第14話 旅立ち
ホテルの出す馬車に揺られロンドンを離れてエドワーズ領に入ると、ヴィクター様のご希望を受けて教会へとご案内し、二人でお祈りとアーサー卿へのご挨拶を済ませ、改めて邸宅へと向かった。
正門をくぐってエントランスのドアを開けると、大慌てで出てこられたフィル様が出迎えてくださる。
「ようこそお戻りになられました。ヴィクター様!」
「こんにちは、フィリップ君。予定通り、今日ここを発つので挨拶に来たよ」
「ルーシーも、おかえり」
「ただいま戻りました。ご主人様」
フィル様にご挨拶を返すと、瞳を潤ませ、ぱっと笑顔の花を咲かせる。
「えへへ、どうぞ中へ、私の執務室にご案内します。ルーシー、お茶を淹れてきて」
「長居するつもりはないので、ここで結構だ。汽車の時間があるのでね。すぐにキングス・クロス駅に向かわねばならん」
「そうですか、成果は如何でしたか?」
「ふむ、そうだな。君に勝る跡継ぎ候補は見つからなかった。新たな妻の候補もな」
「それは、残念です」
「まぁ、こういうことは焦って決めても碌な事にはならないからな。それよりも、今回は短い間ではあったが、実りある出会いが多かった。君やエドワーズ婦人も含めてね」
「そう言っていただけると光栄です」
「ルーシーの働きにもよく助けられた。優秀な侍女を取り上げてしまって不自由をかけただろう」
「いいえ、ヴィクター様のお役に立てたのでしたら何よりです」
「これは、侍女を遣わして貰ったエドワーズ家への謝礼だ」
フロックコートの内ポケットを探り、折りたたまれた小切手を出して無造作にフィル様に渡される。
「ヴィクター様、この金額は…… 何かの間違いではありませんか?」
「いや、その額面通りだよ。少なかったかね?」
フィル様は受け取った小切手の額面を確かめて声を出して驚かれ、ヴィクター様はその様子に目を細めて冗談めかして答えられる。
「そんな…… とんでもありません。大変ありがたく思います」
「ははは、君が世間知らずのお坊ちゃまでなくて安心したよ」
「そして、こちらが君への給金だ」
「私はエドワーズ家の侍女としての勤めを果たしたまでです」
「これは私からの君に働きに対する正当な報酬だ。受け取りなさい」
「……ありがとうございます」
一歩退がり、首を横に振る私に、ヴィクター様は革財布から紙幣の束を出し、五枚を数えて強引に手渡たされ、満足気に笑われる。
「それでは、君たちとはもう少しゆっくり話をしたいところではあるが、これにて失礼するよ」
「あの…… ヴィクター様!」
「ん? 何かね。フィリップ君」
「今回、ヴィクター様の要請に笑顔で応じたことを悔やみ、恥じています。この二日間、ルーシーがもう僕のもとに戻らないんじゃないかと不安に押しつぶされそうになり、自分より強い相手に力ずくで大事なものを奪われてもなお、歯を食いしばり笑顔を作って、その不条理を受け入れるのが本当に良いことなのか、ずっと思い悩んでおりました」
フィル様は踵を返そうとされるヴィクター様に一歩詰め寄り、瞳を潤ませた真剣な眼差しを向けて赤裸々な心境を淡々と吐露される。
「……そうか。ならば、これから君はどうする?」
そして、ヴィクター様は真っ直ぐに向けられる眼差しを受け止め、穏やかに問われる。それはまるで、子供の成長を見守る父親のように。
「私は、もっと強くならなければなりません。大切なものを守るため、自分のためだけではない幸福を手に入れるため。父やヴィクター様が、そうであられるように」
その言葉に、ヴィクター様の瞳が潤み、それをごまかすかのように呵呵と大笑される。
「はっはっはっ! そうだ、その通り。今回の君の判断は正しい。だが、大切なものを守れない正しさなど空虚でしかない。男にはときに不条理をねじ伏せ、自分の正しさを証明するだけの強さが必要だ」
フィル様の頭にポンと大きな手を乗せて癖っ毛を乱暴に撫でられるヴィクター様に、嫌がりながらも楽しそうに笑うフィル様が続けられる。
「一つお願いを。大学に入るまでの間、ヴィクター様のお側で学ばせてはいただけませんでしょうか?」
「うむ、私は厳しいぞ。我が領に戻ったらすぐに迎えの者を遣ろう」
「ありがとうございます。数々のお取り計らいに感謝いたします」
「ああ、君が来るのを楽しみに待っているよ」
フィル様と硬く握手しハグを交わしたヴィクター様は改めて私に向き直り、右手を差し出される。
「ルーシー、お世話になったね。本音を言えば、このまま連れ帰りたいところではあるが……」
「ヴィクター様、ありがたいお言葉ではありますが、ご冗談が過ぎます。またこちらにいらっしゃった際にはお使えさせていただきますので、その時にはよろしくお願い致します」
「ははは、実はこの中で一番強いのはルーシーかもしれないな。今後こちらに来る機会も多くなるだろう。これからも、よろしく頼む」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
一つ釘を刺して差し出された手を取ると、ヴィクター様は愉快げに笑われ、「では」と踵を返し、アプローチに停めた馬車に乗り込まれる。
そうしてエドワーズ邸の門を出られるまで二人並んで見送った後、フィル様は何も言わずに私の手をぎゅっと握って早足で執務室に向かわれる。
「ルーシー!」
引っ張られるままに執務室に入り、ドアを閉めると、フィル様は泣きそうな顔で私の名前を呼ばれ、両腕を広げられる。
「ふふ、さっきヴィクター様に立派なお姿を見せられていたばかりではありませんか」
フィル様に身体を寄せ、頬にキスをしてハグすると、苦しいくらいに抱きしめられ、甘えるように頬ずりして胸に顔を埋められる。
「それはそれ、これはこれ。ヴィクター様にお話したことは本気だし、僕の心に変わりはないよ」
「とても素敵でしたよ。いずれフィリップ様は私の自慢のご主人様になられるでしょう」
私の胸の感触を楽しまれるフィル様の癖っ毛に手ぐしを通すように撫で、両肩に手を置いて身体を引き離すと、名残惜しそうにゆっくりと力を緩められる。
「ですから、いつまでも甘えん坊さんではいけませんよ」
「えへへ、はーい」
頬をバラ色に染め、嬉しそうに笑うフィル様のお顔はまだ幼い子供のままだ。
「それでは、お茶をお淹れしましょうか」
「うん、二人分ね」
「はい、畏まりました。ご主人様」
眩しい午後の光が差し込むエドワーズ男爵の執務室、ご主人様と二人きりで過ごすお茶の時間。目の前にはアーサー卿ではなくフィリップ様。お父上の面影を色濃く受け継ぐ新しいご主人様に昔を思い出し、胸が甘く締め付けられる。
私がいない間、フィル様はサラ奥様に連れ回されていたそうで、色んな服を着せられて、昼はブティックや貴族のお得意様の家を回り、夜は舞踏会や夜会に出られていたことを身振り手振りを交えて楽しそうに話される。
そうして、穏やかな日々が過ぎていく。成長期のフィル様にとって私は甘い毒だ。フィル様もそれに感づいておられるからこそ、私と離れてヴィクター様のもとで学ばれることを決意されたのだろう。
ヴィクター様からのお使いの方に連れられて汽車に乗り込まれるフィル様を見送られるサラ奥様の半歩後ろで控えめに手を振ると、フィル様は清々しい笑顔で手を振り返され、空高く汽笛の音が響いた。
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