一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(3-3)


『追伸。アルマン、お前は昔、よく兵隊さんごっこをしてほしいと強請ったけど、兄は、それが大嫌いでした』



「……、」


 え、と。小さく声が漏れた。


 ──嫌い?

 ──そんなこと、一言も。


 兄が遊びを断る理由は、いつだって『勉強で忙しいから』だった。勉強、そう、勉強──。



『兵隊なんて嫌いです。誰かを守るための手段に殺人が含まれるからです。

アルマン、お前はやさしいから、本当はやりたくなくても家族が仲間外れにされないように、遊びに加わっていたね。

同じように、お前は今、苦しい道の中にいるのでしょう。兄は、お前がたくさんある苦しみの中で一番苦しい道を進み、その先でやさしさを見付ける人間だということを知っています。自分がどれだけ傷付いても誰かにとって最良の選択をする。兄はそれを、羨むくらいに尊く思っています。

寂しい思いをさせてごめん。苦しい道を歩ませてごめん』



 字は所々風に吹かれるともしびのように揺れて、読むことが難しかった。けれどアルマンは、親指で文字をなぞりながら、ときおり視線をつまずかせながら、読み進める。



『それでも兄は、お前が生きていると知って、この丘には来ていないと知って、心の底から安堵しました。お前が生きていることが活力になりました。どうかこれからも生きてください。寂しくて苦しくても生きてください。それだけが、兄の願いです』



 最後の一文字に視線を伸ばし、それから最初に戻ってもう一度じっくりと読んでから、アルマンは、顔を上げた。


「同期と……そう言われましたか」

「ああ」

「兄の……兄の死に際がどういったものだったか、ご存じないでしょうか」


 望みの薄い質問だ。クゼの丘戦線は三万人以上の人間が入り乱れた攻防だったと聞く。その中でたかが一等兵が死んだ瞬間など、誰の記憶にも留まらない。

 そのはずだった。


「知っている」

「え、」

「聞いて後悔しないか。あまりいいものではないが」


 蜂蜜色の瞳に問われ、アルマンは唾を飲むと、静かに頷いた。


「サリマン・キーガンはやさしさと頭の良さしか取り柄のない男だった。剣術も銃術も体術も成績はあまり良くなく、しかし『家族のもとに帰りたいから』と毎回しぶとく生き残った。そういう男は、案外最後まで生き延びる。最後というのは、戦争が終わるまでだ。けど死んだ。戦場でられたんじゃない。わかるか」

「いいえ──」

「あいつ──死体のタグを回収しているときに、死にかけた敵兵にでくわしたそうだ。そいつが『水、水、……』って、そう言っているのを、なまじ頭が良かったから、それがわかってしまったんだ。それで自分の水筒の蓋を開けようとしてる最中、その敵兵に鉄砲で撃たれて死んだ」


 また、沈黙が二人の間を満たした。隣の席の夫婦が立ち上がり会計を終えてから、乾燥した唇は震えながら動いた。


「兄には、友人がいたんですか?」

「両手では数えきれないほどに」

「兄は、医者になりたがっていましたか?」

「衛生兵の手伝いをしているところを見かけたことは何度もある」


 兵士は淡々と答える。

 馬鹿な兵士だと思う。敵に情けをかけて殺されてしまったなど、間抜けもいいところだ。

 けれど──ああ、その行いは。

 濃緑色の軍服を纏い、蛆にまみれ怒りのまま言葉を吐く兵士ではなく。

 机に向かっている背中に声をかけたときに振り返った、困った顔の青年。

 アルマンが知っている兄の姿だった。


「なんだ……生きてたんだ」


 そう、アルマンは溢した。

 兵士が、首を傾げる。言外に否定している。「お前の兄は殺された」と。


「……違うんです。体の話じゃなくて、ただ……兄は、私の知っている兄のままだった……。……うん。そうだった。兄さん、私が生き延びたことを恨んだり、軽蔑して責め立てるような人じゃ、なかったよね」


 肉体は死んだ。でも、戦争に行っても兄は自分の知っている兄だった。医者になりたがっていた、ただの若者──それが兄の核、兄の魂。腰に抱き付くと大きく手を広げて抱き締め返してくれた、やさしい兄さん──。

 だからアルマンは、静かに頷いた。兵士は目を伏せ、「そうか」と端的に返す。

 そしてアルマンは、背筋を伸ばした。


「サリマン・キーガン一等兵の遺品、その弟、アルマン・キーガンが確かに受け取りました」

「……サリマン・キーガン一等兵の遺品、確かに引き渡した」


 間もなく、昨日と同じ檸檬のジュースが届いた。爽やかな甘味のあるそれを、アルマンはゆっくり味わって飲み干した。やはりなんとなく懐かしい味がしたけれど、いつどこでどんな理由で飲んだことがあるのか思い出すことは、ついぞなかった。

 兵士の去り際に、アルマンは彼に名前を聞いた。


「オレか?」

「はい」

「……『キャスケット』だ。兵士になってからはそう名乗っている。もしお前が兄の後をなぞりたいと考えたなら、東北部方面軍第一師団でオレの名前を出せ。いくらか助けになるはずだ」


 兵士──キャスケットは、自らと同じ名の帽子のつばを緩く押し上げ、それからどうしてか「ありがとう」と言って別れを告げた。



 アルマンが家に帰ると、母は台所に立ってシチューを作っていた。

 安価だけれどい牛乳と、煮込まれた野菜と肉が混ざったやわらかい香りが満ちた空間。アルマンが自分よりも幾分か細い背中に「ただいま」と声をかけると、とがり気味の顎が少しだけ振り返って「おかえり」と動いた。妹の所在を尋ねると、外に遊びに行ったと返ってくる。


「母さん、あのね」

「ん?」

「兄さん、死んだって」


 くつくつと、シチューの表面に泡が浮かんで弾ける音が耳に届く。しばらくすると、母の背中が震え出して、小さくえつが漏れるようになった。アルマンはその背に近寄り、火を消すと、母の背を擦った。


「ごめんね、母さん。ごめんね。大丈夫、大丈夫……」


 いつも通りの慰めだった。でも伝えなければいけない。兄のことを、彼女に。

 兄が兵士を嫌いなら、アルマンは──兄が好きではなかった。

 医者になるための勉強ばかりで、かまってもらった記憶は薄い。

 たまに都会の土産と手紙を送るばかりの遠い遠い存在のくせに、誰もが尊いように扱う。

 顔もおぼろで母の心労の原因にばかりなる彼のことを正直疎ましくも思っていたし、帰ってきて自分をあの悪夢のように責めるだろうと恐ろしく感じていた。

 母の背中に手を当てていると、母がゆっくりと首を横に振った。


「ちがう、ちがうの……アルマン、私は、お前のことが悲しいの」

「……私?」アルマンは、首を傾げる。

「お前が、やさしい良い子だから、それに甘えてしまった。行かないでって言えば頷いてくれるとわかってて、でも言葉にするのは怖いから服を着せたの。私がそんな苦労ばかりかけたから、泣けなくなってしまったんでしょう? ねえアルマン、ごめんなさい。私、お前にたくさん酷いことをしたわ……」


 ぶどうのように大粒の涙が床に落ちていく。母が自身を責めているのだと気付いて、アルマンは静かに首を振った。


「違うよ、母さん。私は……私は多分、泣く必要がないから泣かないのよ」


 シワの刻まれた目元がアルマンの方を向く。

 思い出が少ないから。煩わしかったから。自分の心が反応する場所を見失っている。だから涙が出ない。

 あの兵士が来るまではきっとそうだった。けれど今は、おそらく、そうではないのだ。


「母さん、あのね。兄さんは、人を助けようとして、それで死んだのだって。呆れるくらい、やさしいでしょ」


 女物のブラウスの袖で涙を拭ってやりながら話す。


「私も……きっとそうよ。兄さんが言ってくれた。一番苦しい道を選ぶやさしい人間だって」


 一番苦しい道。戦争に行った方が楽だったとは言わない。けれど、戦争に行っていれば、非国民呼ばわりされ町の人間から酷い扱いを受けることはなかっただろう。


 ──あの日置かれていた服を着ることを選択したとき、そうすることで周囲からどんな扱いを受けるか、わかっていた。


「兄さん、私に言葉を残したわ。これからも引き続き、家を護り、母さんを慰めて、妹を愛せって──これなら別に、スカートを穿きながらでも出来るから、母さんが安心するなら、私はそれでもいいよ。それがいいの」


 母はある日の朝、部屋のドアの前に服を置いた。

 兄は戦争から逃げられなかった。十四歳を超えた男だったから。医者を目指したのに、正反対のことをすることになった。母は、これ以上子供を連れていかれる苦痛から逃れるために、衣装棚を開いた。

 それを受け入れた自分は脱走兵よりも恥ずべき弱虫だ──ずっとそう思って生きてきた。親しかった近所の人から侮蔑の視線を寄越されても仕方がない、そう俯いて、ひっそりと呼吸をする。そんな毎日。

 だが、違った。母の涙も、妹の笑顔も、間違いなく大切なものだった。一番大切で、一番苦痛に満ちた我が家。──もっと単純なことだったのだ。戦地ではなく、直ぐ近くで守ろうと、そう決めただけ。方法が異なるだけだった。兄は戦争に行くことで家族を守った。アルマンは家に残って母と妹を支えた。兄がそう言ってくれた。認めてくれた。許してくれた。

 そのとき妹が泥だらけで外から帰ってきて、台所で号泣する母と慰める姉を見て「喧嘩ー!?」と大声で言いながら困惑した。

 アルマンはそんないとしい存在を抱き寄せ、おかえり、と告げた。

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