謝霊運27 霊運の最期 下

宗齊受そうせいじゅと言う役人が所用あって

涂口よこうを経て桃墟村とうきょそんに到達した時、

7人ほどが道ばたで何やら不穏なことを

語っているのに出くわす。


これは危うい、と見て取った宗齊受は

いちど引き返し、郡府に報告。

護衛の兵を付けられた。

改めて彼らが待ち受けていた所で、

戦闘が発生。7人は捕らえられた。


尋問が進む中、趙欽ちょうきんという男が

山陽さんよう県人、つまり長江北岸エリアが

地元の人間と判明した。かれは言う。


「俺と地元を同じくする薛道雙せつどうそうは、

 謝霊運しゃれいうんさまにお仕えしたことがある。

 この前の九月、やはり同じ地元の

 成國せいこくってやつが、

 俺に言ってきたんだ。


『先日に臨川りんせん太守であったが、

 謀叛を起して広州に流された謝どのは、

 わしらにゼニを恵んでくださった。

 これで武器防具を揃え、

 薛道雙には地元の荒くれ者を集めさせて、

 三江口で待ち伏せして、

 謝どのをお助けしろ、ってんだ。

 それで人を集めてる。

 これがうまくいけば、更に礼は弾む』

 

 ってよ。

 だから俺らは人手を集めて、

 謝さんを強奪する計画を練った。

 が、いつまでたっても謝さんを連行する

 一行にゃ出くわさねえ。


 そうこうしてるうちに路銀もなくなり、

 食うもんにも困るようになったからよ。

 ああして追いはぎしてたんだ」


!?

思いがけず、とんでもない連中を

つかまえてしまったようである。

かれらがその後どうなったかは

明らかになっていないが、

まぁ殺されただろう。


一方の、謝霊運である。遠流にあたって、

脱走計画まで練っていたことになる。

ここまでされてしまっては、

さしもの劉義隆りゅうぎりゅうももはや

かばいだてができなくなってしまった。

追放先の広州にて公開処刑を命じた。


謝霊運、刑場に赴くと、詩を詠み上げる。


 龔勝無餘生 李業有終盡

 嵇公理既迫 霍生命亦殞

  王莽おうもうに仕えるくらいなら、と

  絶食して果てた龔勝とうしょう

  公孫述こうそんじゅつ(三国時代の群雄)に

  仕えるか服毒死かを迫られ、

  毒を選んだ李業りぎょう

  父がしんに殺されたにも拘らず、

  恵帝けいていのために殉じた嵆紹けいしょう

  王浚おうしゅんに従おうとしなかったため、

  追い詰められ、死んだ霍原かくげん

  ああ、私も今彼らと

  名を並べることとなる。

 

 悽悽凌霜葉 網網衝風菌

 邂逅竟幾何 修短非所愍

  激烈な逆境の中にあって

  彼らは健気に立ち向かったが、

  悲しきかな、結局その志が

  果たされることはなかった。

  

 送心自覺前 斯痛久已忍

 恨我君子志 不獲巖上泯

  先人の美しき心持に出会えたならば、

  苦しみも耐え忍ぶことができよう。

  そう思いもしたいのだが、

  しかし私の君子としての志は

  ついに試されることがなかった。


上掲の詩で言う龔勝、李業は、

謝霊運が反乱を起こした時の詩における

張良ちょうりょう魯仲連ろちゅうれんと共通した

意味合いを持っている、と言えるだろう。


時に 433 年、

謝霊運 49 歳の時のことであった。


かれが書いた文章の多くは、

いまなお世に伝わっている。

息子の謝鳳しゃほうは夭折した。




其後秦郡府將宗齊受至涂口,行達桃墟村,見有七人下路亂語,疑非常人,還告郡縣,遣兵隨齊受掩討,遂共格戰,悉禽付獄。其一人姓趙名欽,山陽縣人,云:「同村薛道雙先與謝康樂共事,以去九月初,道雙因同村成國報欽云:『先作臨川郡、犯事徙送廣州謝,給錢令買弓箭刀楯等物,使道雙要合鄉里健兒,於三江口篡取謝。若得者,如意之後,功勞是同。』遂合部黨要謝,不及。既還飢饉,緣路為劫盜。」有司又奏依法收治,太祖詔於廣州行棄市刑。臨死作詩曰:「龔勝無餘生,李業有終盡。嵇公理既迫,霍生命亦殞。悽悽凌霜葉,網網衝風菌。邂逅竟幾何,修短非所愍。送心自覺前,斯痛久已忍。恨我君子志,不獲巖上泯。」詩所稱龔勝、李業,猶前詩子房、魯連之意也。時元嘉十年,年四十九。所著文章傳於世。子鳳蚤卒。


其の後に秦郡府の將の宗齊受は涂口に至り、行きて桃墟村に達さば、七なる人の路を下り亂語せるの有るを見、常に非ざる人と疑い、還じ郡縣に告がば、兵を遣りて齊受に隨い掩討し、遂に共に格戰し、悉くを禽え獄に付す。其の一人の姓は趙、名を欽たるは、山陽縣人にして、云えらく:「同村の薛道雙は先に謝康樂を事を共とし、去る九月の初を以て、道雙は同村の成國因り欽に報ぜられて云えらく:『先に臨川郡を作し、事を犯し廣州に徙送せる謝は、錢を給し令し弓箭刀楯らの物を買わしめ、道雙をして鄉里の健兒を合せ要わしめ、三江口にて謝を篡取せんとす。若し得、意に如きたるの後、功勞は是に同じかりき』と。遂に部黨を合せ謝を要えど、及ばず。既に還じ飢饉せば、緣路にて劫盜を為したり」と。有司は又た奏じ法に依りて收治せんとし、太祖は詔じ廣州にて棄市刑を行ぜしむ。死に臨みて詩を作して曰く:「龔勝に餘生無く、李業に終盡有り。嵇公は理は既に迫り,霍生が命は亦た殞ず。悽悽たる霜葉は凌ぎ,網網たる衝風は菌ず。邂逅は竟に幾何ぞ、短きを修むに愍れむ所非ず。心を送りて自ら前まんと覺り、斯く痛きを忍ぶこと久已たり。我が君子の志を恨む、巖上の泯と獲ず」と。詩に稱うる所の龔勝、李業は、猶お前詩の子房、魯連の意なり。時に元嘉十年、年四十九。著さる所の文章は世に傳わる。子の鳳は蚤きに卒す。


(宋書67-17_衰亡)




臨終詩

広弘明集こうぐみょうしゅう」という唐代の仏教思想に関する文章を集めた本においては以下のようであり、おそらくこれがもとのテキストなのではないかと思われているそうだ。えっ後代の文集に載ってるほうがなんで元テクストなんだって? お前さぁ、宋書書いたやつが誰だかわかってんのか? ……そう、沈約しんやく、だよっ!


龔勝無遺生 季業有窮盡

嵇叟理既迫 霍子命亦殞


淒淒淩霜柏 納納銜風菌

邂逅竟幾時 修短非所湣


恨我君子志 不得岩上泯

送心正覺前 斯痛久已忍


唯願乘來生 怨親同心朕


重複している部分にもやや異同はあるが、見るべきはやはり沈約が省いた二句だろう。「来世ではもう少し心穏やかに生きたいものだ、親しき人たちが私と志を同じくしてくれたならば」と結ばれている。つまり自分が辿ってきた道をやや悔いる論調なのだが、そこを省いたことによって沈約は「ぼくのかんがえるさいきょうの謝霊運はどこまでもその直情の念を貫き通したのだ! カックイー!」に変更してしまったわけである。


ほんっと沈約、お前さぁ……。

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