第十二話 姉の涙

 そのまま服を着て、自室に籠城する。

 まず前提からいこう。雪奈さんに夜這いされたら理性を保っていられる自信がない。

 今は俺が自制したり、雪奈さんが止めたりなど、大事には至らずに済んでいる。


 雪奈さんが冗談で止めたりすることからも、本気でそういうことになろうとするつもりはないのだろうけれど。万が一。本当に万が一、両方とも流れてしまっては雪奈さんが解雇されるのは請け合いだろう。少なくとも俺だったら辞めさせる。


 そうなれば、雪奈さんは再び無職に返り咲くなり、不本意な仕事をやらされる可能性もある。これも絶対に避けたい事柄のひとつなのだが、何よりも。



 雪奈さんと一緒にいたい。



 この想いが大きい。毎分毎秒強くなっている気もする。今でさえかなり強くなっており、ここで解雇などになったら俺は一生自分を責めることになるだろう。


 家族愛なのかそれとも別の何かなのか。それは分からないし、分かりたくもないが。

 順当に行けば三年間で終わってしまう関係だが、だからこそ短縮なんてことになってほしくない。

 そのまま伝えれば、雪奈さんもきっと分かってくれて。でも次の日になればいつも通り接してくれるだろう。そのいつも通りが危なっかしくもあるのだが。


 だけれど、しょうもないプライドが邪魔するのである。もはや雪奈さんに折ってもらったほうがよいのではないのだろうか。

 答えの出ないまま悶々としていたら、ドアが叩かれた。この家には俺と雪奈さんしかいないので、十中八九雪奈さんなのだろう。


『永政くん、開けてよー』


 やはり雪奈さんだった。すぐ開けてくれると思っていたのだろうか、しきりにドアを叩いている。


「嫌です」


 そう言葉にすると、すぐさま俺の中の良心が俺を咎める。だが、こうでもしないと予防にはならないだろう。明日謝ったら許してくれるのだろうか。

 拒絶する言葉を吐いたばかりなのに嫌われないか心配になっていると。


『え、ど、どうして? ……ははーん。分かった、恥ずかしいのね? 大丈夫よ、私は』


 心配そうにする雪奈さんの声が聞こえ、次の瞬間には普段のテンションに変わってしまった。

 ここでドアを開けてしばらくじゃれ合ってから帰ってくださいとでも言うことができただろう。だけど雪奈さんの言葉を遮って喉元から飛び出した言葉は。


「俺の言うことを聞けよ!!」


 という、雪奈さんを否定するようなものだった。

 雪奈さんの言葉や扉を叩く音が消える。世界が止まったようにも思える一瞬が過ぎると、扉の向こうから再び声が聞こえた。


『そ、そうよね。ごめんなさい。早いところ寝てね。お休みなさい』


 しかし、その声は今までに聞いたどんな声よりも悲し気で。到底雪奈さんの声なんて思えなくて。

 何をやっているのだ、俺は。

 頭を抱えてうなだれようとしたのを寸前で止める。


 ——今なら、まだ間に合う。

 今追いかけたら、まだやり直せる!


 そう思うが否や、俺は走り出した。といっても、先ほど雪奈さんが扉の前から去ったであろう時間からさほど経過してもいないので、そこまで走ってもいないが。

 ああ、こんなことになるなら最初から衝動的に行動するものではなかったな。などと思いながら、雪奈さんの肩を叩く。


 長い金髪が揺れて、照明の光を反射し煌めく。水のように澄んだ碧色の瞳が俺を見据える。

 驚くほど白い頬には、確かに涙が流れていた。

 俺は雪奈さんを泣かせてしまったのか。


 どうしようもない怒りがふつふつとこみ上げてくる。もう二度と繰り返してはいけない。

 その覚悟を込めて、俺は頭を下げて言った。


「すみませんでした」


 たった一言の謝罪の言葉を。

 理由などを聞かれたらそのときに答えればいい。一言目はまず一番伝えたいことであるべきだ。

 そういった意図で発せられた言葉は雪奈さんにも届いたようで、ハッと息を呑む音が耳に届いた。頭を下げているがゆえ、どんな表情をしているかは分からないが。


「……大丈夫よ。顔を上げて」


 しばらく間が空いてから、雪奈さんの優しい声が上から降ってきた。

 安心半分、申し訳なさ半分の言葉に表しがたい感情を抱きながらも頭を上げると。



「好きよ」



 という言葉と共にぎゅっと抱きしめられる。

 石鹸の香りと雪奈さんのミルクのような匂い、温かい体温。独特の柔らかさに頭がいっぱいになる。


「お、俺も、です」


 あまりに予想外な出来事に、言うつもりのなかった言葉が口から零れ落ちる。狙っているのだとしても、ますます俺は雪奈さんを好きになれるのだろう。

 一生懸命考えても、結局手のひらで転がされてしまう。そんな関係がどうしようもなく心地よい。


「そう。ありがとう」


 耳元でそっと囁かれ、妙にくすぐったい感覚が身体じゅうを駆け巡る。

 ゆっくりと俺を抱く腕の力が緩まり、ゼロになったと同時に俺たちは一旦距離を取って。


「あはは、結構傷ついたのよ? でも、そのおかげで永政くんから好きって言葉を聞けてよかったわ。一緒に寝ましょう?」

「好きって家族愛とかのほうですからね、変な解釈しないでくださいね!」


 元気になった雪奈さんに、一応補足の言葉を伝えておく。これから数少ない友達を呼ぶ機会もあるだろうし、そのときにイジられたら堪らないからな。

 そんな俺の言葉に、雪奈さんは含み笑いを浮かべて「ふふふ」と言うばかりだ。大丈夫なのだろうか。


「ま、一緒に寝るのはいいのよね?」

「よくな……いえ、大丈夫です。ですが、寝るだけですからね?」


 よくないと言おうとしたらかなり寂しそうな顔をされたので言い淀み、あっさりと言うことを変えてしまった。


「やった。今日は永政くんと枕投げして語り明かすぞー!」

「それなんて修学旅行ですか?」


 そうして、俺はやたらテンションの高い雪奈さんのあとについて行くことになってしまった。

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