬉しい。
そこにエルザが呼んだらしい他の侍女がやってきて、ジェイクの傷の手当てを始めた。苦しむシャロンが爪を立てたりしたため、シャツ越しとはいえ血がにじんでいる。女の子とは思えないほどすごい力で掴まれもしたが、それだけ苦しんでいたのだと思うと、もっと痛めつけてくれてもいいくらいだ。代わってやれないことがつらかったし、彼女にこんな思いをさせた何者かも憎い。
嘔吐するシャロンがほとんど吐けずに苦しんでるのを見て、彼女が今日、何も食べていないことを知った。たぶん表に見せているよりも不安だったのだろう。早く心の底から安心させてやりたいと思った。
「ライクストン様、ずいぶん傷だらけになってしまいましたね」
茶を持って来てくれたエルザが申し訳なさそうに頭を下げる。噛まれたあとや爪のあと、握られたところが少しアザにもなっていて驚いたが、同時にそれがとても愛おしく感じた。
「いえ。一番苦しんでいたのは彼女です。本当によく頑張りました」
我慢強いシャロンが、それでもこらえきれないほど苦しむ姿は、この侍女から見ても相当恐ろしかったことだろう。それでもジェイクの指示に従って、水や桶などを手際よく準備してくれたことには感謝しかない。
「姫様はもう大丈夫なのでしょうか」
今スヤスヤと眠るシャロンの様子は赤子のように安らかだが、不安には違いない。
だからジェイクはあえてにっこり笑って頷いて見せた。
「大丈夫です。一番辛いところを超えました。少し休めば元気になりますから、目が覚めたら何か消化のいいものを食べさせてください」
いらないと言ってもしっかり食べさせてくださいと冗談ぽく伝えると、エルザはもちろんだと快諾した。
「あの――ライクストン様は……」
色々聞きたいことがあるのだろう。だがエルザはそこで口をつぐむと黙って一礼した。ジェイクも一礼して、ロイに声をかけ会場に戻ることにする。
まもなく後半戦が始まるのだ。
「ジェイク……」
ロイの呼びかけに、ジェイクは一瞬天を仰ぐ。シャロンはロイの前で自分の声に特殊な音を織り込んだ。その声はエルザたちにも届いていたことだろう。集中力がいるそれをあえて行ったことを考え、ロイに笑いかける。
「今は何も聞くな。多分もうすぐ分かる」
今言えることはただ一つ。
「彼女は渡さないよ。絶対に」
ジェイクの笑みに凄みが増すのを見て、ロイは肩をすくめた。
「あんなのを見せつけられて、割込めると思うわけないだろ」
長年連れ添った夫婦かよとのツッコミに、ジェイクは首を傾げる。
「別にいちゃついてたわけじゃないだろ」
付き合いだけなら、ジェイクにとっては十八年だが。
「いちゃつかれてたほうがマシだ。それに……」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
◆
親善試合後半戦。
カロン姫は体調不良で少し席を外していたが、決勝戦の途中から姿を見せた。少し儚げなその姿に、ジェイク達だけではなく敵側の志気も高まったらしい。試合の盛り上がりは最後を飾るにふさわしいものとなり、ギリギリの攻防の結果ジェイクたちの勝利に終わった。
シャロンとの約束通りジェイクはダントツで得点をあげ、最優秀選手に選ばれた。
「王子に花をもたせる気はないのかね、うちの騎士は?」
ロイが茶化すように言い、笑いが起こる。あえてジェイクが得点を取れるよう王子自ら補助していたのだから、誰も本気にはしていない。ロイは一位からはかなりの差があるものの、二番目に得点を上げていた。
「最も優秀な選手、ジェイク・ライクストン卿に、姫君より祝福が授けられます」
ジェイクの名前が呼ばれ、各国の男たちからヤジが飛ぶ。王子ではなく護衛騎士でさえ平等に扱われたことへのやっかみ込みだ。地位に関係なく純粋に試合の活躍で最優秀者が選ばれたことが、男たちの気分をより高揚させているらしい。
「王子じゃなくても好機に恵まれるんだったら、俺も頑張ったのになぁ」
「よく言うわ。おまえ、めちゃくちゃ必死だったじゃないか」
侍女に手を引かれ壇上に上がるシャロンの目はキラキラ輝き、すっかり元気そうでジェイクは安堵した。
思わず笑みがこぼれた瞬間、シャロンがハッと息を飲み、次いで花が咲くように笑み溢れる。
「シャロン……」
あまりの愛しさに声に出さずに名前を呼ぶと、彼女は残り数歩のところから走り出し、ジェイクの腕の中に飛び込んできた。シャロンをしっかり抱き止めながらも予想外の行動に嬉しさと困惑で動揺していると、今度はカロン姫の侍女達から、
「姫様ー、祝福は口づけを送るものですよー!」
と華やかな悲鳴が上がる。それにつられ、男たちからも「男ならいけ!」と無責任なヤジが大きくなった。
祝福の口づけは貰えるものと思っていたが、王女であるカロン姫のこの行動は一騎士にするものではない。これではまるで恋人だと公言しているようなものではないか。
本当にいいのか? 彼女が困った立場にならないか?
「いいの?」
いざとなったらこのまま攫うつもりで小さな声で聞くと、ジェイクを見上げるシャロンが照れたように笑う。
「いいのよ。こうするべきなの」
頬を真っ赤にしながらも迷いのないその目を見て力が抜けた。
彼女はあえてやったのだ。誰の目にも、王女のほうが異国の騎士に夢中なのだと見せつけた。ジェイクが困惑する姿も計算済みだったのだろう。この役をロイや他の男に譲らなくてよかったと心底安堵した。
だからあえて男らしい満足感と優越感を見せつけるように彼女を抱き上げた。
「姫、祝福に口づけをもらっても?」
ジェイクがよく通る声でそう問うと、カロン姫は
「あなたに祝福を」
と、ジェイクの首に両腕を回す。
ヤジが最高潮になる中、ジェイクは自分を世界で一番幸福な男だと思った。
◆
晩餐は試合の打ち上げと行った様相で盛り上がっていたが、ジェイクとロイは途中で国王のテーブルに招かれ、しばらく盃を交わした。特にどうということもない世間話に終始して拍子抜けするものの、今度はカロン王女のテーブルに招かれる。
そこは少し会場より離れた場所にあり、薄衣が下ろされるとちょっとしたプライベート空間が作られた。外の音が遠くなり、ここに防音効果があることが分かる。中にはカロン姫とエルザ、ロイとジェイクだけになり、ロイが少し居心地悪そうな顔になった。
「姫、どうして私も?」
落ち着かな気なロイにシャロンは優しく微笑み、ジェイクは思わずニヤリと口の端を上げる。
王からもカロンとゆっくり話せと言われたが、それならジェイクと二人きりになるべきではないだろうか。ロイがカロン姫の心を射止めたというのならば、そこにジェイクが控えていても不思議ではないのだが……。
この王子がそう考えているであろうことがわかる。
「ロイ様はここにいるべきだからです」
「と、言いますと……」
ジェイクを気にするように更にソワソワしているロイが気の毒になるが、ジェイクとしてもまだ仮定の状態なので口を噤んだ。
事前にシャロンから短い手紙をもらっていたが、詳細と言うには程遠く、内容も半信半疑だったからだ。それでも無条件でジェイクはシャロンを信じていたので静観を決める。これから少しだけ面白くないことが起こることが分かっているが、今更動揺はすまいと心に決めながら。
「ロイ様は、わたくしを見てどう思われますか?」
特別な音を織り込む声。
小首を傾げるカロン姫にロイは一瞬目を見開き、微笑みらしきものを浮かべた。
「それは、美しいと思いますし、とても、その……心惹かれています」
まるで二人の世界にいるかのようなロイの告白に、シャロンはにっこりと優雅に微笑む。そのカロン姫風のおっとりとした笑みにロイが鋭く息を飲んだ。
その様子にジェイクは少しだけ複雑な気持ちになり、視線を天井の方へ上げる。
ジェイク以外気づいていないが、ロイやエルザには今、シャロンの魔法で二重の世界が見えているはずだ。彼女は自分の仮定を確認をしているだけ。
――それでもこの甘い空気にはモヤモヤするだろ?
理解はしている。彼女の厚い信頼も感じている。だから表には出さないが、シャロンの手を握るロイに、ジェイクの存在を完全に忘れたその姿に、後ろから拳骨を食らわす想像くらいは許されるだろう。くそっ。
動揺するつもりがなかったのにしてしまった心を隠していると、シャロンがジェイクを見て一瞬蕩けるような笑みを浮かべる。それはまるで、小さな作戦がうまくいった子どものようでつられて笑ってしまった。
自分の愛が揺らがないと心の底から信じているから、彼女はジェイクの目の前で行動しているのだ。
――ああ、彼女にはかなわないな。
一人じゃない。彼女はジェイクと一緒に戦っているのだと理解した。
そしてシャロンは別れ際に、
「また後ほど」
と微笑む。
ジェイクにはいつものところでと囁いて。
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