86.ペリーヌ物語(家なき娘/マロ)アニメと原作、そんで割と同時代のセーラとの違い。

 原作は「アン・ファミーユ」意味は「家族のように」。邦題は「家なき娘」。


 近年よーやく新訳が出た訳ですが。

 ワタシはアニメが先で原作があとだったんですがね。つか小学生の時には、「少年少女名作文学全集」の中に入ってた「家なき娘」とペリーヌが何故か結びつかなくてなー。

 ちなみに時代が近い感覚で単語を読みたい場合は岩波文庫のほうを見るべし。使っていた単語が時代的にそっちに近い。微妙に違うから。「スペイン靴」が「エスパトリーユ」となるとイメージが全然違うじゃん。


 そんでアニメと原作との違い。


・母親との旅の場面。

 これが完全オリジナル。もともとはパリへやってくるとこから始まるんだよな。

 だから彼女達は​そもそも父親と一緒でも写真屋は大した金にならなかったとしてる。

 それ以前に、誰かに父親が金を盗まれて、仕方なく写真屋をしながら旅をすることにした​ということに。


・犬のバロン

 無論原作には居ないどす。

 ただこの話、かなりの期間ペリーヌは一人で行動するんだよな。そんで原作はともかくモノローグとか「~と思った」的なことが多い。

 その時思ったことを言葉にするのに、相手が無いとアニメでは辛い。内心を言葉にするのに​バロンがいると「独り言」にしなくて済む​んだよな。

 あと、道端で倒れたペリーヌを見つけるときに、さすがに偶然で見つからないだろ、と思う原作の補完ができてる。


・ファブリさん

 原作ではむしろベンディットさんの方が出てる。だけど画面的に彼という若い大人の理解者が居ることでバランスがとれてるんだよな。


・ロザリー一家

 彼女が食堂の娘という設定と弟が居るというのはもともと無し。フランソワーズおばあさんの孫というのはあり。ちなみにロザリーは小指挟んだだけでなく、切断してるぞ……

 原作ではフランソワーズが下宿を持ってるということになってるんだけど。

 正直アニメのほうがこの一家に好感が持てるんだよな。だって「その下宿」の状態が酷いわけだから。

 弟はペリーヌの小島での行動が無言で済まないこととバロンの遊び相手として機能してる。


・テオドール

 と、もう一人社長の甥がいる。どっちもどっち状態だったからより面倒。


・屋敷の中の使用人

 オリジナルwでも皆いい人でよかったよかった。


 正直、原作より皆大概親切なんだよな。

 ペリーヌ自身は、原作のほうが無邪気さが少ないですなw

 13歳?としては大人びていすぎ。内省的。

 アニメの彼女が他の名作劇場のヒロインより今見て好きなのは、


・落ち着いている

・だけど時々無邪気

・一人で考えて行動する

・頭がいい

・言葉とか動作が嫌味でなく品がいい

・表情がシンプルに見えて繊細

・声のトーン


 かなあ。

 まあこの「いいとこの出身なんだけど旅で色々経験している」というのは強い。セーラのように視線が無意識に誰かをどっか見下してる感は無い。少なくとも見せない。

 食事の動作が綺麗、というのが、ロザリーの比較で出てくるんだけど、ロザリーがそれに無邪気に褒めるあたりがいい。

 ロザリーがまた、ずっと態度が変わらないのがいい。お嬢様になってもこのきょうだいはお友達なんだよな。そういうの好き。

 目が小さく描かれてるんだけど、​眉毛の動きと口ですげえ微妙な表情になる​んだよな。

 言葉は70年代の女性の丁寧な言葉、だから「……ですわ」、というのが今の人からするとアレかもしれないけど。

 それとたぶん同じくらいの歳の​他の名作劇場のキャラより大人びた頭身​なんだよな。だから下着を作ったりするシーンにちょっとしたエロティシズムもあるぜ、と。

(これは後で宮尾貴せんせいが「第二の人生アニメーター」でもそう言ってるくらいだから、やっぱり結構見てたひとはそこんとこ感じたんだと思うー)

 正体を隠して社長のとこに居るときは、何かと複雑な思いが表情に出る。もしくは薄い顔だから、こっちに想像の余地を残させるとか。

 まあただし、服が最終回まで変わらないというのはwだけど。

 原作通りに、社長の姉さんのための宴の服を注意されるんだけど、その後別の服を買うという話はないんだよな。まあそこは「同じ服を沢山もってる」という脳内補完しよう。

 そーすると、最終回で別の服が出てきたのが「お嬢様だから」というのになると。


 その逆のおめめきらきらな「少公女セーラ」の完結版(ダイジェスト)。これも見たので比較。

 どう編集されてるかなあ、と思ったんだけど、……ラビニア、「靴を履かせる」なんてやってたのか……

 それと、オリキャラ作ったことで、セーラが自活しようとしたあたりってのもあったのね。

 だがしかし、正直「憔悴したミンチン先生にアメリア先生がとうとうキレる」部分が無かったのは残念。

 ……ただ小公女はな。

 原作自体で、セーラが嫌な性格の奴でしかないし、ベッキーが延々「お嬢様」として扱うってのは、確かにあの階級の大人達としては腹立つだろーなーと思うのよ。

バーネットは小公子で「屈託のない愛されて育ったいい子」描いて、これはこれでいいんだよな。

 「秘密の花園」は皆どっか欠けた三人が友情育んでるし、子供は子供、と扱うスーザン・ソワビーの存在が大きかった。

 んだけど、小公女の場合、もう当初からミンチン先生とか「こういう大人」と見切ってるんだよな。

 だとしたらまあ、オールドミス姉妹で根性で学院経営してきた苦労人でゆがんでしまった女性としては、そういう視線に敏感だろ、と思ってしまうんだよなー。

 で、セーラはセーラで、相手に合わせた「堕ちた子供」の姿は絶対にしようとしないからなあ。

 それと、アニメだとお隣の金持ちと正体を見せ合ったのち、ミンチン先生が乗り込んできたとこで、ミンチン先生がただへたりこむんだよな。

 だけど原作では、「そこで」セーラは「親切だったことがあったか」みたいなことを言うんだよ。で捨て台詞。で、ベッキーを引き取って、学校には戻らない。その後アメリア先生がついらに堪忍の尾が切れて爆発。

 嫌な子供だなあ~としみじみ思うわけですよwwwww


 あとこの二つの作品を比べると、たぶんペリーヌは自然や風景と音楽だけで結構尺稼げるんだよな。よく見ると、この屋敷や工場はちゃんとモデルになってる場所そのものなんだわ。(原作あとがきに写真があった)ちゃんと取材してる。

 で、ハイジとか、この時代のがそうだったように、ともかく美術が美しい。だから何度見ても飽きないんだよな。で、この背景を動かすだけで動画が省略できる。同じ動作使用。コストダウン。上手いなーと思ったざんす。

 ハイジはまあ、ホントに使いまわしの部分も多かったけど。やぎと遊ぶとか……

 いや昔から色々「同じシーン毎度使ってるなー」と感じながら見てたことあったんだよな。嫌な子供だなー。


 あとびっくりしたのが、絵コンテにトミノ参加してるんだよな…… もしかしてハラハラ感があったのはそのせいもあるのか?

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