第二章 躍進
第1話 ある朝
ゴォン、ゴォン……という重厚な鐘の音が頭上で響く。
見上げれば首が痛くなるほど巨大な建造物は、早朝の日差しを受けて荘厳な雰囲気を醸し出していた。
俺はまばらな人の流れに沿いながら石階段を上り、やがて待ち構えている不必要に大きな扉をくぐる。
入った先は石造りのせいかひんやりと涼しく、コツンコツンという足音が堂内にこだまする。広間の中にいる人影は、朝が早いこともありさほど多くはない。せいぜい十数人程度だ。
だが興味本位で見物しているような者は俺以外にいないらしく、皆一様に石の床にひざまずき、手を握り合わせて祈りをささげていた。
祈りをささげる先は、六体の精霊が輪っか状に並ぶ白い石像だ。
六体の石像は鳥や猫や月などの形を模しているように見えたが、その中には凛々しくにらみを利かせる蛇の姿もあった。
天窓から精霊の像に光が注ぐ様は、なるほど以前の世界の寺院仏閣と通じるものがある。形容しがたいその神聖さには、思わず俺も頭を垂れかけたほどだ。
いや、事実そうしていたかもしれない。こいつがいなければ。
肩口をぬるぬると飛ぶ、自称精霊の紐状生物――セイリュウは、自分を模したであろう石像を見つけてニヤニヤと笑っていた。
「おー、わかってるぅ。あ、でも角が無いのだけ惜しいなあ」などと呟く声が聞こえたが、俺は無視する。
精霊教会。
精霊がこの世界を創造した――、という通念に基づき精霊に信仰を捧げる人々、またはそれを総括する団体。
しかし以前の世界のそれと違い、これは一宗教として語っていいものではない。国や地域によって教義や文化に若干の差はあれど、科学に取って代わってこの世界を成り立たせているのが、この精霊信仰なのだ。
教科書には世界の成り立ちや精霊の神話が正史として記され、それを疑う者はこの国にはいない。まあそれもむべなるかな、この世界では日常的に精霊の奇跡たる【魔法】が使われているのだ。疑う理由が無いのである。
魔法は精霊の神聖さの象徴。
そして神聖さとは――、謎に満ち、計り知れない事でその性質を保たれる。
人々は魔法が奇跡の賜物である事を願う故に、そこに不純な物が混ざることを恐れてさえいる。この世界は精霊に形作られた、神聖なものである。
いや、そうあってもらわなくては困るのだ。
俺に言わせればその神聖さを作り上げているのは信仰ではなく無知さなのだが、俺一人の価値観などこの世界においては大海に混ざる一滴の泥に過ぎない。
当然と言うべきか、ナラザリオ領にも精霊教会はあった。
しかしさすがにここまで立派なものではなく、表立った活動は比較的小規模だったと記憶している。
精霊信仰自体はどの地域にも根付いているが、その程度や規模の差はあるということなのだろう。いや、セイリュウの祠の人寂しさを思い返してみれば、ナラザリオは相対的に信仰心が強いほうではないのかもしれない。
それでも、ナラザリオの人々が世界の精霊起源説を疑っていなかったことには違いない。以前の世界と同じく――、真実とされるものの前では、信仰心の多寡などさしたる問題ではないのである。
俺は人々がひざまずいている場所から少し距離を取り、美しい装飾の施された壁面に目を向けた。
そこには長方形の石碑が埋め込まれており、仰々しくこう書かれている。
『この世のすべては精霊が生み出したもうた。
そして人間にのみ、魔法を与えたもうた。
我々は選ばれし存在である。
我々は精霊に愛されし存在である。
その事に満足し、感謝を忘れてはならない。
疑いや迷いは忌避しなければならない。
節度と慎みを持ち、生きて死なねばならない。
そうして魂はまた精霊の元へ還っていくのである』
俺がそれに目を通していると、背中からセイリュウが覗き込んできて、そして「ふっ」と小さく鼻で笑った。その表情はなんとも人を馬鹿にしたものだった。
俺は心の中で「お前がそのリアクションしちゃ絶対ダメだろ」と思った。
が、口には出さなかった。
しばらくの間、建造物としても興味深い聖堂内を眺め回っていたのだが、徐々に来訪者が増えてきた事と、ろくに祈りもせずにうろうろしている俺への目線を感じ始めたので退散する事にした。
教会を出ると、扉近くで控えていたオレンジ色の髪のメイドがすぐに俺に気づく。
「オランジェット、お待たせ」
「…………いえ」
オランジェットは無表情のまま、すっと俺の横についた。出会ってすぐの頃はひょっとして怒っているのだろうかと心配したこともあったが、どうやらこれが彼女の平常運転らしい。
俺は振り返り、巨大な聖堂を今一度見上げる。
ふと――、そこで建物上部のテラスに小さな人影が動くのが見えた。
一瞬その影と目があった気がしたが、すぐに引っ込んでしまったので結局よくは分からなかった。
○
俺は精霊教会を出た後、そのままの流れでとある商工会館に向かう。
入り口にさしかかるとちょうど集団が出てくるところと鉢合わせて、慌てて一歩退いた。
朝早くだと言うのに、人の出入りは教会よりも激しい。
もしくは、朝早くだからこそだろうか。
とにもかくにも俺とオランジェットは人波をかき分けつつ中に入った。
その瞬間に鼻孔を抜けるのは、熱気とも少し違う濃い人の匂い。
そして眺め見えるのは受付カウンターの様な場所、紙が雑多に貼られた掲示板、隅に設けられた数席の丸テーブルだ。
丸テーブルではまさに商談中というような組合せが数組見て取れた。
「……入り口近くでお待ちしております」
「分かった」
俺はオランジェットに小さく頷くと、あらためて目的の人物を探した。
しかし探すまでもなく、丸テーブルに座った人々の中に明らかに目立った容姿の人物がいたので、俺は早くも懐かしさを覚えながら歩み寄った。
「ランタノさん」
名前を呼ぶと、テーブルに顎を乗せてカラのジョッキをかじっていた、金髪つんつん頭の男がバッと顔を上げる。
「来たかローレン! おいおい、ずいぶんと顔色が良くなったじゃねえか! 泥まみれだった小僧がよ」
「お久しぶりです。掲示板へのお返事、ありがとうございました」
「なんのなんの! あの時拾った小僧がどうなったか、俺もずっと気がかりだったからな。予定を繰り上げて王都に帰ってきたんだ。
しかし、随分と小奇麗になったというか、印象が変わったというか。お前……、そもそも眼鏡なんてかけてなかったよな? 髪も短くなったし」
「ええ、まあ」
俺は鼻先にのせている眼鏡を持ち上げながら、言葉を濁す。
別にランタノもそれ以上、俺の見た目の変化について掘り下げることはしなかった。
彼は給仕の女の子にエールのおかわりを催促してから言う。
「――それで、渡したいものってのはなんだ?」
「はい、これです」
俺が懐から取り出したのは小さな布の袋。テーブルに置くとジャラリと音がする。
ランタノはそれを見下ろして、小さく眉をひそめた。
「……なんだ、こりゃあ」
「王都まで運んでいただいた足代ですよ」
「……別に俺ぁそんなのお前に催促した覚えはねえぞ。それに」
ランタノは布袋を指でつまみ、紐を緩めて中をうっすらと覗く。
「足代にしても随分と多いんじゃねえか?」
俺は首を振った。
「ランタノさんは俺にとって命の恩人です。……まあ実際、命というのが大げさにしても、あそこで声をかけていただかなかったら、王都に辿り着くのがどれくらい先になったか分からない。だから足代よりも、俺からの感謝の印と思っていただいて構いません」
「…………」
ランタノは俺からの言葉を聞き、むすっと俯いたままエールを一口あおった。
行商人、ランタノ。
文無し状態でナラザリオ邸を後にした後、とりあえず旅費を稼がなければどうにも立ち行かないと思案していた俺の横を通りすがった、面倒見の良い兄貴気質な男である。
運よく目的地が同じだったらしく、荷台にも空きがあったという事で、王都まで俺を運んでやると持ち掛けてきた。
俺としては天から降って湧いた望外な提案だったし、仮に野盗か何かだったとしても盗られて困るものなど持ち合わせていなかったので、素直に甘えることにした。
その結果――、俺は歩けば何週間かかるとも分からない道のりをわずか2日ほどに短縮することが出来たのである。
ちなみに後から聞いたところ、いい服を着ている割に泥まみれで、しかもぶつぶつと喋りながら山道を歩いている奴を見過ごせなかったという理由らしい……。
山の中で独り言をつぶやいているアブない奴、という部分には否定を差し挟みたいところではあるが、ともかくそんな第一印象の奴にも手を差し伸べるくらい、ランタノは情に厚い男なのだ。
俺が王都に来てはや4か月、ようやく身の落ち着けどころが定まり、多少自由に使えるお金も出来た。
なので俺はこうして、商工会館の掲示板を通じてランタノを探し、恩を返そうと思ったのである。
しかし――、
「受け取れねえなあ、ローレン。受け取れねえよこれは。
お前みてえなガキ捕まえて、恩を売って金を巻き上げるような男にはなりたくねえんだよ。俺は」
そう言ってランタノは俺が用意した金を突き返した。
俺は予想外のその返答に狼狽える。
「う、受け取ってください。俺が払いたくて払ってる正当な謝礼なんですから」
「小難しい言葉をガキが並べたてんじゃねえ。正当だとか、謝礼だとか。どこで覚えたんだそんな言葉。ガキはな、大人の好意にゃ黙って甘えときゃいいんだよ」
「しかし、それじゃあ俺の気が――」
「いいか、これは兄貴からのアドバイスだ。
なんでもかんでも見返りとか対価を求めるのはいいことじゃねえ。確かにそういう事を耳障りのいい言葉でほざく奴もいるが、そう言うのを抜きにした人間付き合いが出来た方が人生は絶対に豊かになる。
俺に恩を感じてくれてんなら……、そうだな、他の誰かに返してやれ」
「…………!」
ランタノはにかっと笑うと、機嫌よくエールを飲み干した。
俺はそれでもまだ喉元まで言葉が出かかったが、少し考えた後、ぐっと押し殺した。
ランタノが言っているのは別に、日本人的な遠慮が美徳という精神でもないし、打算的な思惑からあえてそう言っているのでもない。
彼は本心から礼はいらないと言っているのだ。
そしてそれは確かに、短い間で俺が知った彼の人柄にもとるものではなかった。
ならばこれ以上こちらが食い下がるのもまた無粋だろう。
「……分かりました。じゃあこれはなかったことにします」
「ああ、ガキらしく金は自分のために使いやがれ」
「…………」
俺は笑いながら小さくため息をつくと、用意した金をポケットにしまい直した。
するとさっきまで身を引いていたランタノが、前のめりに顔を近づけてくる。
「それで、本題に入ろうぜ。お前は今どこで何をしてんだ? とりあえず不自由はないんだな?」
「ええ、それは大丈夫です。住み込みで雇ってくれる方がいまして」
「王都に行けば当てがあるって言ってたやつか。結局どこの誰なんだそいつは。それともまだ内緒か?」
「……いえ、ランタノさんなら大丈夫だと思います。一応ここだけの話にしてもらえれば」
「言っとくがこんな見た目でも商人だから口はかてえよ?」
「それは5日の道のりで見てましたから疑っては無いんですが。
ええと、実は今、魔術師の――――」
「――おい!! ランタノォ!!」
少し声を潜めてランタノに顔を近づけた時、一階全体に響き渡るような大声が聞こえ、俺たちは肩をびくりと震わせた。
声の主を探せば、入り口方向から大股で歩いてくるガタイの良い男たちがある。
それを見つけた瞬間、対面のランタノの顔がアニメーションのように青ざめる。
「てめえ、随分と逃げ回ってくれたなあ!! この前の賭けの負け分、払うまで帰さねえぞこらあ!!」
「やっべ……!」
ランタノはモグラのごとくテーブルの下に隠れるが、見つかってから隠れても意味などない。スキンヘッドにモリモリの筋肉といういかにも取り立て屋チックな男たちは、俺の存在になど目もくれずテーブルの周りを取り囲む。
「出てこい! おらあ!!」
しばらくの沈黙の後、俺の足元から囁くような声が聞こえた。
「すまんローレン………………、か、金貸してくれ………………」
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