【完結】失恋の宇宙《そら》の果て/僕を救ってくれた「愛」

天野橋立

#1 宇宙空間の彼方、見知らぬダメ男に奪われた愛しい彼女

「へ? え? 配偶対登録ペアリングが済んだ? どういうこと?」

 思わず訊き返した僕の顔は、コヒーレント光映話のUUHD立体スクリーン上で――まるで手を伸ばせば触れることが出来そうに見えるその距離で――どんな間抜け面に見えただろう。タフでクールな「宇宙の男」に、全くふさわしくない表情。


 しかしレミは、軽蔑する様子もなく、沈鬱な表情のまま同じ言葉を繰り返した。配偶対登録ペアリング。古風な言い方をすれば「婚姻届」だ。

「ごめんなさい、ハイウェル。もう決めてしまったの。同じ小笠原通信基地の先輩と。男の人」

「いや、しかし……それは僕が地球に戻ったら、その時に正式に手続きしようと。あと、たった半年なんだよ?」

「わたし……。どうしても、あの人のことが放っておけない。駄目なの、わたしがいなければ、あの人は。ワイシャツにアイロンをかけることもできない。……ハイウェル、ハイウェル。あなたはたとえ独りだって。ずっとずっと、今までだってずっと。外縁部あなたの半年と、地球の半年は違うのよ、分かって」

 レミのグリーンがかった灰色の瞳から、透き通った涙がほんの一粒流れた。周囲の計器が、一瞬にして色を喪う。


 どこにいたって、半年は半年だよ、と僕はつぶやく。別に亜光速の宇宙船に乗っているわけじゃないんだから、時間の流れに差異など生じない。

 しかし、何を言ってみても無駄だった。僕の言葉が地球にいる彼女のところへ届くのは、何日も先のことだ。このやり取りは会話じゃなく、お互い一方通行の通告にすぎないのだ。ワイシャツやアイロンという単語に、僕はその遥かな距離を感じずにはいられなかった。この宇宙基地に、そんなものはない。

 もっとも、女性が一度決意して、こうして伝えてきたことを、説得によって変えることなどできはしない。それは、地球の自転を反転させるくらいに、難しいことなのだ。もしもリアルタイムの会話が可能でも、結果に変わりはなかっただろう。


「そうか、分かったよ。でも忘れないで、僕はいつだって君の、レミの幸せだけを望んでいる。だから」

 急にあふれそうになった涙を、僕はこらえた。鋼の意思を持つ、「宇宙の男」の顔を作る。最後の意地だ。せめて、彼女の記憶の中では、僕の姿は永遠に雄々しくありたい。

「またいつか、遠い宇宙のどこかで会おう。その時は、ちゃんと紹介してくれ給えよ、そのちょっと頼りない、よれよれのワイシャツを着た君の旦那様とやらをね! ちょっと喝を入れてやるから、覚悟しとけ、って伝えておくんだ。あの、鋼のハイウェルがね!」

 映話のスクリーンが消えてから、恐らくは1.5宇宙時間U・Tもの間、僕はその場にうなだれて、やっとの思いで呼吸だけを続けていた。幸い、カプセル内の酸素供給量はむやみに豊富だ。いっそ尽きてしまえば、この苦しみから解放されるものを。


 太陽系外縁部の孤独な基地管理者を歴任し続けた「凍れる鋼の意思を持つ男・ハイウェル」。宇宙開発流通機構ジャスコの名物男である僕の心を、7年の長きに渡って遠くから支えてくれたのが、愛しい恋人・レミの存在だった。

 ふっくらとした、バラ色のほおにかかる、グレー・グリーンのさらりとした髪と、お揃いの瞳の色。柔らかな肩を抱きしめると、ほんのりと甘い、ヴァニラ・アイスを思わせる香りがして、それは幼い頃の幸せな記憶を呼び起こした。

 いつだって彼女は「痩せたい痩せたい」と、体重数値をオーバーレイ表示で見せてくれたけど、僕は内心、その数値がちっとも60を下回らないことを喜んでいた。だって、今の君は美しい。


 毎晩、彼女の夢を見た。どんなに距離は遠くても、レミはすぐそばにいてくれた。しかし、コヒーレント光映話のスクリーンの向こうで彼女がそんな生活を送っているか、知ることも、縛り付けることも出来はしなかった。

 彼女を奪って行った男のことなど、考える気持ちにはならなかった。考えて、何になる。まともに向き合えば、その場で電気銃を相手のワイシャツ、心臓当たりに突き付けてしまうかも知れない。だから知らないほうがいいのだ、お互いのため。


 約8.75宇宙時間U・Tの後、めちゃくちゃに崩壊しつつある自分自身をどう立て直すか、ようやく僕はその算段を始めた。いくら何でも、このまま寝込んでしまうわけには行かない。この外縁部では、それは死を意味しかねないからだ。大昔の神話かなんかじゃあるまいし、失恋の悲しみで死んだとか、そりゃさすがに格好悪い。

 数時間おきに訪れては、去って行く外縁部貨物船。通関検査と、各種補給と修理。たまに女性クルーを見かける度、僕はいちいちレミと比べた。


彼女の声はもっと優しい、

彼女はこんなにきびきびとは動けない、

こんなにクールな美しさは僕にはなじめない、君ちょっとやせ過ぎだ。健康のため、もっと食べないと。


 もちろん口に出すわけではないが、まさに余計なお世話である。

 時折、足元が崩れ落ちそうなショックに襲われ、激しいめまいにえずきそうになりながら、まるでマシーンのように、定められた基地管理のルーティンを繰り返すこと数日72U・T

 僕は一つの答えを出した。宇宙開発流通機構ジャスコの上官に、異動要請を出したのだ。遠くへ、もっと遠くへ。

「トリプルゼータ・ブランチ9by9だって? あそこは辺境中の辺境だぞ。駐留するのは管理者たった一人……いやそれは今と一緒か。しかし、寄港するのは無人船ばかりだ。人間に会うことなんて、全くありゃしない。そんなところに5年も行きたいって?」

 さしものクールな上官も、僕の申し出には慌てた様子だった。それはそうだろう。あんな淋しい基地で、まともな精神状態を維持できる人間なんてそうはいない。

「しかし、あそこの俸給は『ロ号参拾弐級』ですよね。向こうじゃ使う場所もないんだから、一財産出来ます。地球に帰ればネオ・ビバリーヒルズ島とかRE:田園調布に家が建ちますよ」

 数日後に届くはずの僕の独り言には耳を貸さず、上官は渋い顔のまま手元のパネルを操作する。

「うーむ。あそこは前任者が三か月前に精神異常を起こして強制送還されてるから、ちょうど空席だな。システムが問題なく管理してはいるが」

 もちろん、こちらもそんなことは調査済みだ。

「わかった。これは、『凍れる鋼の男』のお前にしか無理な仕事かも知れん。すぐに上申して、発令を依頼する。ただ、忘れるな。いつでもSOSを出していいんだぞ。お前をつぶしたくはないんだ、俺だって」

「アイ、サー」

 真面目腐った顔で、僕は画面に向かって敬礼して見せた。

「ヤバかったらすぐ連絡しろ、本当に。繰り返すがな」

 相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔で、上官は言った。真剣に案じてくれているのは、僕にも良く分かっていた。

(#2に続く)

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