第24話 色彩を失くした世界

ミヤマハンノキの枝にすがって急斜面を登り切ると、アマリリスは伸び上がるようにして周囲を見渡した。


しかし、どちらを向いても、彼女が今立っている尾根と同じような小高い丘やその間の谷が、藍色の薄闇に、亡霊のように浮かびあがるだけで、期待したような展望は得られなかった。


恨めしげに、桔梗ききょう色の空に張り付いた、素焼きの皿のような月を見上げた。

とっくに沈んだのに地平線のすぐ下にいる太陽によって、空はいつまでも薄あかるく、日が落ちてすぐのようにも、もう真夜中にも思える。

森は闇と薄闇の間くらいの、色彩のない世界で、その判然としない視野が、余計にアマリリスの神経を消耗した。


もうどれくらいの時間、こうしてさまよっているのだろう。

今となっては考えても意味のないことを、アマリリスは思い返していた。



ヘリアンサスがムダ弾を撃っているその間にも、一段としげりを増したような森は、踏み入れてみると、まるでみどりの洪水だった。

一歩進むごとに形を変える若葉の陰影、縦横に張り巡らされたしなやかな枝のかたち。

地面には昨年の落ち葉が残り、突き出た岩、朽ちかけた倒木の上にも、柔らかに光る苔が広がっている。

谷筋には澄んだ水が流れ、水中でゆらめく草にかわいらしい花がつき、岸辺にはミズバショウの大きな葉が繁っている。

驚いたことに、こんなに暖かくなっていても、北向の斜面のような所には、表面に波模様の出来た雪渓が残っている。


何もかもが、アマリリスには大きな驚きだった。

何て豊かな幻だろう。

視界を埋め尽くす、これほど深いみどりも、谷間を潤すこれほど数多くの澄んだ水も、白く眩しい夏の雪原も、彼女は想像したことがなかった。


あちこちの枝で、姿が見えるよりもずっと多くの小鳥がさえずり、少し開けた草原のようなところでは、子猫よりもやや大きなジリスがせわしなく動き回っている。

小動物たちの営みの傍らで、小さな講師ファーベルの手ほどきが始まった。


「これが食べられるワラビ。

こっちは、おいしくない。

この木の芽も食べれる。

でも、育ちすぎてると苦いから、小さいのだけ。

あっちの草は・・・」


ふんふん、と大雑把に聞いて、さっそく収穫に取りかかった。

摘み取る価値のある植物は、そこらじゅうに生えているわけではない。

周囲を歩き回って探さなければならなかった。


次第にアマリリスには分かってきた。

食べられるワラビはどんなところに生えているか、艶やかな緑の野生のネギはどこを探せばいいか。

ファーベルが教えてくれた種類以外にも、これは食用になる、ということが何となく見当がついた。

そういうことは、何も考えずに没頭出来るくらい、アマリリスの性に合っていた。

――そしてふと気付くと、周囲には誰もいなくて、ヒタキの鳴き声がやけにこだまする森の中に一人、ぽつんと立っていた。


いや待て、さっき昼御飯を3人で食べたばかりだ。

そう遠く離れたわけではないだろう。

大声を出して応答を求めるのは、妙なところで高騰するプライドが許さず、そのうち何気なく再会出来るのを期待して、

アマリリスはなおも山菜をむしり、うっすらと不安を抱えたまま歩き回っていた。


それにしても、やっぱりファーベルの言う通り、長靴を履いて来るべきだったかもしれない。

乾燥した気候のカラカシスと違い、ぬかるみの多いこの森では、サンダルに載せた足は常に不快な泥にまみれ、

特に切るような冷たさの沢を渡る時がつらく、うっかり足を滑らせて、ごつごつした岩に爪先をぶつけたりすると、泣きたくなるほど痛かった。

今日はもういい、足が冷たくなってきた。

早く帰って暖まりたい。

そうだ、ファーベルにお風呂を入れてもらおう。


しかし一層静かになって行く森の中で、ファーベルとヘリアンサスの姿が見える気配はない。


そして、思ったよりもずっと早く、日は傾きはじめた。

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