ほぼ日刊 三題噺
さく
1回目 ジャスミン
三題「踏切の向こう側で待つ君」「二人だけの世界」「日向ぼっこ」
会社から出てすぐ、ジャスミンが咲いていた。
その姿を見た訳ではないが、この濃厚な香りは白い花の群れを想像させる。
転職して、この街に住み始めてから半年しか経っていない。これからも発見があるのだろう。軽い鞄を肩に掛け直し、携帯を片手に歩き始める。傾いた日光が反射して眩しい。SNSに「帰るわー」といつもの文章を打ち込んで送信。
会社から自宅までは、少し距離があるが徒歩圏内だ。
途中で駅前の商店街の端を横切り、踏切を渡り、幹線道路を歩道橋で越える。少し遠いし、上ったり下ったりは面倒だ。でも、この道のりは『
SNSを見ながら、仕事から、そして友人の言葉から気持ちを切り替える。一時的に無心になるが、足は勝手に道を選んで歩いていく。
音もなく通知が届き、SNSで『お疲れ様』とだけ表示された。普段とは違う、中途半端なぶっきらぼう。
「
気にはなるが、執着しないようにさっさと思考から切り捨てる。その隙間に肉屋の看板が飛び込んできて、私の関心は夕飯へと移る。一人暮らしでもあり、食事に関心が低い私にとってはただの面倒ではあるが、ここで決めてしまわないと深夜にお腹が空いて困ってしまう。
冷蔵庫の中身、何があったっけ。何か惣菜を買って帰れば、米を炊いて野菜を炒めれば簡単に夕飯になる。この肉屋で好きな惣菜はコロッケだ。ジャガイモが甘くて、どこか日向ぼっこの様な匂いがする。
即決し、携帯で支払いを済ませて、ビニール袋を受け取った。ありがとうの代わりに作った笑顔を浮かべて、店主に軽く頭を下げた。
ちょうど携帯が軽い電子音を立てる。確認すると亜理紅からだった。中途半端だったメッセージは、より確実な手段で連絡する為だった様だ。
『今帰り?その辺で会えるかな?』
ビニール袋を適当に腕に掛けて、駅の方向へ足早に歩き出す。そのまま指は淀みなく亜理紅への返信を打ち込んで送信する。
『こちら肉屋さん出た所。駅の方向へ向かってる』
『私も!踏切辺りでちょっと待ってて』
スタンプで、了解の意図を伝えて、二人だけの世界から顔を上げた。
人が殆どいないアーケードの向こうから、カァンカァンと音がする。電車といっても午後4時頃だ。この時間であれば貨物車だろう。だとすれば、足早に行ってもどうせ踏切は開かない。分かっていても、歩調を緩める事は出来なかった。
アーケードが途切れて、視界が開ける。車道に数台の車が並び、歩行者は無し。黄色と黒の縞々で遮られた線路上を、予想通りの貨物車が大きな音を立てて通過しつつある。
その隙間から、踏切の向こう側で待つ君が見えた。
こちらに気が付いていないのか、無表情でただ立っている姿が珍しい。背は平均よりも少し小さい。事務職の女性らしい服装の彼女は、貨物車の風圧で舞い上がる長い黒髪を手で押さえた。私と同じ様に仕事からの帰りだろうか。
私は息を整えながら、無意識に鞄の持ち手を握りしめた。
会える。
私は、自身の浮き立つようなその喜び方に、冷たい恐怖を覚える。振り払おうと、意識して息を吸いゆっくりと瞬きをした。目を開けると、貨物車の最後の一両が通り過ぎた所だった。
私を見つけた亜理紅が、ぱっと笑顔になり、小さく手を振ってくれた。
釣られて笑顔を浮かべて、同じように手を振った。踏切とその距離に救われた気がする。
耳障りな音が止み、踏切が上がってしまう。
平静。平静になって友達とは普通に接するんだ、と無駄だと解ってる足掻きをする。亜理紅よりも一歩早く、彼女に向かって歩き出した。
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