一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(3-2)
刺繡が終わったのは昼手前頃だった。その頃になると大分頭の中が整理出来て、やはり正直に話そう、とアルマは椅子から立ち上がった。
母の寝室を覗くと、
一応リビングのテーブルに『外に出てます』と置き手紙をして、アルマは昨日の大衆食堂に急いだ。弟を連れてまたここへ、と言われていたのだ。
酷く静かなアルマの家に反し、市場はやはり多くの人で賑わっていた。例の大衆食堂に行くと、昨日のことを覚えていたらしい女将が「昨日と同じ席にいるよ」そう教えてくれた。
「兵隊さん」
声をかければ、甘ったるそうな蜂蜜色の目が振り返る。
「来たか」
「はい。すみません、何日も」
向かい合った椅子に座り、頭を下げる。
「いや。オレ……私たちは、望めば数日間軍の資金で一ヶ所に留まることが出来る。なにも迷惑していない」
ぶっきら棒に言う兵士は、やはり昨日と同じように柑橘系の飲み物を、と注文した。それも経費なのかと問えば、本当はダメだけど内緒だ、と返ってきた。変化に乏しい表情に反し思ったよりも人間らしい回答に、アルマはくすりと笑みを
少し、沈黙が流れた。しかしそれは昨日のように言葉に詰まったそれではなく、アルマが次の言葉を口に出すまでの準備時間で、彼女が想像していたよりも短く済んだ。
「……兵隊さん」
「ああ」
「……弟は、」
「お前なんだろう?」
──私なんです、と。
そう続ける前に、兵士が同じ内容を口にした。
彼女──否、彼──サリマンの弟は、
「……どうして………」
長い丈のスカートを握り締め、ブラウスに汗を滲ませて問う。
「……サリマンは、オレの同期だった。毎日うるさく、オレと同じくらいの歳の弟がいると話していた。焦げ茶の髪に眉の上のホクロが自分とお
話さなければ、そう思った。このままでは責められてしまう。軽蔑の眼差しで責め立て、非国民と
「……は、母が……、男子では、兵に取られるから、と」
そうだ。
父と兄が軍に取られて数日後──ある日の朝に──部屋のドアの前に、長い丈のスカートとフリルのついたブラウスが置かれるようになった。
「十三のときから、ずっと……」
アルマンは、それを拒否出来た。母は非力で弱々しいから。でもしなかった。それは──
「父も兄も取られて、身重の母一人置いて家を出るなんて出来ません。私は……」
きっと、こんな建前の理由ではない。
あの頃『兵隊さんごっこ』をした男友達は皆兵士になった。隣の家のシルヴィ。向かいのレノン。工場で一緒に働いている男性も、それにこの食堂の隻腕の息子も、帰還兵だ。アルマンだけだ。アルマンだけが、家に残った。何故。理由は沢山あった。心の弱い母を支えるため、小さな妹の面倒を見るため、父が残した家を守るため、兄の代わりになるため──それらに噓はきっとなかったはずだけれど。今となっては、本当の理由はわからない。
あるとすれば、きっとそれは一番卑しくみっともないものじゃないだろうか。そうだ、母の馬鹿げた要求を拒否しなかったのは、スカートを
ただ単に──戦争に往くのが恐ろしかったからだ。
兄の訃報を知ったとき、悲しみよりも先に「ああ、戦争に行かなくてよかった」「私は家に残ってよかった」、心の底からそんな声が聞こえた。これが本音だ、この声こそがきっと本物だ。兄が帰ってきて女の恰好をした弟を見たら、彼は間違いなくあの悪夢そのままにアルマンの肩を揺さぶったはずだ。その恐怖を回避出来たことに、アルマンは安堵した。
「……私は、……」
続けられぬ言葉の代わりに昨日のように唇を嚙み締めた。今日は檸檬の味はせず、少し苦い感じがした。これは、皮膚の味だ。
徴兵を逃れるための身分詐称は重罪に当たる。そして目の前にいるのはこの国を統べる父の子たる兵士だ。𠮟責とともに鉄拳が飛んでくるだろうと俯き身構えていると、
「そうか」
兵士はただ、それだけ言った。
「え……?」
「オレは……お前が身分詐称をしていてもどうでもいい。オレの仕事は遺品を届けることだ。お前が『サリマンの弟』なら、それでオレは仕事を完遂出来る」
彼は鞄から、あの封筒を取り出した。
乾いた血液と泥にまみれたそれをアルマンがそっと受け取ると、パリパリと音がして、テーブルの上に土塊が薄く積もった。
「……」
封筒の表には、弟へ、と書かれている。
指先で探った中身を取り出すと、中の便箋には、『拝啓、弟へ』から始まる内容が書かれていた。
そのとき脳裏に、しばし女性的だと表されたあの太くもすらりと長い兄の指で髪を
兄はきっと、汚い手段を使って徴兵を逃れた自分を恨んでいるだろう。憎んでいるだろう。あの夢のように、自分を責め立てる内容がそこにあるかもしれない──。一つ大きく息を吸って覚悟を決めると、アルマンは少し乱雑な字形に視線をなぞらせた。
『拝啓、弟へ。
元気ですか。兄さんはそこそこ元気です。
兄さんはこれから、クゼの丘という場所に戦いにいきます。とても厳しい場所だと聞いていますが、それに勝てればこの戦争がどうにかなりそうというので、どうにかなったらいいなぁと思っています。
さて、今回手紙を書いたのは、兄さんの上官(兄さんの兄さんみたいな人です)に遺言を残せと言われたためです。とはいえ、兄さんが死んだらお前たちの食いぶちが父に頼りきりになってしまうので死ぬ気は更々ないのですが、そうも言ってられんのが今の戦況です。というわけで、今、家を任せているアルマンに、もし兄さんが死んでしまったらやっておいてほしいなってことを書き出しておきます。
いち。引き続き家を
に。泣き虫な母さんを見放さないこと。
さん。末の子にせがまれたら、俺が死んだことを含めて存分に話すこと。
これくらいかな。
家で唯一残った男子のお前に、色々なことを任せてしまって、兄は申し訳なく思ってます。でも兄さんも父さんも直ぐに帰るので、それまで頑張って!
あと十五分で召集がかかり、列車と徒歩と船で丘へ向かいます。それではまた。
六四二年秋の終わり サリマン・キーガン』
一連を読み終わり、
アルマンは、なにも感じなかった。
「……、」
ぎゅう、と胸元を握る。
──自分にはこころというものがないのだろうか。
兄の、ことを。
ああ、死ぬ気はなかったのだなぁとか、遺書なのにもうすぐ帰りますとか書いていて馬鹿のようだなぁとか、そういう、少し心が
それでも──それでも。
「……案外、悲しくないものなのですね」
アルマンは冷静だった。自嘲のような言葉に、兵士が
アルマンは静かに手紙を元の通りに折り畳むと、封筒に仕舞おうとして──
「……?」
中に、もう一枚。今しがた読んだ用紙よりももっと汚れた、何かの書類らしきものが入っていることに気付いた。
取り出し、半分に折られていたそれを広げる。そこにサリマンの字で「追伸」から始まる文が
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