周続之3 礼の講義    

劉裕りゅうゆう長安ちょうあんから戻って彭城ほうじょう入りすると、

周続之しゅうしょくしを彭城にまで召喚。

盛大に礼遇した上で、他のものに言う。


「このお方の心にブレ、偏りはない。

 まこと、真の高士と呼ぶべきお人だ」


間もなく尋陽じんように帰還。

ただし劉裕が皇帝に即位すると、

再び召喚される。

それからしばらくは

ずっと劉裕の側にあったそうである。


やがて東郭とうかくの外に講堂を開設。

そこに生徒を招集した。

劉裕自身も輿に乗って訪問。

そこで周続之に礼記らいきの3テーマ

「慠不可長」「與我九齡」「射於矍圃」

を教授させた。


その解説、論理は精密。

「該通とは彼のことを言うのだ!」

と、劉裕に讃えられている。


ただ、周続之は持病持ち。

関節に痺れるような痛みが走り、

なので講義を長く続けるのも難しい。

そこで建康けんこうの東にある山、

鍾山しょうざんに建てられた館で静養する。


423 年、劉裕のあとを追うように死亡。

47 歳だった。


毛詩六義、禮論、春秋公羊伝に通じ、

すべて梁の世にまで伝わっている。

子供はいなかった。




髙祖北伐,還鎭彭城,遣使迎之,禮賜甚厚。毎稱之曰:「心無偏吝,眞髙士也。」尋復南還。髙祖踐阼,復召之,乃盡室倶下。上爲開館東郭外,招集生徒。乘輿降幸,并見諸生,問續之禮記「慠不可長」、「與我九齡」、「射於矍圃」三義,辨析精奧,稱爲該通。續之素患風痹,不復堪講,乃移病鍾山。景平元年卒,時年四十七。通毛詩六義及禮論、公羊傳,皆傳於世。無子。


髙祖の北伐し、還じ彭城に鎭ぜるに、使を遣りて之を迎わしめ、禮賜せること甚だ厚し。毎に之を稱えて曰く:「心に偏吝無し、眞なる髙士なり」と。尋いで復た南還す。髙祖の踐阼せるに、復た之を召じ、乃ち盡く室を倶に下す。上の東郭の外に開館を爲し、生徒を招集す。輿に乘りて降幸し、并せ諸生を見、續之に禮記の「慠不可長」「與我九齡」「射於矍圃」三義を問わば、辨析は精奧、稱して該通と爲す。續之は素より風痹を患い、復た講に堪えざらば、乃ち移りて鍾山にて病す。景平元年に卒す、時に年四十七。毛詩六義及び禮論、公羊傳に通じ、皆な世に傳わる。子無し。


(宋書93-10_寵礼)




・慠不可長

礼記のほぼ初っ端に出てくる言葉。句の全体としては「敖不可長,欲不可從,志不可滿,樂不可極。「おごり高ぶるな、欲を募らせるな、志を満たし切ろうとするな、楽しみを突き詰めようとするな」となる。老子の「足りるを知る」ことが、平穏無事に生き抜く人間の知恵、というのにもつながる。ついでに言えば劉裕の生活態度そのものの言葉でもある。


・與我九齡

「文王世子」編の言葉。天が武王に九十歳の寿命を与えたと聞き、父である文王が自分の百年の寿命から三才を分けることで、少し武王を長生きさせたという。これについて語るとか何を語ったのだろうか。父の愛? まさかなあ。


・射於矍圃

「射義」編の言葉。孔子が「真に優れたもの」と言うに足る人物の条件を語り始めたら、そこにいる人間がほぼいなくなったという。真に優れたものとはどんな人間か、を滔々と語った、となるだろうか。


與我九齡についてはいったいどんなことが説かれたのか、なかなか想像がつきにくい。前後については想像がつかないでもないんだけど。詩経にあっぷあっぷしてるところに礼記の話喰らうとしんでしまうのです……けどぼくは先に論語に進むの……。

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