第26話 教皇
「なんだと!? もう一度言え。ローレン・ハートレイが何をしたと……!?」
不意に父の大きな声が聞こえてきたので、俺はびくりと体を震わせる。
聞こえてきたのは歩いていた廊下の先、父の私室からだ。
(ローレン……?)
父が話している相手は執事らしい。俺は意図せず聞こえてきたローレンの名前に反応し、足音をさせないように父の部屋の扉に近づくと耳をくっつけた。
「ええ、私めも驚きました。しかしどうやら、あの魔術研究資料の内容の一部が眉唾ではなかったことが、審問会で立証されたらしいというのは、事実のようなのです」
「ば、馬鹿を言うな。あんなのは一目見てデタラメと分かる代物だったはずだ。審問会の連中め、よもや16のガキに屁理屈で言い負かされたのではあるまいな……っ!」
「いえ、実際に目の前で、未知の魔術を使って見せたという事でございました。
それで教皇様も本日の審問会に参席されるご予定とか……」
「なんだと!? どうなっている……! 私はダミアン女史のところの新任講師とやらが、おかしな魔術研究に手を出していると思い、大事な時期のカイルに間違いがってはまずいと思ってベイジャーを差し向けたのだ……! そして速やかかつ秘密裏に審問会にかけ、カイルから遠ざけようと…………。
そ、そ、それがどうして教皇様まで巻き込むような事態になってしまうのだ、ああ、私は、私は……!」
「旦那様、落ち着いてくださいませ。旦那様がカイル坊ちゃまの事を心配なされての事と、私めはもちろん分かっております。ですがここまで大事になってしまってはどうしようもありません。つきましてはドイル様も協会本部へ一度赴かれた方がよろしいかと……」
「そ、そうか。そうだな、そうしなければなるまい。もう今日の審問会は終わったのか?」
「いえ、今まさに始まった頃かと思われます。……急がれますか?」
「む? ……いや、事の発端を生んだ立場としては、正直どんな顔をしてよいものか分からんからな。ちょうどよく審問会が終わった頃合いを見計らって顔を出すことにする……。おい、カイルにはこの話は伝わってはいないだろうな」
「ええ、まだ旦那様にしかこの話はしておりません」
「そうか、余計な心配をかけたくない。この事は秘密にしておけ、絶対にだぞ」
「かしこまりました」
そこで俺は扉の横からそっと身を離した。
父の心配性についてはもはやとうに諦めている。基本的に俺の教育に悪いと思ったものは徹底的に排除しようとするのだ。そして一度そのモードに入ってしまうと、俺の意見など聞こえなくなる。
正直言って愛が重い。そのくせ裏ではあんな風に情けなく狼狽える始末。母もそうした父の様子に愛想をつかして出て行ってしまった。
俺は父のようにはなるまいと思っている。
自室の前に着き、音を立てないように扉を開けて滑り込む。
そして先ほど盗み聞きをした内容を脳内で反芻した。
ローレンは俺のせいで審問会にかけられた。
だがどうやら何かやったらしい。何でも未知の魔術を披露して見せたとかなんとか……。
あいにく俺は例の資料にろくに目を通すことが出来なかったので、あいつが何をやらかしたのかは分からない。だが教会側が慌てているらしいことは確かだ。
しかし、一体何をすればそんな騒ぎに――――
「カイル、いるのか?」
「!」
俺が部屋の中で考え事をしている所へ、扉の向こうから父の声がした。
そして返事も待たずに乱暴に扉が開かれる。
「な、何?」
「私はこれから教会本部へ顔を出してくる。お前の今日と明日の予定は?」
「……家庭教師が来るから、部屋でずっと勉強してる予定だけど。それより教会本部に顔を出すって、もしかして、ロ――――」
「余計なことを考える必要はない。もうあのローレンとかいう者の事は忘れろ。あの者の処遇については我々が決める事だ。いいな?」
「…………」
「カイル、返事は?」
「……分かったよ。あいつの事は、もう忘れるって……」
「それでいい。帰りはいつになるか分からないが、少なくとも今日は帰れないだろう。だがお前は気にせず、大人しく勉強に励んでいろ。いいな?」
父は一方的に命令をするとさっさと扉を閉めて、去っていく。
さっきあれほど狼狽えておきながら、よく切り替えれるものだと思うが、ああして俺の前では常に高圧的で弱い部分を見せようとしないのがドイル・フーゴ―という男だった。
俺は足音が遠ざかったことを確認すると、窓際へと駆け寄る。
ここは二階だが下は芝生で、飛び降りれないことはない。
父はもうしばらくしてから出かけると言っていた。家庭教師が来るのは午後から。
抜け出すならその間だ。
俺はベッドの下に隠していた、ロープを手繰り寄せた。
〇
俺は長い階段を上っていた。いや、正確に言えば上らされている。
白く長く続く無機質な石階段は、何回折り返しても終わりが見えない。
16歳とは言え引きこもりがちのこの華奢な体には、何百段あるかも分からないこの階段はあまりに過酷で、正直足がつりそうだ。
だが背後を振り返れば、大きく大胆に備え付けられた窓があり、王都の街並みが見下ろせる。鬱屈とした地下からようやく抜け出せたという思いもあった。
差し込む太陽光は随分と久しぶりに感じられ、肌に染み入った。
「しかし高ぇ……」
王都を軽く一望できるくらいだから、既に随分高い所まで上ってきているらしい。
俺がそう思ったのとちょうど同じタイミングで、前を歩いていた教会員の足が止まる。見れば階段はそこで途切れており、ようやく最上階までたどり着いたものらしかった。
教会員はわずかに振り返って息を切らしている俺を一瞥すると、階段から真っすぐに伸びる廊下を進む。
そしてすぐ真正面に分かりやすく大きな扉が見える。白の大理石の縁を金の装飾が彩っている。だがあからさまに豪奢なわけではない。
聖堂を初めて見た時に感じたような厳かさが、そこからは漂っていた。
コンコン、というノックの後に扉が開かれる。
教会員が目線で「入れ」と促す。
俺は恐る恐ると言った風に、聖堂最上階の一室に足を踏み入れた。
そこには思っていたよりも簡素な光景が待ち受けていた。
白い大理石に全面を囲われた部屋は、決して広すぎるわけでもなく、せいぜい15畳程度。置かれている家具も全体的に質素で慎ましさを感じさせる。
部屋の端に用意されたベッドなど、下手をしたらダミアン邸の俺のベッドの方が大きいかもしれないくらいである。
ただ唯一目を引くのが、壁に掛けられた大きな肖像画だ。そこには黒い装束に身を包んだ壮年の男性と、若い男女が並んで描かれていた。男二人はどちらも特徴的な緑色の髪をしている。
「来たか、ローレン・ハートレイ……」
部屋の奥から小さくかすれた声が聞こえた。
声の主は、真正面に見える安楽椅子に腰かけているらしい。しかし俺からは椅子の背中しか見えず、声の主は部屋に取り付けられた大きな窓から、まだ昼前の青い空を眺めている。
「…………はい」
俺が返事をすると、かなりの間があって椅子に座っていた人物が腰を上げた。
明るい場所で面と向かうと、先とは少し印象が違って見える。
白髪に微かに緑色が混ざった頭。灰色に濁り決して健康そうには見えない肌色。窪みの奥からじっとこちらを見つめるような瞳。こうして見ればただの老人ではないかと言ってしまいそうになる。
薄暗い審問会場でまとっていた謎めいた印象は、この部屋の明るさにはがされてしまったようにも思われた。
だがこの人物こそが精霊教会のトップオブトップ、教皇その人に間違いない。
でなければ聖堂の最上階に私室を有している訳がないのだから。
「座りなさい」
俺は指さされた簡素なソファにびくびくしながら腰を掛ける。
ついに一対一で、精霊教会最高指導者、教皇ネロ・モロゴロスと対面することとなってしまった――――。
一体どうしてこうなったのか。
そんな疑問が頭をよぎるが、なってしまったものは仕方ない。
俺はさっきまでいたはずの地下の審問会場のことを思い出す。
午前の朝早くから開始された審問会の続きは、ひどく不毛な水掛け論に終始するに留まった。
俺の存在によって完全に分断されてしまった教会側は、昨日まで仲良く同じ意見を並べて笑っていたのが不思議なくらいに、苛烈な言い争いを繰り広げた。
第二次審問会は3時間にも及ぶ長丁場となり、しかし結局結論は得られないまま終了してしまった。その間俺はろくに意見を求められることなく、ひたすら立って不毛な議論を聞いていたのだから、ひどい話である。
そこでずっと沈黙を守っていた教皇が、審問会を一時休憩とし、俺に聖堂の最上階まで来るようにと命じたのだった。
本日の審問会の様子から察するに、昨日中断した第一次審問会のあと、教皇もあの資料に目を通したはずである。だが審問会の中で、教皇は私見を述べるということをしなかった。
彼らの言う所の精霊への冒涜であるあの研究資料は、精霊信仰の化身ともいえる教皇に果たしてどう映ったのか。俺はまだそこを測りかねていた。
なにせ教皇の表情や目線からは、およそ感情と言うものがまるで窺えないからである。
やがて教皇が言葉を発する。
「わざわざここまで呼び立ててすまんかったの。地下の審問会が少々、やかましかったのでな。その方とはゆっくりと話をした方がいいと思っての事だ。許せ」
その声音は思いのほか柔らかなものだったので、俺は驚く。
「い、いえいえ……。何というか、恐れ多いことです……」
「……何故こんな高い場所に、儂の様な老いぼれが部屋を構えているのか不思議であろう」
「――えっ?」
次にひょんな話題が投げかけられ、思わず声が裏返る。
「ま、まあ確かに、ちらっと思わなくはありませんでしたが……。教皇様にあの階段を上り下りさせるのはさすがにどうかと……」
「ほほ。心配せずとも要人専用の昇降機が用意してある。それでも昔は二段飛ばしで駆けあがっていたものじゃが、今ではそこの廊下を歩くのでさえおぼつかん。人間である限り誰しも老いるということじゃ。教皇とてな」
「……は、はあ」
「命あるものは必ず終わる。我々はただ精霊に感謝をささげ、その日が来るまで慎ましくあるしかないのだな……」
「そう、ですね」
一体何の話が始まっているのだろうと、俺は戸惑いながらぎこちなく返事を返した。
俺は元々、王族の誰それ、精霊協会の幹部誰それといった話に疎い方だ。
それはナラザリオという王都からいささか離れたところで、しかも後継ぎとしての教育を放棄されていたからではあるが、それでもこの国で暮らしている限り、そういった重要人物の名前を全く聞かないということもまた難しいものである。
そんな俺のおぼろげな記憶では、確かネロ・モロゴロスという人物は御年80ほどだったはず。
こうして会話をしている限り、受け答えはしっかりしているようだが、全身を包む雰囲気からは、本人の言う通りに老いというものを感じざるを得なかった。
果たしてこのネロ・モロゴロスという人物がいつまで教皇の座にあるのか――、そうした懸念を抱いてしまう。
しかしそう言えば、精霊協会の次期教皇の噂というのはあまり耳にしたことがない。いくらゴシップに疎い俺とはいえ、耳に入ってきてもいい話題ではある。
まだ決まっておらず、教皇が崩御した際に教会幹部の中から選ばれるのだろうか。
それとも教皇の子息の中の誰かから世襲制で――、
「あ」
そこで俺はようやく重要な一つの事柄を思い出した。
そうだ、教皇には息子がいないのだ。
教皇は妻をはやくに病で亡くし、その数十年後、唯一の息子を陰惨な事故で失っている。本来ならばこの部屋にかかっている大きな肖像画を見てその事を思い出すべきだった。あれは若き教皇と、その息子夫婦が描かれている物なのだ。
「…………どうかしたか、ローレン・ハートレイ」
「い、いえ。なんでもありません。失礼いたしました」
「そうか」
教皇はそう頷くが、俺の視線が壁の絵画に向けられていることに気づいたものらしい。ゆっくりとした動作で後ろを振り返った。
だが、教皇はそこから何も言わず、寂しげな横顔を覗かせるだけである。
教皇が黙ってしまえば、俺も黙らざるを得ない。
まさか天気の話題などを持ち掛けるわけにもいかないだろう。
しばし部屋に奇妙な沈黙が流れる。
そこで声を発したのは、俺を部屋まで案内した教会員であった。
「教皇様、そろそろ此度の審問会についてのお話を……」
「おお、そうであった。此度の審問会で問題となったお主の研究資料――、儂も目を通させてもらった。ちと文字が小さかったがの」
「え、は、はい。申し訳ありません……」
俺はどんな感想を言われるものかと身構えた。
一応、最終的には誰かに見せる予定の『魔法物理学基礎』ではあったが、まさか間をすっ飛ばして教皇の目に触れることになるとは。それこそ二段飛ばしどころではない。
「……正直に言って、お主の考える魔術の仕組みという部分は、儂には理解できん。この内容は余りにも我々の考えと逆方向を向いておる。皆が精霊への冒涜だと声を荒げるのも無理はないと思う……。じゃが」
「…………」
「聞けば、お主はこの資料の中で示されている一つ。
氷魔法をその身で体現して見せたという。……おお、そうじゃ。是非とも儂にも見せてほしいのじゃが」
「こ、ここでですか」
「無理なのか?」
「いえ……。では、失礼しまして……」
俺は何ともぎこちない挙動で手を前に差し出し、手の先に氷の礫を生み出す。
ゴトリ、とそれをテーブルへとのせた。
すると代わりに教皇がその塊を手に取り、興味深げに眺めてみる。
「……これが魔術で生み出した氷か……。なるほど、皆が大騒ぎする訳じゃな。
さらに面白い事には……、お主は魔術を誰にでも等しく扱える技術であるとしておる。体の中に魔力があれば、誰しもが使えるのだと……。これに間違いはないか?」
「え、ええ」
教皇はそれを聞くと、深く顔を沈めて再び考え込むようにした。
俺は教皇が面白いとして取り上げたのが、意外に地味な箇所であったことに違和感を感じた。
この資料には他にも目を引くようなトピックがあると思うが、なぜ教皇はそこを取り上げて語ったのだろうか。しかも、深く考え込むような素振りを見せている。
「ん?」
そう俺が首を傾げていた時、ふと胸元にこそばゆい感触が起こる。
と思えば、紐状の物体がゆらゆらと目の前に浮かんできた。
「――――ふあぁぁああぁあ。やっばい。ちょっとマジで寝すぎちゃった。寝すぎて体バッキバキだよ。ねえ、ロニー、ボクってどのくらい寝ちゃってたのかなぁ」
「おまっ……!!?」
俺が突然飛び上がったので、セイリュウの奥に座る教皇は怪訝そうに眉をひそめた。
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