話したいことはたくさんあるんだよ

@taiyoutoikiru

第1話 サーモンに油をかけて火事が発生したら、焼き鮭になったかどうかは誰にもわからない

 サーモンって苦手なのに、焼き鮭は好きなんですよ。子どものころは生魚が本当に苦手で、お寿司はほとんど食べられませんでした。でも大学生になっていろんなものを食べるようになるじゃないですか。親の好みという家庭料理の縛りから脱して。居酒屋のお通しとかででる刺身、絶対食べないといけないじゃないですか。それを食べてみて、「あれ?意外とおいしいのかも?」と気づいたわけですよ。大学生で一人暮らしをしていろんな味を覚えました(味覚もそれ以外も)。サーモンってなんか独特なにおいがしますよね。鼻に残るというか、口の中をもわんと水面のように広がる「サーモンの味」。サーモンの味って何にも代えがたい、それにしかない味がしますよね。わかります?でもこうして口にする機会がなかったらサーモンが嫌いなことも気づかなかっただろうし、自分を知るという意味でもいろんな食べ物に挑戦するべきなんだなあ。この世の中には何万種類?何億種類?(そんなの数えた人がいたら今世紀最大の拍手を送る)の食べ物があるだろうし、それにいつどんな状況で出会ったか、それはほんとうに運命に近いくらい、人生において一瞬の奇跡だ。一生サーモンを食べずに死んでいく人も少なからずいるわけで、サーモンを食べなくても生きていけるし、食べなかったから、知らなかったから処刑されるわけでもない。

 さて、本題に戻るが、おなじサケなのに、調理の仕方で味も食感もにおいも見た目も変わってしまう、それって人間にも同じことがいえるんじゃないかなあ。自分をどう生かすか、どんな環境に身を置くかで自分の味も変わってくるんじゃないか。持っているもの素材のものを活かすためにもその調理方法を知らないといけない。でもサーモンのようにそのままでもおいしい、調理してもおいしいという両立をできる人もいる。生だといまいちだけど、人の手を加えることによっておいしく輝く、そういう人もいる。そっちの方が輝いているよ、いいね!と感じるかは個人によってて違う。自分を活かす方法を知っていたら楽なのか、それとも知っていることで苦しむのか、知らないままの方がよかったのかそんなのわかんないよなあ。

 サーモンに油をかけて火事になったら、まず人間は自分の身を守る。たとえばそれがサーモンが焼き鮭になったかどうかを証明するための100万円の実験だったとしても、まずは瞬発的に逃げるだろう。命はお金で買えないからな。100万円が惜しいがために何としても焼き鮭になったかどうか確認したいと火の中に飛びこんだとして、焼き鮭になっているかどうかわからないし、火の中に入って死んだら元も子もない。逃げて火事が収まるのを待ったとして、サーモンは鮭になっているかもしれないし、そもそも跡形もなく灰になっているかもしれない。それは運だ。日ごろの行い?なんてものは関係ない。ただその時の運しだいだ。結局、未来なんて予測できないということだ。こうなってほしい、ああなってほしい、こういう目標を達成したくてこの道を選んだ。その先に誰しもいい未来を描く。だってその方が楽しいから。でもそこには確実な保証なんてない。どんな人にもそう。明日死ぬかもしれない。交通事故にあって、災害に巻き込まれて、心不全になって誰にも予測できないことなんだ。こんな中、一日一日を無駄に生きていていいのかと自分を責めたくなります。

 そもそもサーモンと焼き鮭の境目はどこだということになる。見た目は変わるけれど、成分の何パーセントが変わったらこっから焼き鮭という定義はないだろう。でも曖昧な中途半端などっちも持ち合わせているようなものは素敵で芸術的だ。だから多才な人というの自分自身の可能性をあきらめず、何かになろうとするのだろうか。生焼けのサーモンはどっちになりたいのか。でも後戻りはできない。認知症の症状が良くなることはないように、少しでも焼かれたサーモンは鮭になる運命しか残されていないのだ。それに比べで人間はいろんな可能性があるよな。絶対この場所でこれをしなければいけない、なんて法則はないし、そんなもの誰にも決められない。自分で決めつけてしまっているだけで可能性なんで無限大にあるんだ。「あれをしたらダメ」「これをしらダメ」「あれしたら怒られる」って決めつけているのは全部自分なんだ。ルールなんて自分の中でしかないんだよ。他人に通用するわけないんだ。人生に迷ったら生焼けサーモンを思い出してみ。サーモンに戻りたいと思って戻れないんだよ。でも人間の人生はやり直せる。今からでもサーモンに戻ることができる。

 社会の人間関係もそうだろう。誰が偉くて、誰が劣っているかなんて、決めるのは個人の価値観と周りの気まぐれの評価だ。次長と平社員の境目は何だ?何センチの柵を飛び越えたら次長、という明確な印があるか?組織に属すると不気味なことが多い。「そういう決まりになっているから」って受け入れないといけない。自分の意志とは違っても組織のやり方に合わせて、自分を溶け込ませないといけない。運命を受け入れないといけない。決まった時間に決まった場所に行き、お金を稼ぐ。それを我慢することがえらいことなのか?

 お金なんかどうでもよくて、サーモンがかわいそうで、サーモンを愛するあまり火の中に飛び込む。そういう人がこの世の中に1人でもいてほしいなあ。そう願う人が一人いてもいいよね。

 サーモンから人生の話に広がってしまったが、私はものごとを、現実世界で起こっていることを人生に置き換えて考えることが好きだ。何かすべてに意味があるような気がして、揺れる木の葉の気持ちとか、散ってコンクリートに張り付いて車にひかれている桜の花びらの気持ちとかそういうものを考えることが好きだ。そういういろんな身の回りのものに寄り添って考えていると自然と心が落ち着くものだ。みんな同じで、違ってそれでいいんだということ。サーモンにも鮭にもなれない私だけど、いつかはなれるんじゃないか?そう信じて、鮭になったらどうやって人間にいたずらしようかなと考えている。もし鮭になって食べられて死ぬとき、私は嬉しいんだろうかそれとも悔しいんだろうか。もし…!もし…!、と私の妄想が止まらないのでこのあたりにしておく。2020.04.09

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