第33話 コウホネの湖水

「またか。。。」


アマリリスは小さく舌打ちした。

そろそろ海岸が、あわよくばオシヨロフ半島が見えるだろうか、という淡い期待はもろくも破れ、目の前に開けたのは、濃い霧の中に消えて行く開けた水面。

かなりの大きさの沼だ。


当然、見たことのない場所だった。


「また迷子になっちゃった。。。」


アマリリスは溜め息をついて、岸に沿って歩き始めた。


河川の流入のない場所に突如現れたこの沼は、湧水が水源なのだろう。

あたり一帯が湿地帯のようになっていて、ミズバショウやカヤツリグサの繁る中に踏み込むと、やわらかい泥に足が沈んだ。


沼の岸を3分の1周ほどしたところで、アマリリスは諦めて、貧弱なトドマツがまばらに並んだ小山の上にあがり、腰を下ろした。

小山といっても、高さはアマリリスの胸くらい、広さは数メートル四方の場所だ。

降水や湧水のあるかないかの流れが、地面を削り残した場所なのだろう。


防水布のポンチョの下でゴソゴソやって、ベルトに吊るしたポーチを探った。

そしてまた舌打ちした。

よりによってマッチの補給を忘れていた。


もっとも、失望はそれほど大きくなかった。

どのみちこの天気では、焚き火をおこすことは無理だろう。


湖水の上を強い風が渡ってきて、霧雨から本降りになりはじめた雨が、フードの下のアマリリスの顔に降り注いだ。


寒い。

暦は7月、もうすっかり夏だというのに、なんだってこんなに寒いんだろう。

ポンチョを体に巻き付け、膝を抱えていても、震えが止まらなかった。



こんどばかりは、、ヤバいかもしれない。

森は恐ろしいところよ、とファーベルにいくら脅され諭されても、

銃弾が飛び交うでもなく、危険な獣も意外といない、だいいち彼女以外に人間が全くいないこの森で、生命の危険があるとは、どうにも思えなかった。


しかしここでこのまま雨に打たれていたら、たぶん死ぬ。

そしてアマリリスは疲れきっていて、この雨の中を歩き出す気になれず、もし今眠気が襲ってきたりしたら、意思の力ではねかえす自信もなかった。


こういう気分にはもう馴れていた。

アマリリスはただ時が過ぎるのを待ち、じっとあたりの様子を見ていた。



灰色の水面にさざ波が立ち、無数の波紋が広がり、コウホネの小さな葉がいくつも揺れている。

岸には荒々しく傾いだダケカンバの大木が立ち並び、

白い幹と、くろぐろとした葉の茂りの間を、霧の固まりが通り過ぎて行く。


『これが異界よ、ピスキィ。』


アマリリスは呟いた。


この幻のような一瞬、幻力マーヤーの森の光景を一幅の絵に写し取ったら、

それを見る人は何を思うだろう。


美しい眺めと言うだろうか。

恐ろしい眺めと言うだろうか。


『私には分からないわ。。。

だって、ここは異界。

人間がいちゃいけない所だもの。

この湖も、本当だったらこの世の終わりまで、

人の目に触れなかったはずだもの。』


全くの無人と分かりきっている場所のせいか、心細さのせいか、アマリリスは支離滅裂な言葉を、ヒルプシムの霊に語り続けた。


『本当に、あたし何だってこんな所にいるんだろう。。。

バカなのかな。

家に・・・いるのがイヤとか。


・・・アマロックに、会いたいから?』


思いつくままに並べてみても、どれもあり得ない気がして、

そうするとますます、何でこんな所で寒さに震えているのか、わけが分からなかった。

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