第8話 旅立ち

 ジェイクは苛立ったまま、走り去るシャロンを見ないよう目をそらした。彼女を追いかけるコンラッドを止めたくなったが、こぶしを握って思いとどまる。

 腹の中がどろどろとしたもので渦巻いて、歯を食いしばっていないと取り返しのつかない悪態をついて暴れだしそうだ。

「ジェイク? どうしたの? 今の方は?」

「いえ、なんでもないです、王女殿下。何か飲み物を取ってきましょう」

「ありがとう。優しいのね」

「いえ……」


 本当は怒鳴りつけたかった。だが相手は女性、しかも王女だ。彼女が悪いわけではない、自分のせいだ。でも怒りのやり場がなかった。

 新年の鐘が鳴る前にシャロンを探した。

 客人に精一杯対応していたが、本当は思ったように彼女のそばに行けなくて苛立っていた。鐘の音が聞こえたとき温かい体温をそばで感じ、振り向いたときにはがっちり抱き着かれ、王女に口づけをされていた。

 焦って引きはがしたかったが、できるはずがない。

 反応しないよう直立していたが、少し唇を離した王女に拗ねたように見上げられ、「ちゃんと腰に手を回して!」と命令され、従うほかなかった。二歳年上の王女の甘い香りとやわらかな肢体に、クラクラしなかったと言ったらうそになる。気付いたときにはつかの間その口づけを楽しんでしまい、ハッとして離れた。


 無礼にならないよう早口で新年のあいさつをしながら周囲を見回したとき、シャロンが正騎士に抱き寄せられ、口づけられるのが目に入った。


 ――嘘だ……。


 騎士と微笑み合う姿にカッとした。

 シャロンが今まで見たこともないくらい美しく見えた。

 立派な騎士に嫉妬した。本当だったら、自分もあんな姿だったのに!


 これ以上シャロンをここに置きたくない一心で帰れと言った。一瞬涙ぐんでいたようにも見たが、彼女が泣くはずがないと首を振る。

 大けがを見ても顔色を変えず冷静に対処し、大男が悲鳴を上げてもひるむことなく骨を接ぐ。彼女はジェイクと取っ組み合いのけんかをするほど気が強いのだ。ジェイクの腕には、昔シャロンに噛まれた跡がうっすらあざのように残っている。

 

「くそっ」

 口の中で悪態をつき、王女から隠れるように大広間から離れた。

 そこに髪をかき上げながら、やれやれと言った様子でさっきの正騎士が歩いてきた。

「ああ。ジェイク、だったな?」

 名前を呼ばれ、歯を食いしばりながら頷いた。

「シャロンは一人で帰ったぞ。こんな夜中なのに、一人で大丈夫だって」

 ハッとして顔を上げるが、彼女は魔女だ。森は彼女をきちんと守る。


「先ほどはすみません。見苦しい姿を見せました」

 ジェイクが絞り出すようにそう言うと、正騎士は肩をすくめ目をすがめた。

「いや? おまえも王女殿下に喰いつかれてたなら、仕方がないよな」

 状況をしっかり把握していたらしい騎士は蓮っ葉に言い、苦笑いしてジェイクの頭をぐりっと撫でる。

「目を付けられたようだから、せいぜい逃げとけよ。王女殿下の相手は骨が折れるぞ」

「……はい」

「――シャロンはあと二、三年もすれば、極上の美女になるだろうな」


 ――そんなこと知ってる。


 心の中でそう答えたつもりだった。だが気付くと「彼女は今でも美しいです。ぼくにとっては誰よりも!」と叫ぶように言っていた。

 だが正騎士は「ふーん」と気のない返事をする。ジェイクの返事より、シャロンの帰った方向が気になっているようだ。


「で、シャロンはお前の何なんだ? 婚約者、ではないよな?」

「まだ違います」

「ほお、まだ、ね。じゃあ恋人、って感じでもないか」


 ずばり決めつけられ、奥歯をかみしめる。そう。ジェイクはまだ、彼女に何も告げていない。

 本当なら今日初めての口づけを交わし、将来の約束もしたかった。彼女は戸惑うかもしれないが、喜んでくれると信じていた。

 事実、今日のシャロンは明らかにジェイクを意識していたはずだ。なのに彼女がこんな立派な騎士と口づけを交わした後では、まだ子どものジェイクなど完全にかすんでしまう……。

 はじめて自分が二十四歳ではなく、まだ十四歳なのが悔しかった。


「じゃあ、私が結婚を申し込んでもいいわけだ」

 ガバッと顔をあげると、騎士はジッとジェイクを見下ろす。

 ジェイクは決闘を覚悟した。美しい女性の愛を勝ち取るための決闘は日常茶飯事だ。だが今までは子どもの年齢だったから、巻き込まれたことはない。でもこの騎士はシャロンに目を付けた。彼女の美しさに気付いてしまった。

 彼女は誰にも渡さない。


 いっぱしの戦士のような殺気をまとったジェイクに騎士は一瞬目を見開き、次いで大きく息をついて苦笑する。

「そんな顔をするな。新年早々野暮なことはしたくない。ちゃんと彼女に謝っておけよ」

 そう言って手を振ると、騎士は大広間に戻って行く。

 その大人の余裕に、ジェイクはさらに自分の小ささを痛感する。前よりいっそうガキになった気分だ。

 時をさかのぼって色々学んだはずなのに、惚れた相手には行動が起こせない。うまくいかない。彼女を守りたいのに。一番そばで笑い合うのは自分でありたいのに。


 目の端に何か見え、空を見上げると雪が降ってきていた。

 はっはっと息を吐く音に振り向くと、いつのまにかデュランがそばに立っている。名前を呼ぶと大人しくそばに来てきちんとお座りをした。

「ん? 何かつけてるのか?」

 デュランの首輪の、いつもはジェイクが手紙を付けているところに手紙が付いていた。シャロンからだと気づいたジェイクは、急いでそれを取り、明かりの下にかざした。急いで書いたらしいそれは、少し震えているように見える。



 親愛なるジェイクへ

 今日は呼んでくれてありがとう。

 すばらしい結婚式でした。

 お客様の相手をしているジェイクはとても大人に見えて素敵でしたね。

 きっと、あなたが正騎士になるのもあっという間だと思います。


 なのに私は何か粗相をして、あなたに不快な思いをさせてしまったのですね。

 ごめんなさい。


 今夜は雪が降りそうなので、私たちは出発を早めることにしました。

 あなたの無事と健康を祈っています。

 元気でね。

 シャロンより



「なっ!」

 心臓をわしづかみにされたようだった。

 シャロンが行ってしまう!

「嘘だ」

 彼女の出発は、ジェイクが旅立った後のはずだ。


 急いで館に行こうとしたが、館に行ったら色々なことを忘れてしまうだろう。

 今日告げたかったことも、したかったこともすべて。

 シャロンは粗相なんてしていない。ただジェイクが手前勝手に嫉妬しただけだ。

 だが今館に行っても、きっと愛してるとは伝えられない。昔の自分に戻ってしまい、彼女を家族のように友人のように思うだけだ。さっき彼女にしてしまった事さえ忘れてしまって謝ることもできない。


 だが、このまま行かせてしまったら二度と会えないかもしれない。遠話石も受け取っていないのだ。これでは遠く離れた彼女の声も聞けない、どこにいるかもわからなくなる。

 未来が変わっているなら、彼女が前の通りに移動するとは限らないのだ。事実、早く出発しようとしているように。


 急いで謝罪の手紙を書こうと思ったが、そうしている間にも彼女は行ってしまうかもしれない。館は空を飛び、馬よりもはるかに早く移動するのだ。

「デュラン、紅蓮の館に行くぞ!」


 このままお別れなんて嫌だ。行かないでくれ!


 デュランと闇の中を走り、いつものように森に入る。だが森はジェイクを拒むように道を隠し、何度も転んで傷だらけになった。


 まだ何も伝えてない! 何も約束をしていない!

 頼むシャロン、行かないでくれ!


 ごぉぉ……っと風が唸るような音が聞こえる。

 上空を見上げると、紅蓮の館が飛び去るのが見えた。

 遅かった――。


「ちがう。こんな未来のために戻ってきたわけじゃない」

 君との未来を望んでいるんだ! 望みはそれだけなのに!

 シャロン、シャロン、シャロン!

「戻ってきてくれ、シャロン! ミネルバ、聞こえてるんだろ! 行かないでくれ!」

 頼む。こんなことは一度だって望んだことはないんだ……。望んで、いないんだ。

「行くなー!」


 だが咆哮のような叫び声は、風の音にかき消されただけだった。

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