一章 サリマン・キーガン──兵隊さんごっこ(2-2)



 母の情緒が落ち着くのには半日かかった。

 アルマは翌日の朝、母には市場に食料を買いに出ると言って家を出て、昨日の兵士を捜しに行った。

 アルマは町の中心部にある市場のにぎわいを抜け、まだ滞在しているのなら朝食を食べているだろうと見当をつけると町で一番目立つ大衆食堂へ歩を進める。

 その道中、彼女に声をかける者は誰一人としていなかった。小さな子供はその傍を歩く大人に強引に手を引かれてアルマから遠ざけられ、大人たちは草が揺れるような小さな声で彼女について何事か口にした。聞き取れた単語は、「みっともない」と「卑怯者」だった。一切を無視して足早に進む彼女の背に、突如衝撃が襲った。


「ッ」


 たたらを踏んでなんとか転ばずに済む。振り返ると、四、五人の子供が剣と旗を模した棒きれを手にして笑っていた。


 ──ああ。

 ──『兵隊さんごっこ』か。

「『ヒコクミン』討ち取ったりー!」


 内一人がそう言って、きゃははと前歯の無い口で無邪気に笑い声を上げた。ヒコクミン、非国民──恐らく親のだろう。子供たちはそのままきびすかえすと、蜘蛛の子を散らすように駆けていった。それをとがめる大人はおらず、むしろどこかから嘲笑が耳に届いた。アルマも同様に、子供らを怒ったり注意するような真似はしなかった。まがうことなき、だったからだ。

 誰とも一言も言葉を交わさぬまま、彼女は痛む背中を手の甲で拭うように擦ると、また静かに歩き出した。


 食堂に着くと、他の客が驚いたようにアルマを見て、次いで侮蔑にその眉を顰めた。顔見知りの女将おかみはそれまで振りまいていた笑顔を一転させ、煩わしそうにアルマを出迎えた。


「……何の用だい?」


 歓迎の対極にあるような声色。彼女の傍で配膳を手伝っている隻腕の青年も似たような態度で、アルマを一瞥してぐに目を逸らした。


「……お店に、兵隊さんが来ませんでしたか」

「ああ、来てるよ。奥の席」


 女将が顎で指した先に背伸びをして視線を伸ばすと、何人もいる客の後ろ姿の向こうの向こうに濃緑色の軍服が見えた。頭には昨日と変わらずキャスケット帽を被っていて、その陰にテーブルに立てかけられた歩兵銃の頭が見えた。

 女将に「ありがとうございます」と言い、店の奥へ進む。


「兵隊さん」


 呼べば、青白い顔が振り返った。

 キャスケット帽の下の顔付きは、兵士らしい厳かさの中にどことなく品の良い雰囲気を感じさせるせいかんなものだった。しかし恐らくアルマとそうとしの変わらない──あるいは少し上くらいの──二十代だろうに、目の下のくまと荒れた肌のせいで老けて見える。病人かそれとも亡霊のような印象が濃いが、ただだるそうな蜂蜜色の瞳だけが、生々しい有機的な視線を彼女に向けている。


「……昨日の」

「はい、サリマン・キーガンの妹です。昨日は母がごめんなさい」

「いや、いいんだ」


 兵士が視線でアルマに椅子に座るよう勧めたため、アルマは素直に従う。次いで、彼は女将にかんきつけいの飲み物を注文した。


「……あの……兄が戦死したというのは」


 指先で熱したものにおそるおそる触れるように問うと、静かな首肯が返ってきた。「そうですか」、苦笑いを向けると、兵士はややげんそうに首をかしげた。


「……お前は、大丈夫なのか」

「……?」

「兄が死んだのに」


 曇り硝子ガラスの向こうからこちらを覗き込まれたような気分だった。そうだ、当然だ、兄が死んだのに冷静な方がおかしいのだ──アルマは唾をえんするとなんとか口を開いた。


「え……、ええ、まあ。あまり兄のことは覚えていないですし、私まで泣いてしまったらお話が進まないでしょう?」

「………そうか」


 しつけだとは感じたが、彼は気遣って言っていたのだろう。アルマはこの兵士が悪い人間ではないことを理解した。少なくとも、自分よりは善い人間だ、と。

 そのとき、先程注文した檸檬レモンと砂糖を煮詰めて作ったジュースが届いた。随分可愛いものを飲む兵士だと思いきや、どうやらアルマ用だったらしい。兵士は黙ってグラスをアルマの方へ寄せた。どうしてこれを頼んだのかはわからないが、ひとずありがとうございます、と受け取り、少しだけ口をつける。なんとなく、懐かしい味がしたような気がした。


「兄は……なにを残しましたか?」


 騒がしい店内でそう問えば、兵士は青い肩掛けかばんから昨日の小さな袋を取り出し、中身を卓上に置いた。

 認識票と、手の平のサイズの白い物体。前者はサリマン・キーガンの戦死報告用の認識票だが、アルマには後者がなんなのかわからなかった。

「これは?」指を差して問うと、兵士は「キーガン一等兵の肋骨の欠片だ」と端的に答えた。


「……本当に死んでしまったんですね」

「そうだ」


 アルマは、遺族を気遣うくせにいやにはっきりとした兵士の受け答えに苦笑した。遺品を受け取り礼を言おうと思ったが、そこでふと、昨日はもう一つ、大半が赤黒い色をしていた白い封筒も持ってきていなかったかと思い出す。


「兵隊さん、昨日のお手紙みたいなものは……」

「あれは弟に渡せと頼まれたものだ」

「……弟、ですか」

「今家にいるのなら届けるが」


 グラスの中で、溶けて形を変えた氷が小さく転がりからりと音を立てる。がやがやとうるさい店の中、二人の間でのみいくらか沈黙が落ちた。

「……弟も戦死したか」黙ってしまったアルマの心情を想像し、兵士がそう訊いた。


「いいえ、生きています。生きていますが、在りはしません」

「……? どういう意味だ?」

「弟は……」


 それ以上言葉が出なかった。アルマはそれを誤魔化すようにジュースを口に含む。こんな暑い日にぴったりな、爽やかでひんやりとした味が喉を通るけれど、彼女はそのしさの半分だって味わえなかった。

 兵士は彼女の様子を見て問い詰めるのは野暮だと考えたのか、「出直すか」と問う。


「いえ………その手紙、私が弟に渡すわけにはいきませんか」

「それは出来ない。必ず本人に直接、と言付かっている」


 兵士の答えにめた唇から、檸檬の風味がした。

 結局その日、アルマは兄の遺品を受け取れなかった。



 俯いた気分で家に帰ると、母はまだベッドの上だった。


「遅かったわね」


 ぼんやりと掠れた声。


「休日だから市場が混んでたの。体調はどう?」

「……あんまりよくないわ」

「まだ寝てなよ。夕飯、私が作っとくから」

「そう? ありがとう、アルマ」


 弱々しく眉尻を下げ、母は「こっちいらっしゃい」と手招きした。それに従いアルマがベッドの脇にしゃがむと、母はアルマの後頭部に手の平を回し自分の額に引き寄せ、長く伸ばした髪を撫ぜた。


「アルマ……どうかお前だけはどこにもいかないでね……お願い……、私をうちに置いてかないで……、もううちに死神を寄越さないで……」


 母の冷たい指の間を、アルマのありふれた焦げ茶の髪が通っていく。アルマは、儀式のように定期的に唱えられるその言葉に、やはり儀式的に頷いた。そんな最中脳裏に過ぎったのは、町の子供が笑いながら自分の背中を棒で叩いた姿だった。



 昔、近所の同い年くらいの子供たちと一緒によく遊んだ。花占いから川遊び、鬼ごっこ、腕相撲にボール遊び。色々なことをしたが、一等人気だったのは、あの子供たちと同じ──長い棒きれの先に旗をくくりつけてそれを振りながら駆け回り架空の敵兵と遊ぶ『兵隊さんごっこ』だった。

 アルマ含め、友達も兄弟のいる子が多かったから、兵隊さんごっこでは兄弟間で『小隊』を作ることが多かった。兄と弟。姉と弟。兄と妹。姉と妹。皆嬉しそうに兄や姉の腰に抱き付いていた。


 ──「お前も兄ちゃん呼んでこいよ」


 友達に無邪気に笑って言われて、アルマは小さく頷いた。


 ──「お兄ちゃんお兄ちゃん、遊んでよ。兵隊さんごっこすんの。お兄ちゃん、今日はお勉強ないでしょ。だって学校お休みだもん。今日こそ遊んでよ。小隊長役やってよ」


 幼いアルマは毎日そうやってったが、兄は毎度首を縦に振らなかった。医者になるための勉強で忙しいから、また今度ね。また明日ね。また来週ね。困ったようなその顔ばかり、覚えている。

 トボトボと友達の下に帰ると、必ず言われた。「ほら、お前んの兄ちゃんは弱虫だ」「戦争に行っても一番に逃げ出しちゃう『脱走兵』だ」──笑われても、反論が出来なくて、悔しかった。

 自分は兵隊さんごっこでいつも大将首を取るほどに活躍するのに、その兄は弱虫呼ばわりをされる。みっともなくて嫌になる。兄のせいで自分までみっともないと思われる。

 当時はそれにいじけて地団太を踏んだけれど──同時に、毎日遅くまで勉強しているその姿に、よっぽど医者になりたいのだろうと幼心に理解した。そして、兄は兵士にならない代わりに、病に苦しむ世界中の人を助ける存在にいずれなるのだろう。そんな風に考えては自分を慰めた。



 けれど、兵士になったのはアルマではなく兄だった。

 皮肉なことだ。

『兵隊さんごっこで活躍して家に残った自分』と『兵隊さんごっこを拒絶し続けたが戦争にいった兄』。どちらが立派か。どちらが弱虫か。長い間考えてきたが、答えは直ぐに出た。



 兄と父を戦争に取られてから、腹の中に妹がいるというのに母は少しおかしくなって。



 ある日の朝目が覚めると、アルマの部屋のドアの前には長い丈のスカートとフリルのついたブラウスが置かれるようになったのだ。

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