第34話 可愛い仮妻と料理⑨

「ゆう……?」


「なんでしょうか……?」


「もう、包丁持っちゃダメだからね?」


「はい……」



 俺は由季にフローリングの床に正座を強要され、椅子に座る由季に頭を下げていた。それは正しく土下座である。



「ゆうはパンを焼くか、お湯を沸かすか、皿を用意する三つの仕事しか与えません」


「申し訳ありませんでした……」


「人間には向き不向きがあります。ゆうは料理スキルが壊滅なので仕方ありません」


「だ、だけど、俺も料理作れるようになって由季に……」


「……正直に言います。割りに合いません」



 うぐ……どうしてこうなった……。


 俺が包丁持っちゃ禁止……料理禁止令を由季から言い渡されるきっかけに至ったのは、今から30分ほど前のことである。



 **** ****



「──ほら、先ずはこうやって包丁持って」


「うん」



 俺は由季の隣に立って、包丁の持ち方を見ながら真似していた。だけど、なんだろうか? この気恥ずかしさは……。



「調理台からは握り拳一つ分、包丁持ってる方の足を半歩下げて……って、ゆう? どうして緊張してるの?」


「あ、いや……由季の隣にいるだけで、その、幸せだからさ……」


「……もう、意識させないでよ……。包丁持つの初めてのゆうは危ないから、ちゃんと危機感持って」


「ごめん……」


「いいよ……ゆうが私で緊張してくれてるのは、嬉しいから……」


「「……」」



 ピーラーを使ってる時は大体の使い方は分かっていたので、由季を見ながら真似することなんてなかった。


 確かに、後ろから覆い被さってレクチャーされた時は興奮した。だけど、それだけだ。


 しかし、包丁の場合は違う。


 小学校や中学校で行った調理実習は同じ班の女子が包丁で具材を切って、男子がフライパンや鍋を用いて、焼くなり掻き混ぜたりと補助的な役割を行うだけで包丁を扱う機会が無かった。


 その為、一から学ぶことが必要で、お手本である由季を見なければならなかった。しかし、体勢や持ち方を由季から学ぶことはとても緊張するのだ。


 綺麗に整えられた顔立ち

 きめ細やかな漆黒の髪

 視線があった時に、僅かに緩む表情


 そして、こんな性格も外見も可愛い幼馴染が今では俺の彼女という幸福感。


 だから俺にはもう……



「出来ないよ、由季……」


「どうして?」


「由季を見てるだけで幸せになっちゃうから、集中出来そうにない……」


「あぅぅぅ……。そこまで私のこと好きなんだ……。なら、これなら……」



 そう言って、由季は台所から去って行く。


 しばらく経つと、サングラスとマスクの二つを身に付けた、如何にも不審者だと言えそうな由季がやって来た。



「これでどう?」


「それなら、大丈夫そう」


「良かった。じゃあ、続きするよ?」


「お願いします」



 それから俺は由季をお手本にして真面目に取り掛かった。


 結果、包丁の持ち方も体勢も由季の教え方が上手でマスターできた。これなら、ピーラーで皮を剥いた人参、じゃがいもは相手にもならない筈だ。


 そう意気込んでいると、事件は起きた。



「はぁはぁ……暑い……」



 喋りながらも教えてくれた影響か、由季の付けているマスクの中が蒸れ始めた。それに並行して額にも薄っすらと汗が滲んでいる。


 そして、由季から漏れる艶かしい声。


 その声に一瞬で興奮する俺。それに気付かない由季はその最中でも健気に俺に視線を向けながら続きを教えてくれる。


 その姿が俺の欲情を誘ってしまい、耐えられなかった……。



「それじゃ、人参を切って……」


「由季!」


「危な……」



 横から抱き付いて来た俺に反応出来ず、由季は持っていた包丁をその場に落としてしまった。


 落ちた包丁は下向きで落ち、グサっと弾力性のあるキッチンマットに突き刺さった。それも俺と由季の間にだ。


 少しでも場所がずれていたらどちらかが大怪我を負っていた。


 その事実に俺は顔を青ざめた。



「ごめん、由季……。もうこんなことが起きないように注意するから……」


「……良かった」


「え……?」


「怪我が無くて良かった……。ごめんね、ゆう……。私が離さなければ良かったのに……」


「違う! 俺が由季に興奮して襲わなければ……」


「それは違う! ゆうの不意打ちを予測できなかった私が……」


「俺が!」


「私が!」


「「ぷふっ」」



 俺と由季はすっかり疲れてしまい、へたり込んでしまった。



「どっちも悪かったってことにしよう? それと、ゆうは今後一切、包丁を持つことを禁じます」


「え、それは……」


「い・い・で・す・ね・?」


「はい……」



 こうして、俺の料理を極める道は閉ざされた。

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