お急ぎ症候群

傘木咲華

前編

 二〇二〇年、夏。

 二十歳になった駒野こまの宗也そうやは、駆け足で大学へ向かっていた。「何でこうなったんだ」と叫ぶ代わりに眉根を寄せ、行く先をただただ睨み付ける。

「あ、すいませ……」

 誰かとぶつかりお辞儀をしても、相手は知らぬ顔。自然と眉間のしわは深くなり、歩くスピードも速くなる。

 ふと、宗也は思った。

 自分は何をしているのだろう? と。

 家を出て、最寄りの駅まで歩いて、改札を抜けて……ただただ目的地へ向かっているこの状況はいったい何なのか。何故だか、唐突にわからなくなってしまった。いや、明確な理由はあるのだ。今日は七月三十一日。夏季休暇が始まるのは明日からで、今日はいつも通りに大学へ向かわなければいけなかった。しかし、珍しく寝坊をしてしまったのだ。ただそれだけの理由で宗也は急いでいる。

(くっそ、間に合うか……?)

 ホームへと続く階段を駆け上がっている途中で、発車ベルが鳴り響いた。もう間に合わないとわかっているのだから、少しくらいスピードを緩めれば良いのに。やっぱり足は止まらないまま、ただまっすぐホームへ向かう。が、しかし。

「…………」

 当然のように電車は過ぎ去っていってしまう。一瞬だけホームに立ち尽くすと、また人とぶつかってしまった。もはや呪文のように「すいません」と呟きつつも、宗也はやっぱり唖然とする。その時、ちょうど宗也の視界に入ったのは高校生だった。きっと野球部なのだろう。ユニフォームに身を包む彼らは、これから練習にでも行くのかも知れない。

 宗也は思わず視線を逸らす。ちくりとした胸の痛みと、立ち止まっているのに焦る心が止まらない。宗也はただ、俯きながら次の電車を待つことしかできなかった。

 すると、


「ねぇ、そんなに急いでどこに行くの?」


 という女性の声が背後から降り注いだ。

 鼓動が跳ね上がりつつも、「え?」という声すらも出なかった。宗也は恐る恐る、声のした方向へと視線を向ける。

「もしかしなくても、宗也くんだよね?」

 さも当然のように名前を呼ばれ、宗也は自分の顔が渋くなるのを感じる。

 きっと高校か中学の頃の同級生なのだろうというのはわかった。しかし、誰かと問われるとはっきり答えることができない。目の前にいる宗也と同い年くらいの女性は、胡桃色のパーマがかったボブカットで、明らかに初対面ではないようなフレンドリーな笑みを浮かべている。大学では親しく接する女性なんていないし、高校や中学の頃は――思い当たる人物がいない訳ではない。でも、目の前の人物とはあまりにも印象が違うのだ。多分あの人ではないだろうと、宗也は勝手に決め付ける。

「あ、ああ。そうだよ、宗也だよ。久しぶりだなぁ」

 とりあえず誤魔化し、愛想笑いを浮かべる。すると、女性はすぐに何かを察したように笑顔を引きつらせた。

「あー……うん。やっぱりわかんないか。私、恵庭えにわ千佐都ちさとだよ、覚えてる?」

「えっ」

 宗也は今度こそ驚きの声をあげる。

 ――恵庭千佐都。まさしく、宗也が唯一親しかったと思っていた女性の名前だった。

「恵庭先輩……なん、ですか?」

「もう、驚きすぎだよ。確かにイメチェンはしたけどさー」

 不服そうに自分の髪をいじりながら、千佐都は呟く。

 しかし、驚くのも無理はないと思うのだ。千佐都は高校時代の先輩で、野球部員とマネージャーという関係性だった。その時は黒髪のロングヘアーをいつも一つ結びにしていて、活発なイメージが強かった覚えがある。それに、千佐都は高校を卒業してから地元を離れ、一人暮らしをしているはずだ。まさか地元に帰ってきているなんて思いもしなかった。

「って、ごめんね呼び止めちゃって。急いでたんだよね?」

「え、あ……それは」

 千佐都の問いかけに宗也は思わず俯き、口をつぐんでしまう。

 確かに、宗也はさっきまで急いでいたのかも知れない。寝坊をして、一限目の講義に出るために必死になっていた。別に単位がやばいとか、そういう訳ではない。むしろ真逆だ。今は野球からもすっかり離れて、真面目だけが自分の取り柄だと思っている。だから頑張らなくてはいけないのだ。

 ――何のために?

 また、一つの疑問が浮かんだ。でも、違う。今は別の意味で急がなくてはならないのだと心が叫ぶ。気付けば、口は勝手に動き出していた。

「すいません、恵庭先輩。今って時間ありますか?」

 千佐都が驚いたように瞳をぱちくりとさせて、宗也もまた瞬きが多くなる。さっきまで酷い形相で急いでいた人間が「時間ありますか?」とはいったい何の冗談なのかと。自分でも突っ込みたい衝動に駆られて恥ずかしくなる。だいたい、千佐都だってこれから用事があるはずだ。何を自分勝手なことを言っているのだと情けなくなる。

「……うん、良いよ。私も宗也くんと話したいって思ってたから」

 しかし、千佐都はどこか照れたような微笑みで頷いてくれた。ただそれだけで、心がすっと軽くなる。

 少しだけ過去に戻ってみるのも良いのかも知れない。そう、宗也は思った。

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