第3話 ナターシャ
16歳の夏の終わり。
あたしの家に幼馴染のナターシャが上がり込んだ。「リサー! リサー!」そう大きな声であたしの名前を呼びながら。
いつもそうだけど、その日はやたらと興奮気味だった。ナターシャは、あたしの部屋のドアをノックなしに開けるなり言った。
「妊娠したの!」
あたしはベッドで読んでいた本を閉じながら一瞬にしていくつかのことを考えた。ナターシャが妊娠。ということは、アレをした。そして、これからナターシャは母親になるのか、それとも堕ろすのか。それとも、迷っているから相談しに来たのか。あたしは一瞬でナターシャの未来もいくつか想像した。どちらにしても大変な未来だ。母親。経済。子育て。
あたしは一番訊かなければいけないことを言葉にする。
「で、相手は誰なの?」
ナターシャの顔が輝いた。うっとりして言った。一番言ってはいけないことを。
「ハンサムなの! 名前はわからないの。だけど、すっごくハンサムなの!」
あたしの想像は、未来の一番悲しい路線を進んだ。
ナターシャの顔が輝いているということは、おそらく生む予定。でも相手が誰だかわからない? サマーバケーション明け。たぶん一晩だけの遊び。男はこの島にもいないかもしれない。
タヒチ。あたしたちの住む島。観光客が多い。
あたしは、ナターシャの心を覗こうとした。真実みたいのを読もうとしたけど、よくわからなかった。
「ママは生んで育てていいって!」
そうあたしの目をまっすぐに見て、まだ、幸せそうな笑顔で輝きを放つナターシャ。
幸せ? 幸せなの?
ナターシャはバカだ。わかっていない。甘いんだよ。これから子供を育てていくんだよ。お金を稼ぎながら。ナターシャのママみたいに。シングルマザーになるんだよ。苦労をするんだよ。
*
その日、あたしは赤ちゃんだけと面会をした。赤ちゃんは男の子。ナースが、あたしに言った。
「ほら、指をだしてごらん。赤ちゃんが握るかどうか試して」
指をそっと赤ちゃんの手に近づけると、赤ちゃんがぎゅっとあたしの指を握った。あたしの中から、途方も無い喜びが溢れ始めた。多分、幸せ。あたしは慌ててそれに蓋をした。ぐっとこらえた。タガが外れる感覚を必死に抑えた。
いけない、と思った。
これを感じたら、あたしもバカになる、と。
*
ナターシャは、赤ちゃんを生んでから、死んだ。
あたしは赤ちゃんに指を握られていたとき、幸せを祈れなかった。それよりも、想像した。未来を……。
この赤ちゃんも――男の子も、一晩の快楽のために、ちょっと可愛い女の子を抱くんだろうか? 大きくなって、それに目覚めて。そして、その一晩の興奮のために、その行為が命を創造することだってわからないバカになるんだろうか? 女性は、命を宿した場合でやむをえず堕ろすという選択をしなくてはいけないとき、それが、どれらけの心の傷になるのか想像できない奴になるんだろうか? 自分の将来なんて考えずに、とにかく生むという選択をする女の子がいるってことを考えない奴になるんだろうか? 若いうちに、命をかけて生むとか育てるという覚悟を決める女の子がいるって、想像できない男になるんだろうか? 子供を一生懸命育てる女性の姿を想像出来ない男になるんだろうか?……って。
だから、あまりはっきりと覚えていないけど、たぶんあたしはバカにならないでくれと願った。赤ちゃんに指を握られながら。ぎゅっ。
あの赤ちゃんが、あたしの指を握った加減をまだ思い出す。はっきりと。ぎゅっ。あのとき、どこかであたしはバカにならないと幸せは遠い気もしていた。それは、わりとはっきりと……。
*
ナターシャ。
あたしは、まだバカになれないよ。
もちろん、一瞬一瞬生きているあたしたちは、今を生きるしかないけれど。それでもあたしは手放しに、ただただその時の感情に身を任せるなんてできないよ。
*
あたしは、あれから赤ちゃんにも、ナターシャのママにも会っていない。タヒチを出た。島を出て、オーストラリアの高校へ転校した。そこから大学へ進んで、ずっとオーストラリアで過ごしている。もう大人だ。
あたしは、沢山の種類の人間がいることを知った。
大学では、成績のために体を売る女の子もいた。それとは正反対に真面目な堅い子も。熱心なキリスト教徒で断食をしてしょっちゅう他人や世界のために祈るから、貧血で倒れる子も。お金持ちのおじさんと体の関係を意図的に持って、わざとコンドームに穴を開けて妊娠した子もいた。お金のために。
あたしはそうゆうのを見る度に思った。そうね、って。いろんな守り方、防御の仕方、攻撃の仕方があるよねって。色んな……。
ナターシャ。
あたしは、色んな男と女を見たよ。私利私欲のために計画的な人達や、その犠牲者も。それから、良識的で堅実的にきちんとしている人達も。どちらにしろ、みな、意図的に幸せを得ようとしているのよね。結局……。でも、輝くように幸せそうな人は会えなかった。少なくとも、あたしがあのとき見たあなたのような幸せそうな人は。
よくビーチを散歩する。夕暮れに。
今、25歳。
彼氏ができて、それから別れて、彼氏ができて、それから別れて。
あたしは、3回ほどそんなことを繰り返した。みんないい人だった。あたしが緊張しやすいし、警戒心があることを知っているオーストラリア人の友人が、ブラインド・デートを用意してくれた。あたしに合いそうな優しい人を紹介してくれたから、あたしはちゃんといい人と付き合った。
ナターシャ。
あたしは、あたしの将来を考えて、ちゃんとあたしを愛してくれた人たちと付き合ったよ。別れるときはちゃんと理由があったよ。お互いの将来を考えて別れたの。
でもね、ナターシャ。
誰でもいいからあたしを押し倒してほしいと思う夜があるの。なんだか誰でもいいから、あたしの寂しさを埋めて欲しいって。バカになりたい日があるの。
そのたびに思うんだ。
ダメ。賢くならなきゃって。
バカになったらダメだって。
将来を考えなきゃって。
でもね、ナターシャ。
あたしは、まだ、あなたみたいに、あんなに幸せに輝く笑顔をしたことがないの。
でも、ナターシャ、あなたは死んじゃったよね……。でも、あなたはきっと最高に幸せな時を過ごしたんだよね?
空を見上げるたびに、あたしは、あなたの笑顔にまだ問いかける。
幸せって、なに? バカにならなきゃ、手に入れられないのかなって……。
つまり、その。心の鍵を明けて、蓋を外して、タガを外して、あの柔らかい溢れ出た光に身を委ねてしまえばいいのかなって。本能みたいな、もうあらかじめ備えられているような感覚に。
将来なんて考えないで、今を楽しんじゃえばいいのかなって。大好きだ!っに、身を任せてしまえばいいのかなって……。心の奥の無計画の自分に任せてしまえばいいのかなって。勇気だけで、果敢に恋をしたらいいのかなって……。
理屈のないその溢れ出るものを信頼して、身を任せたらいいのかなって。
つまり、その。計算抜きで恋をしたらいいのかなって……。だって、将来なんて結局は誰にもわからないじゃない? それにだって空を見るたびに、あなたの輝く幸せそうな笑顔がまだ迫ってくるの。
『あたし。妊娠したの! ハンサムなの! 名前はわからないけれど、すっごくハンサムなの!』
ナターシャの、バカ……。
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