第34話 月だけが照らす二人
思い返せば前世の俺――、山田陽一という人間は、色恋と一切無縁に生きてきた。
運動は極めて不得意、顔も体格も平均的、誰かより飛び抜けて勉強が出来たという訳でもない。
ただ一つ人並み以上と言えたのが科学分野に対する興味であり、唯一それだけを人生の指針としてきた。目の前のことに没頭すると周りが見えなくなるくせ、他に趣味と呼べるものはなかったので、自分はつまらない人間だと認識していたし、事実周囲からの反応もそんな感じだった。
何が言いたいのかといえばつまり――、俺はそういった状況に遭遇したことがないので、いざというときの対処法がまるで分からない、ということだ。
しかし今回に関してだけは、責められる謂れはないと思う。
一国の王女と密室で二人きりになった場合の対処方法など、恋愛教本にも書いていないだろう。そもそも読んだことがないので分からないが。
○
窓の外から月の光が差す中、俺は胸に当たるノノの頬の感触と、花のようないい香りに全神経の集中を奪われていた。
彼女の、何かをこらえるような不規則な吐息が、服越しに伝わる。
俺と言えば、両手を宙に伸ばして固めたまま、何も出来ないでいた。
「ノノ様、いかがなさいました。扉を開けてもよろしいでしょうか」
ひと際大きな声が背後よりかけられる。
俺はびくりと身を震わせて、ノノを見下ろした。
この場面を見られてはまずい。
そのこと自体は彼女も理解しているはずだ。
しかしノノは顔を上げない。ああ、王女様ってつむじまで綺麗なんだな……、などと感動している場合ではなく。
「開けないでください」
そこで、ノノが急に大きな声を発した。
「すぐに参りますので、今しばらくお待ちください」
「ノ、ノノ様……!?」
俺は驚き、前と後ろを交互に見る。
扉の向こうの相手はややあってから「かしこまりました」と返事をした。
王女が開けるなと言ったこと。それは、扉に付いているものよりはるかに厳重な鍵である。これでいよいよ、この状況を打破し得る外的要因が失われたことになったかと思った瞬間――、
ノノの手が俺の背中に伸び、引き寄せられた。
囁き声が間近から聞こえる。
「もう少しだけお許しください。もう少しだけ」
「――――」
どうしてこんなことを、という問いが口から出かかった。
しかし、いくら無経験な俺と言えども、それがどれだけ野暮な質問かぐらいは理解できる。だからと言って、おやめくださいと突き跳ねることも、抱きしめ返すこともできない。言い知れぬもどかしさが俺を襲った。同時に罪悪感にも苛まれた。
俺は今、何をしている。ただ目の前の出来事に抗っていないだけ――、ノノの行動を許容しているだけで、肯定も否定もしていない。
それは、ひどく不誠実なことではないのか。
ノノの性格を知っている。
優しく、穏やかで、美しく、強く、他を尊重する彼女だ。そんな彼女が心の奥底の脆く不安定な部分をさらけ出したこと。その相手が俺だったこと。どれほどの勇気を振り絞ったのか。その重大性が分からないはずがないのに……。
「晩餐会が、始まったようですね」
「……え?」
「音楽が聞こえます」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐにその意味を理解する。
いつからか分からないが、窓の向こうから音楽隊の優雅な演奏が漏れ聞こえ始めていた。音楽に乗って聞こえる人々の話し声や笑い声。手拍子のような音。
それは全く無関係の世界のことのようで、一層この部屋の隔絶感を強めているような気がした。もう、俺たちが行かなくとも――……、
「私たちが行かなくとも、別に誰も困らないのかもしれませんね」
まるで内心を読んだかのように、ノノが同じ考えを言ったのでハッとする。
「な、何をおっしゃいます。ノノ様がいなければ晩餐会は始められませんよ」
「そうでしょうか。お酒と料理と音楽は既に用意されているのに、それ以上何が必要でしょう」
「主役を欠いては何のために用意されたのか分かりません。皆、フォークを握ってノノ様が来るのを待っているんです」
「……皆が待っているのはきっと、マギア王国第二王女という肩書――、それだけですよ。ならば名札のついた人形でも置いておけばよいのです。そうは思いませんか?」
「まさか、そのようなことは……」
ノノの自虐的な言葉を否定しかけて、俺は言いとどまった。
彼女と目が合ったからである。
腕を回したままの体勢で首だけを上に向けたノノが、こちらを見上げている。息が首元にかかった。
「ローレン様の代わりは誰にもできません。しかし、私を私たらしめるものとは何でしょう。王宮に住み、最上級の食事と服を与えられ、皆が膝元に傅く。王の娘として生まれたという、ただそれだけの理由によってです」
「――――」
「ヴォルーク王子の婚約相手の王女。それが私である必要がどれほどあるのでしょう。この綺麗なドレスにどれほどの価値があるのでしょうか。麦畑で働く泥だらけの少女の方がよほど美しく、尊いとは思いませんか?」
返す言葉を思いつかなかった。
それはロニー・F・ナラザリオが16年間抱いてきた疑問でもあったからだ。
何も出来ないロニーは、ただ貴族の長男という理由一つで、不自由のない暮らしを享受してきた。生まれ落ちた場所が違えば、もっと惨めな扱いを受けていたに違いない。
同時に、アニカとその家族の姿が浮かんだ。
ハイドラの人々の中には、ただ親が奴隷だったからという理由で、痛みと寒さに晒され、傷を負う者がいる。
贅沢な悩みと言えばそうなのかもしれない。
ノノが不幸だなど、誰一人思わないだろう。
だけれどきっとそんな問題ではないのだ。
これは誰しもに等しく降り注ぐ理不尽なのである。
「……心から自分の境遇に満足している人などいません。誰もが他人の居場所を羨ましいと思うものです。ノノ様が平民の少女に憧れを抱くように、少女もまた憧れをもって王宮の窓を見上げているのではありませんか」
「代われるものならば代わりたいのです。辛いからやっぱり元に戻せなどとは言わないと約束します。自分の働いたお金でお腹を満たしてみたい。自分の用意した寝床で眠りにつきたい。……自分の選んだ相手と、結ばれたい。せめてその権利だけでもあれば、それだけで……」
「ノノ様――」
俺は思った。
もしノノが結婚を控えた王女という立場でなかったら、俺はどうしていたのだろうかと。ただの一人の親しい女性と見ていたらどうだったろう。身分の制約も国家間のしがらみもなく、扉の向こうには誰もいなかったとしたら。
そもそもお互いの立場がなければこの状況は成立していないし、彼女が不安に駆られて涙することもない。そんなことは分かっている。しかしだからこそ思わずにはいられない。
俺がこの世界に生まれ変わったように、ノノが自由に生きられたかもしれない世界を。もしそうだったならば、この抱擁をどう受け取っていただろうか――。
少し考えてみた。
そして、「いや、そうではないだろう」と思った。
平和協定の裏に隠れた利権争いに対する嫌悪感、象徴として祀り上げられることへの空虚さ、助けを求めるような抱擁。
しかし、よく考えてみればこれらには一貫性がない。少なくとも、数百人の人々を待たせてまでする話ではないだろう。ノノはきっと、言い訳を探しているのだ。
では何に対する言い訳なのか?
それこそが、彼女の言った【予感】なのではないか。
本質がそうであるならば、枝葉の部分に気を囚われていては駄目だ。
今、俺が彼女の抱く負の感情を必死で宥めたとしても、あるいは衝動のままに抱擁を返したとしても……、その先にあるのは、虚しさという暗闇だけだ。
一時の感情に惑わされるな。
刹那的な誤魔化しはやめろ。
お前は何のためにここにいる。
最善を尽くすと約束したはずではないか。
信頼によって此度の遠征への参加を勝ち取り、王女の横に座ることを許された。
その意味を考えろ。
息を大きく吸い込んだ。
俺は改めて、慎重に問い直す。
「――ノノ様。どうしても、晩餐会に行きたくないのですか?」
「!」
こちらを見上げるノノの目が、一瞬大きくなった。
「……ローレン様、それは…………」
「ノノ様がどうしてもと仰るのであれば、最大限の協力を致します。大した発言権は持ち合わせていませんが、それでも例えば、急に気分が悪くなって倒れたノノ王女を介抱するくらいの芝居ならば打てると思います。昼間演習場にはお顔を出された訳ですし、ヴォルーク王子も決して話の通じない方ではないようですから、口裏を合わせれば案外納得してくれるかもしれません」
「…………」
「幸い、明日の朝にはマギアに帰ります。一晩医者を誤魔化せればあとはどうとでもなりましょう。それこそ、試合観戦で少し気分を悪くしたことにすれば、ベルナール団長らの口添えも貰えるかもしれない。あとは……」
俺はいたく真面目に仮病作戦の決行を提案した。
しかし、ノノから返ってきたのは「――ふふ」という小さな笑い声だった。
しばらく彼女は顔を伏せ、ぐっと何かを考えこむようにしてから――……、
そっと体を引き離した。
「ローレン様ならそう仰るかもしれないと思っていました。でもいけませんよ。王女と言えど、我儘を言った時は叱らなければ」
彼女はそう微笑む。
胸に、彼女のぬくもりが残っていた。
「ごめんなさい、ローレン様。そんなに困らせるつもりはありませんでした。ほんの冗談のつもりが、あまりにもお優しいのでつい甘えてしまいました」
「……冗談、ですか?」
「ええ、冗談です。私だってシャローズみたいに、気まぐれなことを言ってみたくなる時もあるんです。……怒らせてしまいましたでしょうか?」
「お、怒るなどと、そんなはずありません」
「やっぱり。ローレン様は甘すぎます」
ノノがすっかり明るい表情に戻ったことに俺は戸惑った。
からかうように笑う彼女はいつもの様子と変わらない。どこかで聞いた『女の涙は――』という格言が頭をよぎったが、その続きが思い出せなかった。
ノノはひらりと身を翻して、窓の方へ離れていく。間際、聞こえるか聞こえないかの声で「これ以上は、ダミアンに合わせる顔がなくなってしまいますから」と呟いたように聞こえたが、俺は何故急にダミアンの名前が出て来たかよく分からなかったので、首を傾げたままその背中を見つめていた。
「晩餐会には出席します。ローレン様がハイドラへ来た目的をしっかりと果たされたのに、当の私が果たせないではあまりに情けないですから」
「……ノノ様、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。だってローレン様がいらっしゃいますもの」
ノノが振り返り、そう言ったのと同時――。
果たしてタイミングが良いのかどうか、ドカドカという足音がこちらへやってくる。
何事か話し声が聞こえたと思った直後、扉が勢いよく開かれた。
「ノノ! ローレン! 何をしている、宴はもう始まっているぞ!!」
現れたのは誰あろう、晩餐会の主催者たるヴォルーク王子だった。
その手にはワイングラスと、骨付き肉が持たれており、窓際の俺たちを訝し気に眺める。
「ん、どうした、何か相談事でもあったか?」
どう応えるべきかと横を窺うと、ノノが恭しく頭を下げた。
「申し訳ございません。先の魔術試合について話しておりましたら、ついつい興が乗ってしまったのでございます」
「なに、その話を聞こうと待っていたのではないか! いいから早う大広間へ来い。ローレン、分かっているだろうな。もう一度初めからだぞ」
「か、かしこまりました」
俺もノノに倣って頭を下げると、ヴォルークは「よし」と頷いて廊下を引き返して行った。続けてお付きの家来たちが慌てた様子で部屋に入ってきたので、俺も部屋から出ることになる。
去り際、ノノが口元に人差し指を当てたのが見えた。
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