第一章 シロとクロ、逃げる女たち 【第六節 ガラバーニュ卿の苦悩】
☆
もともとこのあたりは雨が少ない。加えてこの時期はよく晴れた乾いた日が続く。おそらくきょうも一日雨とは無縁で、さぞ工事がはかどるだろう。
この町ではあまり見かけることのない屈強な男たちが、朝一番から川の両岸で泥だらけになりながらはたらいているのを眺め、ガラバーニュ卿は溜息をついた。
「もしあの者どもが暴動でも起こしたら、それがしどもに制圧できるかどうか……」
「何です、いきなりそのような不吉なことをおっしゃって……」
ガラバーニュ卿の弱音を聞きつけたリアーネ・ユリエンネが、望遠鏡を覗いたまま、その溜息の理由を問うた。
「ユリエンネ卿とて、きのうの我が騎士団の醜態をお聞きになったでしょう? 恥ずかしながら、それがしどもはいざという時にはあまり頼りにならぬのです!」
「堂々というようなことか? 情けない……」
ユリエンネ卿の肩ほどの背丈しかないクロシュ・ハクバードが、ガラバーニュ卿をぎろりと睨みつける。
「確かに情けない話ですが、しかし、それが現実なのです! それがしども、それを嫌というほど思い知り申した!」
額の汗をぬぐって兜をかぶり直したガラバーニュ卿は、視察に訪れた両女史にうったえかけた。
「――そもそも、あの男たちの中によその魔王国の刺客がまぎれ込んでいたとしても、それがしどもには見分けようがございませぬ! その上、その刺客どもが陛下のお命を狙うようなことがあれば、どのようにお守りしたらよいのか……あまりに危険ではないかと、それがし、あえて申し上げたい!」
「やれやれ……パンダやら謎の美女たちを相手に、ずいぶんと自信を打ち砕かれたようじゃな」
クロシュは今年で七二歳になるという。すっかり腰の曲がりきった小柄な老婆だが、ガラバーニュ卿に向ける眼光は老いを感じさせない。四〇なかばの騎士団長を若造呼ばわりするのは、城の住人の中でもこの老練な財務大臣くらいのものだろう。
「ガラバーニュ卿のご懸念も判りますが、この先のことを考えれば、灌漑整備は必要ですから」
望遠鏡のレンズから手もとの資料に視線を移し、ユリエンネ卿が呟く。国の元老クロシュ“ばあさん”と並んでグリエバルト魔王国の両輪といわれるこの女傑も、ジャマリエールに抜擢されて内務大臣の職に就き、すでに一〇年近い。
「……そろそろ城に戻ろうかい」
ガラバーニュ卿とユリエンネ卿をしたがえて灌漑工事現場の視察を終えたクロシュは、待たせていた馬車に乗り込み、ほっとしたように自分の肩を叩いた。
「よいか、若造」
「は……」
「今回の工事は、用水路の整備を目的としておるのは無論じゃが、町の東西を流れる川を有事の際に濠として利用するためのものでもある。どのみち早急に進めなければならぬのじゃ、女手ばかり集めても仕方ないじゃろう」
大規模な工事を前に、ジャマリエールはランマドーラや周辺の町のあちこちに高札をかかげ、男女を問わず広く労働力を募集した。その結果、三日とかからずに集まった労働力の大半は男性であり、そのおかげで効率よく工事が進んでいるのも事実である。
だが、いざという時には町の治安も守らなければならない立場のガラバーニュ卿としては、よその土地から何百人もの力自慢の男たちがやってきているという状況は、決して楽観視できるものではなかった。
「現場ではたらいている男どもがすべて他国のスパイじゃというならまだしも、ひとりふたり交じっておるというだけであれば、それはもう必要経費じゃ。この町は壁を持たず、自由な出入り、自由な経済活動を謳って発展してきたのじゃからな」
「それがしにもそのあたりは判るつもりですが……」
伝統的に女性を優遇するグリエバルト魔王国では、こうした公共事業に一定期間従事しなければ、男性に定住権はあたえられない。工事の間、男たちは町の外で簡易宿舎暮らしをすることになる。町に出入りするのは自由だが、もし何かしらの犯罪を起こせば即座に放逐され、この国の定住圏は永久に手に入れられない。こうしてグリエバルト魔王国では、犯罪志向の低い男性たちを少しずつ受け入れてきた。
「……確かに男手は必要ですな。これからの時代は特に」
馬車の窓から目にする庶民の暮らしには活気がある。ガラバーニュ卿は他国の日常をあまりよく知らないが、この町が大陸でも有数の、豊かで平和な町だという確信が揺らぐことはない。
しかし、乱世で国を守っていくためには、戦力の拡充は必須だった。今後も男女比が二対八のままでは、軍隊を強くすることもままならず、せっかく手厚く保護してきた女たちを守ることすらできないかもしれない。
「……乱世に突入した以上、これからは軍事関係の工事の数も増えるじゃろう。労働力としても戦力としても男手は多いほうがよいし、男がたくさんおらねば子供も生まれぬしな。ワシらが女たちのためにしてやれるのは、なるべく性根のまっすぐな男たちを選び出し、この国に受け入れることくらいじゃ」
「いずれにしても、これは陛下のお決めになられたこと、もうくつがえすことはできません。ガラバーニュ卿には、引き続き治安維持のためにご尽力いただきたく――」
「はあ……ユリエンネ卿がそうおっしゃるのであれば……」
「何じゃ、若造?」
クロシュはふたたびガラバーニュをぎろりと睨んだ。
「――おぬし、リアーネのいうことには異を唱えんのじゃな? ワシのいうことにばかり交ぜ返してくるのはどうしたわけじゃ?」
「い、いえ、ばばさまのお言葉に逆らうつもりなど、決してそれがしには……ユリエンネ卿からも、何かいってくだされまいか?」
「それはわたしの職務ではないので」
かつて“ランマドーラの花”と呼ばれたユリエンネ卿は、じきに五〇になる年だというのに、いまだに若かりし頃の面影をとどめている。それでいてにこりともせず、淡々とすみやかに実務をこなす彼女のファンは、騎士団内にも実はかなり多い。実はガラバーニュ卿もそのひとりであった。
馬車の中でもすでに別の仕事をしているらしいユリエンネ卿は、帳面にさらさらとペンを走らせながら、思い出したようにいった。
「……ところで、デルビル商会から届くはずの荷が遅れているのですが、ガラバーニュ卿は何かご存じではありませんか?」
「は? な、なぜそれがしにお尋ねに?」
「最近、街道沿いに大規模な盗賊団が出没し、隊商が襲撃される事件が頻発しております。……近衛騎士団は王都周辺の警備の任にも就いておられるでしょう?」
「た、確かにそういった報告は聞いておりますが、デルビル商会の荷が襲撃されたという報告は受けておりません」
「デルビル商会か……あそこの先代は誠実な男じゃったがのう。三代目はどうにも軽薄さが鼻につく」
クロシュは静かに溜息をついた。
「あそこが古くからこの国に地盤を築き、今も手広くやっておるのは事実じゃが、ひとつの取引先に依存しすぎるのは危険かもしれぬ。陛下にもすでに奏上しておるが……今後は徐々にほかの商人たちとの取引も増やしていかねばな」
「ですが、まずは街道沿いに出没する賊の問題を解決しなければ、いずれ商人たちがこの都での商売を嫌って寄りつかなくなるということも――」
ユリエンネ卿のペンが不意に止まる。上目遣いの彼女の視線が、老婆の視線と静かに絡み合った。
「若造」
「は、はい?」
「これからは商人たちの護衛に軍の力を借りなければならぬやもしれぬ。そのつもりでおれ。――盗賊が相手でも実戦には違いない。おぬしらの訓練にもなるじゃろう」
「は……」
生まれた時代がそうだったから仕方がないとはいえ、齢四五にして実戦を経験することになるとは思いもしなかった。目の前に積み上げられた仕事の多さ、重さに、ガラバーニュ卿は人知れず溜息をついた。
――つづく
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