第6話 ヴィクター・クロムウェル

 目の前に立ち、勝ち気な笑みを浮かべて睨みつけるブリジット・アシュベリー伯爵夫人に笑顔を返し、両手でドレスの裾を少し持ち上げ、片足を引いて軽く会釈する。


「そのお言葉、懐かしいですね。お久しぶりです。アシュベリー夫人。お変わりなくお過ごしのようで何よりです」

「うふふ、お久しぶり。会いたかったわ。貴女も相変わらずの不愛想ね。私のことは昔と同じようにブリジットと呼びなさい」


 目を細めて腕を広げるブリジットにハグし、お互いの頬にキスをする。


「お初にお目にかかります。エドワーズ家の嫡男で次期当主のフィリップ・エドワーズです。どうぞよろしくお願いいたします。ルーシーとはお知り合いだったのですね」

「貴方がフィリップ君ね! 初めまして。エドガー・アシュベリーの妻のブリジットよ。ルーシーとはカレッジの同窓生だったの。貴方のこともよくお話を聞かせてもらっていたわ」

「へぇ、どんな風にですか?」

「そうねぇ……」


 ちらりとこちらに視線を送るブリジットに、いつも目を輝かせて賢く可愛らしいフィル様の話を聴き出そうとしていた幼いころのブリジットの笑顔が脳裏に浮かび、余計なことを言わないようにと首を横に振る。


「うふふ、また今度、機会がありましたらね。今日は久しぶりに会う親友の顔を立てておきますわ」

「それは残念…… またお話を聞ける日を楽しみにしています」

「ご主人様は知らなくても良いことです」


 意地悪そうに笑うブリジットと不服そうなフィル様を横目に、ほっと胸をなでおろしていると、サラ奥様が、よく手入れされた金髪をポマードでバックに固めた青い瞳の紳士、エドガー・アシュベリー伯爵を伴い戻ってこられる。


「お初にお目にかかります。エドガー・アシュベリー伯爵。エドワーズ家の嫡男のフィリップ・エドワーズです」

「初めまして、フィリップ君。君の事はマダム・サラから聞いているよ。スクールでの成績も優秀だったようだね。君には早いうちにアーサー卿の跡を継げるよう私の方からも後押ししておくので、そのつもりでこれからも学業に励みなさい」

「ご高配賜り感謝いたします」

「それと、ポルカ、楽しませてもらったよ。一見繊細そうに見えたので心配したが、なかなかいい度胸だ。これは母親譲りかな?」

「ふふ、それはどうでしょうね」

「ルーシーさんも、お久しぶりだね。妻がいつも会いたがっていたよ」

「お久しゅうございます。アシュベリー伯爵」


 洗練された嫌味の無い柔らかな物腰が、この紳士の育ちの良さと貴族としての頑なな矜持を感じさせる。あれだけ政略結婚を嫌がっていたブリジットが大人しく婚約を受け入れるのも納得だ。


「まさかマダムとルーシー、それに可愛らしい紳士様も一緒だなんて。こんなことでしたら母のお下がりのドレスなんて着てくるんじゃありませんでしたわ」

「ま、せいぜいお姉様のお下がりと言ったところかしら? クラシカルなデザインですが、スタイルは良く洗練されていますわ。なによりも、貴女らしいとても良い着こなしです」

「うふふ、ありがとう。お褒めの言葉と受け取っておきましょう。私は長女なのですけれど」

ロンドンこちらの舞踏会は何度来ても変わり映えしませんわ。懐かしさと安心感を覚えるほど。お芝居の世界に迷い込んだのかと思うくらいに……」

「ははは、それは手厳しい。こう見えてもみんな精いっぱいのお洒落をしてきているのだがね」


 にこやかな中に緊張感のみなぎる二人の会話にアシュベリー伯爵が割って入り、サラ奥様がボールルームを見渡す。


「この中ではご夫妻の装いが一番マシかしら? あとは、五十歩百歩ですわね」

「姉のお下がりで一番マシと言われては、こちらの社交界も形無しだわ」

「あら? あの方…… ふふ、古典的クラシカルというよりも骨董品アンティークといった装いね。でも、気品があって良くお似合いだわ。あの仕立てを着こなせるなんて、なかなかのものよ」


 サラ奥様の視線の先には、黒と紺と緑の格子模様に織られたツイードで仕立てられたスーツを着た長躯の男性が居心地悪そうに一人壁際に立っている。赤みの強い金髪を後ろに流し、浅黒く日に焼けた彫りの深い顔、凛々しい眉をしかめて琥珀の瞳でじっとフロアを見つめる姿は、紳士というよりも、まるで中世の騎士のような……


「あの方はどちら様でしょう? 初めてお見掛けしますわ。貴方はご存知ですか?」

「ああ、あの方は――」


 社交界の多くの貴族と面識のあるブリジットが問いかけ、アシュベリー伯爵がしばらく首を傾ける。装いと佇まいを頼りに知っている限りの貴族の記憶を辿り、ある方が思い当たる。あの方は……

 そのうちに男性に気付いたサーストン子爵が早足に近づいていく。


「いけません。私、あの場を収めて参ります。ご主人様、ご許可をいただけますか?」

「え……? うん、いってらっしゃい」

「ふふ、君のその熱心さには頭が下がる。お手並み拝見と行こうか」

「面白いものが見られると思ったのだがね。では、私はマダムと話があるので、ここはルーシーさんに任せよう。フィリップ君、私の付き合いばかりで妻が退屈しているようだ」

「はい! 奥様をお誘いしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、わがままなお姫様で申し訳ないが、よろしく頼むよ」


 フィル様はアシュベリー伯爵に満面の笑みを返し、ブリジットの正面に向き直して跪き、右手を取る。


「ミセス・ブリジット。このフィリップ・エドワーズと踊って頂けませんか?」

「うふふ、いい度胸ですわ。よろしくお願いいたします。フィリップ卿」


 それぞれの貴族らしいマイペースなやり取りが繰り広げられるのを横目に、サーストン子爵に声を掛けられる男性の元へと急ぐ。


「そのような格好で来られて、えらく遠方からお越しのご貴族様のようだ」

「……ああ、ご指摘の通りの田舎貴族で、こういう場には久しく顔を出していないものでな。勝手がわからず戸惑っていたところだ」

「それでは、初対面の方々にくらいご挨拶なされてはどうかね?」

「ふむ、それもそうだな。では、ご案内をお願いしたい。貴君のお名前を伺ってもよろしいか?」

「ははは、悪いご冗談だ。このような場でのしきたりには疎いようで――」


 若い紳士なら委縮してしまうような皮肉交じりの口調に動じることなく、男性は平然とした様子でサーストン子爵を見下ろしている。

間にあって良かった。静かにため息を吐いて二人の前に進み出る。


「大変お待たせいたしました。グレンタレット辺境伯、ヴィクター・クロムウェル閣下」

「む、失礼だぞ。今話しをしているとこ、ろ…… は? へんきょう…… はく……?」

「ん? 君は?」

「お飲み物はスコッチ・ウィスキーでよろしかったですか?」

「ああ、そうだな。いただこうか」


 琥珀の瞳に私を映し、こちらの意図を察してにやりと口角を上げられる。

この威厳、この度量、さすがはハイランドのいくつもの領地を治める伝統あるスコットランド貴族、今となっては制度上廃された『辺境伯』を称されるお方だ。


「はっ!? まさか貴方のようなお方がお見えになられているとはつゆ知らず、大変ご無礼を致しました、クロムウェル閣下! お初にお目にかかります。サーストン子爵、アンドリュー・サーストンにございます」

「こちらこそ、礼を欠いて要らぬ気遣いをさせてしまったようだ。スコットランドは高地地方ハイランド南部、グレンタレット領領主で辺境伯のヴィクター・クロムウェルだ。以後よろしく。アンドリュー卿」


 クロムウェル閣下が手を差し出し、サーストン子爵が握手を交わすと、遠巻きに様子を見ていた紳士たちが次々に集まってくる。その様子を見て、クロムウェル閣下が眉をピクリと動かす。


「……お嬢さん、ウィスキーはやめにしよう。次の曲目は何かな?」

「ヴェニーズ・ワルツ『美しく青きドナウ』でございます」


 質問しながらフロアの方にちらりと目を向けられるクロムウェル閣下に小さくうなずく。


「君の名前は?」

「エドワーズ家の使用人をしておりますルーシー・ミラーと申します」

「では――」

「ルーシー嬢、このヴィクター・クロムウェルに一曲お付き合いいただこう。よろしいか?」

「……はい、よろこんで」


 差し出された手を取ると、大きく、温かい手のひらに引かれてフロアの中央まで進み出て、お互いに会釈をする。


「差し出がましい真似をお許し下さい。クロムウェル閣下」

「いや、君のお陰で面倒事が避けられたようだ。感謝する。私のことはヴィクターと呼んでもらって構わん」

「……それでは、ヴィクター様。一つ、お願いがあります。この場では貴方の序列が一番になります。ボールルームは見栄と欲望がドレスを纏ったけだものの戦場。最も力を持つ者がその力を誇示しないと秩序が失われてしまいます。お分かりいただけますね?」

「……ふむ、その通りだ。君には、少し大変な思いをさせるが、先に謝っておこう」

「そのようなことは……」


 右手が大きな手に包まれて力強く握られ、背中に添えられた手のひらで私の体重を支えるように抱き寄せられる。半分浮いた状態の身体をつま先で支え、ヴィクター様の太ももに腰を添わせる。


「では、参ろうか」


 ゆっくりとした曲の出だしに合わせ、最初の一歩が踏み出される。

 大きい。想像以上の歩幅、自信に満ち溢れて、優雅で、リズムはぴったり…… この人、かなりお上手だ。

 ヴィクター様が力強く支えてくれる右手に安心して身体を預け、本来は届かないはずの歩幅に足を伸ばす。私の足が着地した瞬間に踏み出される次の一歩に足を揃えると、くるりと身体が回転し、今までに感じたことのないスピードでボールルームの景色が流れる。

 そのままヴィクター様に身を任せて再び足を揃え、再び次の一歩を大きく踏み出す……


「君なら大丈夫そうだ。私に身体を預けてもらえるか?」

「はい、お委ねいたします」


 ヴィクター様はワルツの曲調に合わせて、大きく、優雅に、信じられないほどの速度で大きくターンを繰り返し、私も握られた手と、背中を支える手のひらと、密着した腰から意識が伝わるように身体を操られてステップを揃える。

 次第に速度を増すワルツの曲調に合わせてステップは加速し、ボールルーム中の注目を浴びながら一番外周を回り、もう一つの注目を集め、華やかに、軽やかに舞うフィル様とブリジットのカップルとすれ違う。

 一瞬の間にうっとりとした表情で瞳を輝かせるフィル様と勝ち気に微笑むブリジットと目が合い、すぐに離れる。

 曲の転換点で意志が通い合うようにお互いにピタリと止まってヴィクター様の右手に全体重を乗せて体を反らせ、片足を天井に向けてピンと伸ばすと、歓声が沸き起こる。

 逆さになった視界には同じく華麗にポージングをとるブリジットが澄んだ青い瞳に情熱の炎を灯して私を睨む。

 再びステップとターンを繰り返して曲の佳境、フロアの角に止まってプロムナードポジションを取ると、ヴィクター様が眼光鋭く見つめるフロアの対角にはフィル様とブリジットのカップルが同じくプロムナードポジションでこちらを見つめる。

 他のカップルがその様子を見てフロアの中央を開けると、両組同時に、力強く優雅に、華麗で軽やかに、お互いの居た場所に向かってステップを踏み出す。

 フロアの中央で背中が触れるほどの距離でブリジットとすれ違い、対角に止まると同時に曲が終わる。その瞬間、静まり返っていたボールルーム中から歓声と拍手が沸き起こり、熱狂に包まれる。


「こんなに楽しく踊れたのは久しぶりだ。ルーシー、感謝する」

「はぁ、はぁ…… こちらこそ、夢のような、時間を、ありがとうございます……」


 優雅なワルツの旋律とヴィクター様のリードに身を任せて夢見心地で過ごした時間から意識を戻すと、途端に足が震えだし、膝から力が抜けて景色が傾く。

 その瞬間にふわりと体が浮き、令嬢たちの黄色い声が響く。


「少し無理をさせてしまったようだ。大丈夫か?」

「はい、申し訳ございません……」

「このくらい、構わないさ」


 逞しい腕に抱えあげられてヴィクター様の顔に視線を向けると、琥珀色の瞳で見つめ返されて胸が張り裂けそうなくらいに鼓動が高鳴り、頬が熱く上気するのを感じて、慌てて視線を外すようにきらめくシャンデリアに目を向けた。

 拍手が沸き起こる中、ヴィクター様に抱き抱えられたまま壁際へと連れられ、幼子を扱うようにそっと床に降ろされる。


「立てるか?」


身体の火照りも、早鐘のように打つ鼓動も、夢中になったダンスのせいだ。そう思おうとしても、ヴィクター様のお顔を正面から見ることができず、おぼつかない足元を見つめることしかできない。


「はい、ありがとうございます」

「ふむ、君の主殿にご挨拶をしなければならないが……」


ヴィクター様が周囲を見渡すと、挨拶の機を伺う人が次々と集まってくる。


「ごめんなさい。ちょっと通ります」

「失礼」


その合間を縫って、フィル様とブリジットが現れて、後からアシュベリー伯爵とサラ奥様も合流する。


「お初にお目にかかります。クロムウェル閣下。ルーシー・ミラーの主のフィリップ・エドワーズです。私の侍女が失礼をいたしました」

「いや、失礼を詫びなければならないのは私の方だ。君の許可を得ずに侍女殿を強引に誘って申し訳なかったな。高地地方ハイランド南部、グレンタレット領を治める辺境伯、ヴィクター・クロムウェルだ」


差し出された右手に、戸惑うような照れるような反応をして、はにかみながら握手を交わすフィル様に、ヴィクター様は微かに目を細める。


「ゆっくり話をしたいところだが、どうやら、その時間は取らせてもらえなさそうだ」


アシュベリー夫妻とサラ奥様とに一言二言挨拶を交わしたヴィクター様は、「また後日」と言い残して人々の輪の中に飲まれていった。

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