謝霊運25 霊運四友   

謝霊運しゃれいうん始寧しねいに引っ込もうかという時、

同門の謝惠連しゃけいれん何長瑜かちょうゆ荀雍じゅんよう羊璿之ようしゅんし

文章を見せっこしあい、また共に

山沢を練り歩くなどし、交流を深めた。

人々はこの四人を謝霊運の四友と呼んだ。


謝惠連。

幼いころから聡明でこそあったが、

何せケーハクである。

そのため父の謝方明しゃほうめいからは

ろくに目を掛けられていなかった。

謝霊運が永嘉えいかを去り、

始寧に引っ込もうかというタイミングで、

謝方明が会稽かいけい太守として赴任していた。

そのため謝霊運、

謝方明の元に挨拶に出かける。

そこで改めて謝恵連と出会い、

その聡明さに打たれる。

更に謝恵連の家庭教師が何長瑜であった。

二人とやり取りをする中で、

謝霊運、こいつらやべえ、と思う。

そして謝方明に言う。


「恵連くんの才能がこれだけすごいのに、

 あなたは凡子扱いしかできんでいる。

 何長瑜どのに至っては魏の時代の大文人、

 王粲おうさんレベルの文才の持ち主だ。

 にもかかわらず、あなたは下客扱い。


 あなたは賢人を礼遇する才能に

 欠けておられるようだ!

 ならば何長瑜どのについては、

 自分に引き渡して頂いた方がよかろう」


うーんこの。ともあれ、

そんなわけで謝霊運は何長瑜を引き連れ

始寧へと帰還した。



荀雍は字を道雍どうようといい、

員外散騎郎にまで至った。


羊璿之は字を曜璠ようはんという。

少しのちの話となるが、

臨川りんせん內史であった頃に、

竟陵きょうりょう王の劉誕りゅうたんに礼遇を受けた。

459 年に反乱を起こした劉誕が敗北し

処刑されると、羊璿之も処刑された。



話を何長瑜に戻そう。

その文才は謝惠連とほぼ同等、

やや劣る、と言った感じで、

荀雍、羊璿之のレベルは

二人には及んでいなかった。


劉義慶りゅうぎけいが文学サロンを開催した際に

何長瑜は事務員から幹部待遇に

引き上げられている。


ただ、サロン内での扱いには

やや不満があったようで、

同門の何勗かきょくに手紙を送った時に、

韻文で同僚について、

こんなことを書いていた。


陸展染鬢髮 欲以媚側室

青青不解久 星星行復出

 陸展りくてんは白髪を染めて若作り、

 側室の歓心を買うのに大忙し。

 ずいぶんと不自然に

 黒々としたことよ、

 ずいぶんとせせこましく

 お振る舞いでいらっしゃる。


こんなノリの句が、五、六句。

これが大ウケだったようで、

家の若者たちはうかつにも、

それらを盛大に歌って回った。

そして、当代一流の文士の韻語である。

大流行し、さらに尾ひれがつき、

無駄に過激な内容と化していった。


事態を知った劉義慶、大激怒。

劉義隆りゅうぎりゅうに申し出て、何長瑜を

広州の曾城そうじょう県に左遷させた。


その後劉義慶が死ぬと、朝士らは

劉義隆の元にやってきて

「何長瑜どのをお許しください」

と嘆願してきた。


何勗も臨川郡の事務取り締まりであった

袁淑えんしゅくに言っている。


「長瑜をどうか帰還させてやってください」


だが袁淑は言う。


「臨川国の英主を

 失ったばかりだというのに、

 早々に流刑人のことをどうこうだなどと

 考えるものではないぞ」


つまりこの段階での期間は却下された、

ということなのだろう。


その後劉義隆の息子、劉紹りゅうしょう

尋陽じんように赴任する(※なお当時十二歳)と、

何長瑜をその幹部、書記官として

迎えることが決定した。


曾城から尋陽に向かう何長瑜であったが、

途中の板橋はんきょうという地で

暴風に飲まれ、川に転落。溺死した。




靈運既東還,與族弟惠連、東海何長瑜、潁川荀雍、泰山羊璿之,以文章賞會,共為山澤之游,時人謂之四友。惠連幼有才悟,而輕薄不為父方明所知。靈運去永嘉還始寧,時方明為會稽郡。靈運嘗自始寧至會稽造方明,過視惠連,大相知賞。時長瑜教惠連讀書,亦在郡內,靈運又以為絕倫,謂方明曰:「阿連才悟如此,而尊作常兒遇之。何長瑜當今仲宣,而飴以下客之食。尊既不能禮賢,宜以長瑜還靈運。」靈運載之而去。荀雍字道雍,官至員外散騎郎。璿之字曜璠,臨川內史,為司空竟陵王誕所遇,誕敗坐誅。長瑜文才之美,亞於惠連,雍、璿之不及也。臨川王義慶招集文士,長瑜自國侍郎至平西記室參軍。嘗於江陵寄書與宗人何勗,以韻語序義慶州府僚佐云:「陸展染鬢髮,欲以媚側室。青青不解久,星星行復出。」如此者五六句,而輕薄少年遂演而廣之,凡厥人士,並為題目,皆加劇言苦句,其文流行。義慶大怒,白太祖除為廣州所統曾城令。及義慶薨,朝士詣第敍哀,何勗謂袁淑曰:「長瑜便可還也。」淑曰:「國新喪宗英,未宜便以流人為念。」廬陵王紹鎮尋陽,以長瑜為南中郎行參軍,掌書記之任。行至板橋,遇暴風溺死。


靈運の既に東に還ぜるに、族弟の惠連、東海の何長瑜、潁川の荀雍、泰山の羊璿之と文章を以て賞會し、共に山澤の游を為さば、時人は之を四友と謂う。惠連は幼きに才悟を有せど、輕薄にして父の方明に知らる所為らず。靈運の永嘉を去りて始寧に還ぜるに、時に方明は會稽郡為り。靈運は嘗て始寧より會稽に至りて方明に造り、過りて惠連を視、大いに相い知賞す。時に長瑜は惠連に讀書を教じたれば、亦た郡內に在り、靈運は又た以て絕倫を為し、方明に謂いて曰く:「阿連が才悟は此の如きなれど、尊は常を作し兒を之く遇す。何長瑜は當に今仲宣たるべくに、飴すに下客の食を以てす。尊は既に賢を禮す能わざらば、宜しく長瑜を以て靈運に還ずべし」と。靈運は之を載せ去る。荀雍は字を道雍、官は員外散騎郎に至る。璿之は字を曜璠、臨川內史にして、司空竟陵王の誕に遇せらる所と為り、誕の敗るるに坐し誅さる。長瑜が文才の美は惠連に亞ぎ、雍、璿之は及ばざるなり。臨川王の義慶の文士を招集せるに、長瑜は國侍郎より平西記室參軍に至る。嘗て江陵にて書を寄せ宗人の何勗に與うるに、韻語を以て義慶が州府の僚佐を序して云えらく:「陸展は鬢髮を染め、以て側室に媚びんと欲す。青青たるの解かざること久しく、星星と行きて復た出でたり」と。此の如きを五、六句、而して輕薄なる少年は遂に演じ之を廣め、凡そ厥の人士は並べて題目を為し、皆な劇言苦句を加え、其の文は流行す。義慶は大いに怒り、太祖に白いて除して廣州の統ぜる所の曾城令と為す。義慶の薨ぜるに及び、朝士は第に詣で哀を敍し、何勗は袁淑に謂いて曰く:「長瑜は便ち還ずべきなり」と。淑は曰く:「國の新たに宗英を喪わば、未だ宜しく便ち流人を以て念うを為すべからず」と。廬陵王の紹の尋陽に鎮ぜるに、長瑜を以て南中郎行參軍と為し、書記の任を掌ぜしめんとす。行きて板橋に至るも、暴風に遇いて溺死す。


(宋書67-16_為人)




ん?


劉義慶は 444 年に死亡。対して劉紹の尋陽赴任が 443 年。若干タイムラインがねじくれている。尋陽赴任後一年弱経ってからの復帰が決定した、という感じになるのかなあ。この記載ねじれは微妙に気になる所です。


ともあれ、劉義慶のところに出てきた文人が謝霊運とも関係していて、更にその文人たちが世説新語せせつしんごにも絡んできたらしい、という、川勝義雄かわかつよしお氏の世説新語形成論を後追いさせて頂く感じになりました。


なお劉義慶伝で上がっていた劉義慶サロンのメインメンバーは陸展、何長瑜、鮑照ほうしょうの三名。……鮑照さん詩はいっぱい残されてんのに、史書上じゃ扱い雑すぎない……?

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