第4話 好きのち嫌い

 自分の部屋に戻り、手洗いをしようとしたところで、ふと蛇口を捻るのをやめる。

 さきほど、悠が眠っていた時に、うっかり握ってしまった彼の手の感触を洗い流すのが惜しくなってしまったからだ。


 いや、もう料理の時に洗ってはいる。いるのだが、まだ多少は残っているだろう。


 悠に頭をぶつけられた鼻先も、手でさすってみる。先ほど、彼の寝顔を覗きこんでいたところ、突然目を覚まして頭をぶつけられてしまった場所だ。

 ここにも、悠の感触がまだ残っているような気がした。


「って、なにをやってるんですか私は」


 手を洗い、うがいも済ませて病気を予防する。手洗いは大事だ。これが理由で私が体調を崩してしまったら、馬鹿みたいな話である。


「はぁ……」


 リビングに戻ると、いつも使っているはずの八畳間が、やけに広く寂しいものに感じた。悠と話していたせいだ。


 2LDK。高校生が一人暮らしするのに贅沢すぎるこの部屋は、母の持ち家だった。


 半年前、母が仕事で転勤することになった時、私はわがままを言ってこの家に残った。友人はこっちにいるし、なにより高校の転入が面倒だ。向こうの大学に行くつもりなんてないし、だったら残った方がいろいろとスムーズなはずである。


 進学の話までされてしまえば、ダイヤのように硬い頭を持つ母でも、私の意思を汲み取らざるを得なかった。

 父の残した・・・・・この部屋も、誰かに貸し出すよりは私に使ってもらった方が安心できる。もしかすると、そんな心情もあったのかもしれない。


 なんにせよ、そのおかげで、まだ私はこのマンションに、この部屋に――悠の隣に、住んでいるわけだが。


『そうは言っても、しばらくお前と話してなかったし。大体、俺を避けるようになったのは心愛からじゃないか。嫌われてると思ってたんだが?』


 さきほどの彼の言葉を思い出す。


「その通りです。嫌ってましたよ。嫌ってたに決まってるじゃないですか」


 だって、彼は自分以外の人間を好きになってしまったのだから。


 話していると胸がちくちくと痛み、世界が終わってしまったかのような寂寥感を覚えた。

 だから、これ以上、自分が苦しまないように彼を避け、嫌いになることにした。していた。なる――つもりだった。


「……なんなんですか、まったく」


 大体、なんであんな相手のことが好きになってしまったのだろう。

 偶々たまたま同じ病院で同じ日に産まれて、偶々マンションで隣室になって、偶々一緒に遊ぶようになった。

 それだけなら、ここまでは好きにならなかったのかもしれない。


 子供の頃、物静かな私は、よく男子にからかわれていた。


「なあ、白雪って人形みたいだよな。本当は人間じゃないんじゃないの?」


 当時、小学二年生。

 あのくらいの年頃の子というのは、無邪気に人を攻撃して遊ぶところがある。地べたを這う団子虫を転がして遊ぶのと、変わらない感覚で。


 そして、受ける方もまた、相手の心理や幼さなどといったものを思慮できないため、無邪気な言葉を素直に受け止め、傷付くことになる。


 あの時の私は、他愛もない男子たちのその弄り言葉、ちょっとしたダメージを受けていた。あまり表に出すと付け上がるので、無視するように徹していたが、彼らは攻撃をやめなかった。

 その光景を偶々見かけていた悠が、私をからかう男子を、子供ながらの無邪気さでぶん殴ったのだ。


 当然、喧嘩になった。

 その時私をからかっていた男子は三人いたので、三対一の取っ組み合いになった。もちろん、多勢に無勢な悠は喧嘩に負けてしまったが、その日以降その男子たちが私をからかうようことはなくなった。


 喧嘩が終わったあと、私は悠に聞いた。なんであんなことをしたのか、と。


「なんとなく」


 それだけではない。


 その三年後、父を失った私がひどく落ちこんでいた時、悠は私を電車で片道1時間以上かかる有名テーマパークに連れて行ってくれた。わざわざ、貯めていたお年玉を使って。

 なんでそんなことをしてくれたのかと、思わず零れそうになってしまった涙を必死に引っこめながら質問した私に、やはり悠はこう返したのだった。


「なんとなく」 と。


 もしかして悠は、私に気があるのではないだろうか。


 次第に私は、そんなことを思うようになっていた。

 歳を取り、周囲でも好きな人や恋の話が増えていくに従って、徐々にその思いは強くなり、勝手にそう確信していた。

 そう考えるほどに、さらに悠のことを考えるようになって、常に意識するようになった。


 今思えば、なんてことはなかった。

 惚れていたのは、悠の方ではなくて、私だったのである。


 そして、その現実を突きつけられたのは、さらに二年後。


 中学に上がったあと、放課後の帰り道で、彼がひとつ上の名も知らぬ先輩と仲睦まじそうに話しているのを見かけた時のことだった。

 私は、悠については誰よりも詳しい。だからすぐに悟ってしまった。


 彼は、この先輩のことが好きなのだ。


 その予感は当然のように当たり、その先輩と同じ高校への進学を決めた彼は、想い人に告白した後に交際を始めることになる。

 同じく、一緒の高校に進学した私のことなんて、見えていないかのように。


 その頃にはもう、私は悠と疎遠だった。いや、正確にはいつも彼のことは見ていたけど、距離を置いて、なるべく近付かないように心掛けた。好きを、嫌いに変える。いや、変わった。


 私は、そう錯覚していた。

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