ギブソンとお姉さん

しめさば

0. お姉さんと出会った。


 お姉さんと出会った日のことだ。


 あの日は、彼女と出会ったこと以外は、すべてがいつも通りだった。

 いつも通りに起床して、いつも通りに学校へ行き、いつも通りに帰宅して、いつも通りに……ちょうどそれくらいの時間に起きて来る母に暴力を振るわれる。

 あの人は、僕の顔をグーで殴る。

 グーで殴るというのは、とんでもないことだ。男子同士の喧嘩でも、僕は一度もグーで顔を殴られたことはない。

 でも、もう慣れっこだ。

 一発――多い時は、2、3発――殴れば母のカンシャクはおさまって、外出が許される。と、いうより、僕が外に出たほうが角が立たないのだ。

 そんなこんなで、いつも通りに母から一発もらって家を出た僕は、特に行く当てもなく、ふらふらと街を散歩していた。

 人間がたくさん行き交う中にいると、少しだけ安心するからだ。

 自分は何者でもないことが分かるし、同じく何者でもないみんなとすれ違うと、自分はまったく特別じゃないって思える。


 特別じゃないことは、幸せなことだ。


 自分は特別じゃないって思えば、どんなにつらいことだって耐えられる。

 きっと僕以外の誰かも、家では親にグーで殴られてる。そうに決まってる。


 そんなことより、お姉さんの話だ。

 あの時、いつも通りに大通りを歩いていたら。

 かすかに、聞いたことのない音が聞こえて来た。

 ジャカジャカと、何かをはじくような音。そして、女の人の声。

 よく分からないけど、なんだか不快な音だなと思った。

 不快だと思ったのに、それと同時に、何故か僕はその音に興味が出たんだ。

 少し先の路地からその音が聞こえているのが分かって、僕は早足で路地に向かった。

 そして、おそるおそるそこを覗き込むと。

 ……そこに、お姉さんがいた。


「うぃーおーりーびーんないぇーろさんまりん、いぇーろさんまりん、いぇーろさんまりん」


 よく分からない呪文のような言葉を、不思議な音程とリズムで口ずさむ女の人。

 白いタンクトップに、青いダメージジーンズ。

 少しだけ茶色がかった黒髪が、胸のあたりまで、少しウェーブしながら垂れている。

 とても目を引くお姉さんが、変な形の――ひょうたんに角が生えたみたいな――道具を、ジャカジャカと鳴らしている。


「うぃーおーりーびーんないぇーろさんまりん、いぇーろさんまりん、いぇーろさんまりん」


 加えて、あの変な呪文だ。

 ひょうたんみたいな箱にピンと張られている糸をジャンジャカとかき鳴らしながら、狂ったように同じ言葉の羅列を繰り返すさまは、ちょっとした呪いの儀式のようだった。

 お姉さんは、明らかにあやしくて不気味な人物だった。

 路地を通る人々も、彼女のことを横目に見ながら、避けて通っていた。

 ……けれど、なぜか僕はあの時、お姉さんに近づいていったんだ。

 それは、お姉さんの顔がとても綺麗だったからかもしれない。

 お姉さんのおっぱいが大きかったからかもしれない。

 もしくは、あのひょうたんみたいな道具――今はそれが『ギター』というものだということを、僕は知っている――に興味が湧いたのかもしれない。

 あの時の僕の気持ちを、僕自身が、正確に思い出すことはできないけれど。

 とにかく、僕はお姉さんに近づいたんだ。

 僕がおそるおそる、彼女の近くに寄っていくと、お姉さんはひょうたんを鳴らすのをやめて、僕の顔をじっ、と見た。

 数秒間、お互い見つめ合ったまま無言で。

 そして、お姉さんが先に、口を開いた。


「お。もしかしてキミ、音楽分かる人?」

 

 その言葉に、僕は数秒間ぽかんとして。


「え?」


 ようやく出た声は、それだけだった。


 そんな経緯で、なぜだか、僕とお姉さんは出会った。

 何の心積もりも、何の予感もなく、その重大性に気付きもせずに、僕は彼女に出会った。

 それから僕とお姉さんの旅は唐突に始まって。

 いろいろなものを得て、そして、同じだけ、失った。

 ひとつひとつ、思い出していこうと思う。


 お姉さんとのすべての思い出を確認してから、僕は。

 手元に残った、少しだけの『何か』を……その意味を、考えることにする。


 

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