第6話 藤壷の御方退出し、涼が用意した場所へと落ち着く
正頼もさすがに辛抱しきれないで、そっと藤壷の局へと出向いた。
子息達は退屈して女房の部屋へ立ち寄って戯れ言を言い、童や部下達は装束のまま立って待ち続けている。
それでもなかなか東宮は出て行かない。
さすがに藤壷の御方もきっぱりとこう言い放った。
「それではもう本当に退出致します。父も心配して迎えに参りましたので、これから何日か喪に服して、忌み慎むことと致します。来月になりましたら、夜の間にそっと参上いたします」
「それは嬉しいな。普通の女房が参内する様にして出車で毎晩必ず来てくれ。来なかったなら私が其方から思われていないものだと恨んでしまうよ」
東宮は相変わらずの戯れ言を言ったが、ともかくはようやく退出することができた。
供奉の車が二十、大人が四十人、童下仕が八人、
大臣や上達部である子息三人は車で、四位以下は馬に乗り、時勢に明るい者であれば、四位であれ五位であれ、お供しない者はいない。六位などには目もくれられていない。
前駆に続き、車は涼が現在住んでいる西の一の対の南の
他の子息達は皆、その周りをぐるりと護衛する様に立っている。
兄弟とは判っていても、その様子は非常に素晴らしいものだった。
車には兵衛の君や孫王の君も一緒である。大宮や女御、他の姉妹も前夜から待ち通しである。
特に涼の妻である今宮など、自分達の住んでいた場所に彼女を迎えるということで、やって来たらそこで入れ替わろうと待ち構えていたのである。
その様なことをしているうちに夜が明けてきた。
正頼や上達部である子息達は、南の
正頼が言う。
「私自身が迎えに参る筈ではなかったのだが、其方は妙に人に妬まれているというので、途中で悪い人間が現れてはいけないと思ってね…… それにしてもずいぶん待たせてくれたものだ。心配したよ」
「東宮様が、皆退出しているこの時にか、と強く仰有られ、なかなかお許しが出なかったのです。私も色々申し上げてようやく退出することができましたのよ」
「以前、其方の退出の時、ずいぶんこちらも急き立てて、東宮様もお騒ぎになられたので、今度もまたややこしいことになったら困ると思ってのんびり待っていたのだけどね」
すると大宮が口をはさむ。
「本当にずいぶんと久しいことですね。一昨年の秋にこの宮をお産みになって以来、ずっと会うこともできずに。こんなことでもなければ退出のお許しも無いのですからね…… さて、今居るのは男宮かしら、女宮かしら。ちょっと調べてみましょう。見せて頂戴」
すると「見苦しいですが」と藤壷も言って笑う。姉である女御もそこに入り、
「お母様早速何ですか。そうねえ、東宮様はよっぽどこのひとが退出されるのはお嫌なのでしょう。帝もかつてはそうでしたわ。今の様に度々退出をお許しになることはなくって、まるで離して下さらなくて」
「まあそれはともかくどれどれ」
大宮は構わず藤壷の衣を開いて、そのお腹を確かめる。
「そうねえ、今度も男皇子でしょうね」
「男皇子と言えば」
藤壷は問いかける。
「若宮達はどちらに? まずそれを伺いたく」
「一宮は大人しく待っておられましたよ。二宮はびっくりする様な声を張り上げなさるから、ちょっと心配で」
「そんな声は出さない様に私から言い聞かせましょう。きっと心細いのですわ」
やがて空が明るくなって行くにつれ、この改装した大殿の様子が皆の目にもよく判るようになってくる。
元の主である六の君が出ていたばかりで、ただ御座所の敷物を取り替えただけであるのだが、何にしろほんの少しの手落ちも無いのだ。
*
一方涼は、沈で作った小さな趣味の良い唐櫃に鎖と鍵を添えて贈った。
「よい折りですのでこれをどうぞ。ここに居る間に使っていただければと思いまして。こちらは引っ越し先にも用意がございますので何も持って行く必要はありません」
そう言い切る。
「ということで、我々の住んでいたところへどうぞお移り下さい。この寝殿では色々不都合もございましょう。あちらはその昔、吹上にあったものと取り替えたものですので住みよいと思います。ともかくできるだけのことはさせたつもりです」
大宮と仁寿殿女御も横から口を挟む。
「そうですね、こんなに住みよいところは何処にもないでしょう。よくここまでしつらえましたね」
すると涼は、
「やがてお帰りを祝って三日間の饗応を致します。その時には東の対を使って、家司や我が祖父、紀伊守なども使ってお仕えいたしましょう。男であれ女であれ、そこにいる者全てに折敷を九、下臈にも六、四渡しましょう」
とか何やら皆で話しているうちに、東宮から桜の花に点けられた紫の色紙に書かれた文が届いた。藤壷が開いてみると。
「ただいまどんな様子かと気になって仕方がない。こんな調子では待ちきれないかもしれない。どうして退出させてしまったのだろう、と悔やんで仕方がない。
―――風が吹いたも散らない花は、落ち着いて見えるのに、どうして私は落ち着かないのだろう―――
皆其方故だ。先々、其方無しでどうやって過ごしたらいいのかと考えてしまう」
とあった。
「ああ、この字も久しぶりに見た。大変御上達されているな」
そう正頼は言い、女御の居る御簾の内へと差し入れる。
「まあこれは、仲忠どのの字とずいぶん似てきましたね」
女御はそう言って藤壷の方を向いた。
「ええ、大将の書いて奉ったお手本を、真名であれ仮名であれそればかりを手習いの手本にお使いになっておられます。もう古くなってしまった、新しい手本が欲しいと常々仰有っているのですが、なかなか彼も奉ろうとはしなくて。私にまで、催促してびっくりさせてやれ、などと無茶なことを仰有いますのよ」
「詩を作るためと伺いましたが、そうではないのですか?」
「何ごとにつけても人の一歩先に行こうとなさる貪欲な方だからな」
正頼はそう評して、東宮の使いに饗けものを持たせた。
この様に藤壷の返歌をつけて。
「ただ今は旅先では落ち着きません。
―――花よりも落ち着かないと仰有る貴方様は、それでも風も吹かないうちに散る程頼りないお心なのでしょうか―――
そう思ってしまうので」
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