第568話 陳述記憶[識別子:"嗣業"]
季節はすっかり初夏、穏やかな5月の宵だった。
いつしか立ち込めた霧に、星の宮の庭園の眺めは
次に気がついた時アマリリスは、所在も知れない空虚な世界にいた。
空は再び、星ひとつない漆黒で、
地上は、枯れ草色の草原に覆われた丘が視界の限り、波のように続いている。
がらんどうの国、
閉じた世界ないしは「外側」の世界。
”あたしは”この場所に用はない。
だったら、”誰が”・・・?
『ご明察の通りです。
私がお喚び立ていたしました。』
振り向いた先には、忽然と現れた人の姿が草地の上に立っていた。
それを見るやアマリリスは、胸を締め潰されるような哀愁と全身が硬直するほどの戦慄をも感じ、
次の瞬間には不可解な自分の心の揺れ動きに首をかしげていた。
それは幾ら記憶を掘り返そうとしても手繰り寄せるものは何もない、見知らぬ男だった。
黒い詰襟の衣の上に、灰色の長いマント、同じ色合いの鍔広帽子という取り合わせは、
きちっとしているんだかラフなんだかよくわからない印象を受ける。
灰色の豊かな髭もまたその存在感を謎めいたものにしていた。
これが確立された一つのスタイルなんだとしたら、この男はあたしの知らない時代か、
あたしの知っている世界との繋がりがない、異世界からの来訪者ってことだ。
男は、灰色の髭の中で引き結ばれた口を、柔らかく弛めて言った。
『いいえ。
私もまた、あなたの世界、
あなたの魂が所在する心象の領限を通じて、
あなたが身体を置く基底現実にも少なからず
夢の記憶がいかにも夢と印象づけられるように、
この姿があなたにとって不可思議と映るのだとすれば、
それは私があなたの心以外の場所、より正確には、あなただけのものではない心の領域から、
あなたが自己と認識する意識の表層へと浮かび上がってきた者だからでしょう。
私は、万人に共有される領限からあなたを見守り、一連の仮定の検証を行ってまいりました。』
アマリリスは黙って聞いていた。
少なくともこの時、アマリリスにとって男の言葉は、水が砂に染み込むようにすんなりと理解できるものであり、
男の現れた理由が、ここに至るまでの経緯と合わせて得心されるのだった。
『ふとした時に湧き出しては、一瞬後には儚く消え去っていくように思える夢想や心象、閃きといったものは、
決して実体のない虚像などではありません。
それらは心の奥深く、時間と空間を超えて重なり合う意識の領限から発してくるのであり、
その、精神の基幹が健全に保たれることは、基底現実世界の円滑な運営と同様に、全人類の最重要課題なのです。
私たちは常に、その活動に協力頂けるかたを探してきました。
『記述的に思い出すことは出来なくとも、数々の経験則が手続きとして身体に記憶されることがあるように、
異種族の身体を得ることは、人間としての精神のありように影響を与えることが分かっています。
それは自覚する意識の領域に留まらず、個から汎へと作用する精神の力にも及ぶのではないか――
それが私の仮説でした。
おそらく、身体の多重表出の経験が、もうひとつの多重世界との結びつきをより緊密にしているのだと考えられます。
いずれまた、あなたを
それまでの間、今お話したことについては、あなたの記憶から消去させていただくことになります。
――暫定予備領域より保管用領域へ複製
陳述記憶[識別子:"嗣業"]
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