目撃者

ぼさつやま りばお

第1話

 

 私は流し台である。

 何処にでもある様な、ごく在り来たりな流し台である。

 因みに、私はステンレスで出来ているらしい。

 

 何故こうも明晰に自身の存在に対して確立が出来ているのか、読者諸君は疑念を抱えているだろうが、何故君は人間と呼ばれているかと私が問えば解を示せないと思う。なので今回は、何故か語り掛けている『流し台』として認識して欲しい。

 

 ◇


 さて突然だが、私には憎き仇敵がいる。名を伊藤といふ女だ。

 この女は大変食えぬ奴で、反吐を五時間程煮詰め切った性格をしている。その性格は私の排水管もかくや、どす黒く粘着質で海苔佃煮と言う比喩も正しいかもしれない。

 それほどに黒く淀んでいて、人徳という者が凡そ存在しない女なのである。


「ねぇ、お茶くみにいつまで掛かってるの?」


 そんな折、伊藤が給湯室に現れる。皮肉ったらしく怜悧な眼を向ける先は、総務部アルバイトの麗子さん。彼女はつい最近になって現れるようになった新顔だ。


「すみません、茶葉の所在が分からなくて……。いつも在る戸棚になくて……」


 ハッとした顔を浮かべ、怯えた様に麗子さんは並ぶ戸棚を次々開閉し、首を傾げている。当然私は此処で行われる行為や愚行の全てを黙認しており、昨晩伊藤が茶葉を別の場所に隠したのは既知の事実であった。しかし私は流し台である故、黙認する他無い。 


「なら早く聞きに来なさいよ。日が暮れるったらありゃしないわ。本当使えない」


 ……一つ言い忘れた、私はとある会社の給湯室に設置された流し台である。此処で人々を観察するようになって十年……、いや、もっとかもしれない。

 なので自身の存在が流し台である所以と同時に、家庭に配備されている同胞よりも様々な人間を見ることが出来る。

 故に、この伊藤といふ女の人格がいかに歪んでいるかを存知してるのだ。


「貴方のご家庭はどういった教育されてるのかしら。これだから最近の『ゆとり教育』って奴はダメなのよね。事務もダメ。かといってお茶くみもダメ。これじゃあ明日から来てもらわなくても結構なのよ?」


 俯き、返す言葉も無く口を噛み締める麗子さんの可愛らしい瞳は湿り気を帯び始め、ポロリ。ポロリ。と零れ始めた。ああ、泣かないで欲しい。黒髪のうら若き深窓の乙女よ。このような無意義に歳だけ取ってきた中身の無い浮薄な女の戯言などに耳を傾けるな。


「泣いて済むと思ってるの? 馬鹿じゃない?」

「すみません……直ぐにやります。茶葉の場所を教えてください」

「茶葉なら切らしてるから、他の課から借りてきて頂戴」


 何て女だ。この伊藤といふ女はいつもこうだ。何かと苛立つことがあれば若き女性社員やアルバイトに己が鬱憤を排水管の逆流が如く吐き出すだけ吐き出すのだ。


「貴女と比べて私は忙しいの。早くしてくれる? お茶くみだって立派な仕事よ?」

「は、はい! 直ぐにやらせていただきます!」


 何処かスッキリした面持ちで踵を返す伊藤を、私は込み上げるゴポゴポとした遺憾と共に遠退く足音を聞いていた。遅れて麗子さんはハンカチで涙を拭い、手鏡で表情を確認すると鼻を啜りながら給湯室を後にしていく。

 伊藤の毒牙によって今まで様々な人が我が身体に涙を滴らせたものだ。それこそトイレの洗面台をも凌駕する程かも知れない。アルバイト。あるいは、新入社員。そしてあるいは先程の様に美麗な乙女。様々な新顔達が、伊藤といふ女の嫌がらせによって心を曇らせた。


 私が……私が声を発せるのなら、人々の無念や積年の潔白を証言できるだろう。

 しかし、私は流し台である。当然、時折ステンレスや排水溝から音を出だせるだけで、出来る事と言えば、伊藤といふ女が夜食の即席焼きそばのお湯を捨てる度に、我が体のステンレスを大きく変形させて盛大な音を立ててやる事しか出来ないのである。

……悔しいかな。


 ◇


 人といふ者は、私の前に立つと取り繕うのを止める。ある中年は口臭を気にしてか日に三度は歯を磨くし、上司なる人物等の呪詛を吐き出したりしている。そして、ある女性は小腹を満たしに人目を避けてここで菓子類などを頬張っている。微笑ましい。


 大体の事を微笑ましく眺めていた私だが、やはりあの女だけは好きになれない。

 あの女の人格は酷く湾曲しており、有ろうことか食べ残した食類をそのまま我が排水溝へと流し込んでくるのだ。おかげで私の排水管は詰まるに詰まっている。便秘だ。なのに伊藤といふ女はパイプ洗浄の薬一つ入れようともせず、おかげで私は時折臭気を放つ鼻つまみ者だ。嘆かわしい。


 ゴポゴポと音を立てている最中、給湯室の扉が唐突に開く。若い男だ。彼は……たまに見かける。名を何と言ったか。男子台所に立つべからずという様に、此処へ男子の脚が運ぶことは少ない。扉のガラス戸より見えるオフィスの灯りこそ付いてはいるが、酷く希薄な辺り会社に残っている人間はそう多くも無いはず……。


「おまたせ、三上君」

「いいえ、今日も、ずっと伊藤さんの事を考えていました……」


 私が考えを張り巡らせていると、何処と無く弾んだ声で現れたのは伊藤といふ女だった。その甘く絡みつく様な油汚れの如き声に吐き気を催しつつ、三上と呼ばれた若手社員はこりゃまた水カビの様な声音で伊藤といふ女に呼応していた。


「ねぇ。どう? 此処でするの」

「……少し緊張します」


 なんという事だろうか。二人はエロスな関係に足を踏み入れようとしているのだ。事もあろうか八面六臂の桃色遊戯に掛けた伊藤といふ女はこれが初犯ではない。証拠に、三上に気付かれぬよう、私の身体の縁に左薬指にはめていた指輪をそっと置いている。腐っている。我が排水管の如く穢れと言う穢れがこびり付いている。一度や二度洗ったところでその汚れは堕ちない事を私が何より知っているのだ。


 しかし、悲しいかな私は流し台……。傍観する他無い。


「……ッシ」


 私がない首で項垂れていると、何かに気付いた伊藤は給湯室の灯りを徐に閉ざし、ガラス戸の下に隠れるよう三上と共にしゃがみ込んでいた。


 遅れて、足音が聞こえてくる。あの特徴的な足音は部長と呼ばれる人物だろう。絶賛、伊藤といふ女が桃色遊戯に興じているいわば不倫相手と言う奴だ。若き男の三上からすればピリっと来るクレンザーの様な恋の一部なのだろうが、伊藤といふ女にとっては窮地である。見つかれば部長にも三上にも軽蔑の眼で見られ、何より部長という役職を敵に回してしまったが最後、その人物は二度とこの場には現れない事を私は知っている。


「おーい。伊藤君。あれ……? 夜食でも買いに行ったか?」


 そんな阿呆のエロスジジイの仰々しい独り言が聞こえてくる中、二人は声を殺して笑い合っていた。

「馬鹿だね」伊藤といふ女がそう呟いた時。


――――私の中の何かが……弾けた。


 ボコンッ。ボコボコッ! 熱湯をかけられた訳でもなく、我が体は意に反して激しく震えだした。その拍子に、伊藤が置いた指輪は排水溝へと入り込み、我が体内へと消えて行く。なんという事だろう。下劣で卑劣な最早意味もなさない約束の証明が、運悪くゴミ受けの隙間を通り抜けて排水管をカラカラ堕ちて行くではないか。……もう、限界である。


「こんな暗い所で何をしている?」


 音に気付いたのか、開口一番に飛び込んで来たであろう光景を見た部長は、怒気を含んだ抑揚で二人に訊ねていた。伊藤と三上は突然の音に驚いたまま身体を硬くした様子で、逃げる機会を失ったのだろう。酷く気まずい様子で二人は表情を強張らせていた。


 しかし私は嫌悪によってそれどころではない。今すぐにも積もった禍根や積念、堪えていた物が今にも込み上がってくる。


「違うの! これは違うんだから!」

「……は? 伊藤さん? あの、部長?」


 その時、慌てふためいた伊藤の身体が私にぶつかると、もう、臨界だった。

 私は、思いっきり伊藤目掛け、噴きつけてやったのだ。

 悲鳴。叫喚。罵詈雑言。


 だがなんとスッキリした事か。排水管がこの上なく心地よい。


「この指輪……お前って奴は……!」


 私の吐き出された中身の一部に混じっていたのだろう。指輪を拾い上げた部長は鬼の形相を浮かべると、肩を小刻みに振るわせて顔を真っ赤にしていた。


「この処分は後々話す事にする。三上君は取り合ず帰りなさい」


 腐り、異様な臭気を放つ食類だったものに塗れ、伊藤といふ女は観念したのかその場にへたり込んでしまう。こうなると少し可哀想にも思えたが、腐敗物同様、己が積み上げてきた業が結果となって返ってきた事は拭い去れない。


 ◇


 後日、私は高圧洗浄で綺麗に掃除してもらい、再び快適な流し台ライフへと戻っていた。当然、その日から伊藤といふ女の姿は見ない。何処かへ行ったのだろう。


 さて、読者諸君も、誰も見ていないからといって人に恥じるような愚行はゆめゆめなさらぬよう注意されたし。


 何時何処で、私の様な「ナニモノカ」に見られているか解らぬ事を留意するように。

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