第19話 侍女と辺境伯

 日が西に傾き始めた帝都の中心市街、往き交う人々が活発に息づく喧騒に包まれる中、蹄鉄が石畳の道を蹴る規則的な足音と車輪の軋む音がひときわに響き、二人きりの沈黙の時間を彩る。こうしてヴィクター様の操る馬車で帝都に来るのは何度目だろうか。馴染みになった料理店でお互いに会えなかった日々の出来事をお話ししながら早めの夕食を摂リ、それからヴィクター様が帝都に滞在される時にいつも利用されるホテルに向かう。ホテルに到着すると洗練された物腰の熟年の執事さんの案内を受けて最高級のスイートの前に着き、精緻な彫刻が施された重厚な木製の扉を先にくぐって執事さんにチップを渡されてから後に続かれるヴィクター様をお迎えする。


「おかえりなさいませ。ご主人様」

「ただいま。ルーシー」


 ヴィクター様が部屋に入られて扉を閉めて鍵を掛けると、乾いた金属音の後に「失礼するよ」と心地の良い低音の声が吐息とともに耳をくすぐり、返事をする間もなく背後から軽く抱きしめられる。そうして逞しい腕と厚い胸板から伝わる穏やかで力強い鼓動と息遣いと体温を感じながら、高鳴る鼓動を抑えて静かに息を整える。


「ヴィクター様、何度も申し上げておりますが、紳士であらせなければ私の主人たる資格はございませんよ」

「ははは、すまない。君にまた会えたのが嬉しくて、つい甘えたくなってしまってな」


 全く、困ったお方だ。


「そのように明け透けにものをおっしゃられては困ってしまいます」

「暫く、このままでいさせてくれないか?」

「……はい、畏まりました」


 出会ってからもうすぐ二年。亡き奥様へ愛を良き思い出に昇華されたヴィクター様は、フィル様と同じく少しだけダメな紳士になられてしまっている。


「ご主人様、そろそろご準備していただかなければなりません」

「ん? ああ、そうだな」


 少し気の抜けた返事とともに私を抱く腕にぎゅっと力を込めてこめかみ辺りにキスをされた後、名残りを惜しむようにゆっくりと力を抜いて私を解放される。


「お身体をお拭きしますので、寝室でお待ちいただけますか?」

「いや、ここで良い」

「……それでは上着をお預かりします」


 少し離れて心を落ち着けたいのだけれど、私の都合などお構いなしのヴィクター様からコートとジャケットをお預かりして背中に視線を受けながらクローゼットに仕舞い、バスルームで一息ついてから汲み置きの水を入れた桶ときちんと折りたたまれた清潔な布を何枚か持って居間に戻り、ソファでくつろがれるヴィクター様の前に跪いて「失礼します」とタイを抜き、ウェストコートを脱がせ、シャツのボタンを上から一つずつ外していくと少しずつ逞しい胸板が露わになっていく。


「こうして私と二人でいて、迷惑はかかっていないか?」


 黙って私を見つめる視線に耐えながら、固く絞った布で筋肉の隆起をなぞるようにお身体をお拭きしていると、不意に私の身を案ずるように穏やかに問いかけられる。


「今更そのようなことをおっしゃらないでくださいませ。ヴィクター様のような素敵な紳士にお仕えできるのは侍女として名誉なことですから。色々と噂はあるようですが、そもそも身分が違うので困るようなことはありません」


 噂の内容は困ったものではあるが醜聞という訳ではなく、上流階級の社交界の噂が平民の間にまで広まることもない。実際に最近はグレンタレット辺境伯に仕える侍女としての評価を受けて多くの貴族からご令嬢の夜会の付き添いを依頼され、エドワーズ家の給金を遥かに上回る報酬をいただいている。


「身分が違う、か……」


 私の言葉を受けて小さくつぶやかれ、思慮にふけるように視線を落とされるご様子をわざと気にしないように振る舞い、丁寧にそのお身体を拭き上げる。


――コン、コン、コン、コン


「失礼します。クロムウェル閣下! アシュベリーご夫妻がお見えになられています」

「ああ、承知した! 取込み中故少々お待ち願おう!」

「ご主人様、お急ぎくださいませ」

「ああ、わかったわかった」


 お身体を拭き終えて半裸のままのんびりしているヴィクター様を急かしながら夜会用の衣装を手早く着せ付け、タイを締め、自分の身なりも確認する。

 スカートの埃を払い、髪を整えてからゆっくりと扉を開き、並んで立つよく見知ったお二人に礼をして入室を促す。


「どうぞ、お待たせいたしました」


 ポマードできっちりと整えられた金髪に青い瞳、シルクハットを被り仕立ての良い燕尾服に身を包んだにやけ顔の紳士、アシュベリー伯爵エドガー・アシュベリー卿と、ボリュームのある金髪に青い瞳、瀟洒な真紅のドレスに身を包んだ勝ち気な笑みを浮かべる貴婦人、私の旧友でアシュベリー伯爵夫人ブリジット・アシュベリーだ。


「ようこそ帝都へ、クロムウェル閣下! ご機嫌はいかがですかな?」

「ああ、上々だ。お待たせして悪かったね。エドガー卿、久し振りに会えて嬉しいよ」

「閣下、ご機嫌麗しゅうございます。またお会い出来て光栄にございます」


 握手の後ハグを交わす二人の紳士に続き、ブリジットが優雅にスカートを持ち上げて片足を引いて一礼する。


「お久しぶりだね。アシュベリー婦人。また一段とお美しくなられたようだ。君はルーシーにご用事かな?」

「おほほ、お察しの通り、ありがとうございます」


 ヴィクター様がこちらに視線を向けて一歩下がられるのに合わせ、お二人の前に進み出て改めて丁寧にご挨拶をする。


「ご機嫌麗しゅうございます。エドガー卿、ブリジット様」

「ごきげんよう。ルーシーさん。突然の訪問でお邪魔をしてしまったかな?」

「いいえ、そのようなことは……」

「ま、そういうことにしておいてあげましょう。会いたかったわ。ルーシー」

「はい、私もです。ブリジット様」


 にやにや笑いのエドガー卿の言葉を躱し、ブリジットとハグを交わしてお互いの頬にキスをする。


「フィリップ君から今夜の舞踏会に閣下を招待したとお聞きしまして、お迎えに上がりました。今夜の会は貧困救済のチャリティーでしてね。ご参加感謝します」

「ああ、フィルの招待はともかく、君の主催なら断る訳にはいかないからな」

「はは、フィリップ君の企画する夜会は色々と趣向が凝らされていて評判なんですよ。きっと楽しんでいただけるでしょう。 ……ですが、まだ一つ足りないものが」


 エドガー卿はそう言いながら私を見つめ、にやりと笑う。


「私ですか?」

「ええ、私から閣下のパートナーとして参加を要請します。もちろん、ご参加いただけますよね。ルーシーさん」

「ですが……」


 無駄とわかっていながら、断っていただくようヴィクター様に視線を送る。


「ふむ、主催者の要請を断る訳にはいかないな」


 やはり私の気持ちはヴィクター様には届かないようだ。


「うふふ、閣下がルーシーを連れて出られれば大盛況間違いなしだわ。何しろ、噂のカップルですから」

「ブリジット様!」

「では、決まりですね。ブリジット、私はクロムウェル閣下とロビーで待っているから、君はルーシーさんのお色直しを頼むよ」

「ええ、言われなくても。そのためにとっておきのドレスを用意してきたのですから」

「オーケー。では、淑女たちのお邪魔にならないよう、私たちは紳士らしく退散するとしましょうか。クロムウェル閣下」

「ああ、そうだな。積もる話もあるだろう。私もエドガー卿と話があるので、急がずとも構わないよ」

「お心遣いに感謝いたしますわ」


 もう、こうなってしまっては仕方がない。本当に、貴族の方々はそれぞれがマイペースに我を通して私を困らせるのが大好きだ。

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