第17話 夏休みの宿題は早く終わらせる人と最終日まで残す人、どっちが多数派なのだろうか

 今は6月上旬、初夏である。季節は暦に従順なようで、ここ東京では、蒸し暑い日が続いている。梅雨入りしたら、雨が降ることも多くなるだろう。

 俺は別に、晴れの日の方が雨の日より好きとか、そういうことはない。どんな天気もそれなりに良いところがあるから好きだ。……まあ、流石に豪雨とか嵐とか豪雪は勘弁してほしいところだけど。でも雷は慣れてるから、雷鳴自体はそこまで怖くない。故郷では夏の夕立はもはや風物詩みたいなもんだし。そりゃ落ちたらやばいけどさ。


「……真紀? いるんだよな……?」

「……いたら悪いかよ」

「いや、そうじゃないんだけど……あんまり静かだから」

「……なんか喋んなきゃ駄目?」

「そんなことはねーけど……」

「じゃあほっといてくれよ」

「……はあ」


 今日はうちに真紀が来ている。だが、いることを忘れるくらい何も言わないのだ。部屋の隅で膝を抱えてうずくまり、ほとんど動かず、じっと床を見つめている。……昼飯にはまだ早い時間なんだけどな。何しに来たんだ……?


 「ほっといてくれ」とは言われたものの、やはり少々手持ち無沙汰なので、俺は彼に、以前から気になっていたことを聞いてみた。


「……なあ、真紀。お前、そんなに着てて暑くないのか?」


 室温は23度もあるというのに、真紀は学ランを着ているのだ。脱いでもいいくらいの暑さなのに、初めて会った時から全く着ているものが変わっていない。寒がりなのか? とも思ったが、それにしてもちょっと着すぎなんじゃないかと思ったのだ。


「……別に」

「……あ、そう……」


 真紀は一言答えると、すぐそっぽを向いてしまった。……うーん、やっぱり会話の糸口がうまく見つけ出せない。まあ、共通の話題がないというのがその要因のうちの一つだろう。


「……も、もうすぐ夏休みだな」

「……すぐじゃないだろ。まだ6月だし」

「あ、うん……まあそうなんだけど」

「何? なんか言いたいことでもあんの?」

「いや、えっと……俺、夏休みの宿題は毎日コツコツやるタイプだったなーって」

「ふーん。……で?」

「え、えっと……お前、は?」

「……どーでもいいだろ」

「いや、その……」


 あー駄目だ。また会話が途切れた。というか、もしかして俺、ウザい奴だって思われてる……? いや、ちょっと話がしたいだけなんだよ。ごめん本当に。


「……葛城さんとはうまくやってるのか? あの人にいろいろ教わってんだろ?」


 ふと思いついて、そんなことを聞くと、真紀はピクッと小さく肩を震わせた。


「この間あの人、お前のこと心配してたぞ。なかなか言うこと聞いてくれないって……」

「うっせーな!」


 真紀がギロリと睨みつけてきたので、俺は慌てて口をつぐんだ。


「おっさんには関係ねーだろ。もう話しかけてくんな」


 そう吐き捨てるように言うと、真紀はチッと舌打ちをして、俺から目を背けてしまった。


「……」


 気まずすぎる。しかも今は橘が外出中だから、仲介してくれそうな奴がいない。まあ原因はぶしつけにいろいろ聞いちゃった俺にあるんだろうが……。反省してるよ。後悔もしてるよ……。


 その時、いきなりガチャッと音がして、玄関のドアが開いた。


「……え? な、なんで!? っていうか誰……!?」

「おーい、慎哉ぁ。玄関の鍵閉まってなかったぞー。防犯意識が欠けてんじゃないのか? あ、閉めといたから心配しなくていいぞ」

「げっ、姉貴かよ! って、マジか……サンキュ」

「おいおい、「げっ」とはなんだ? お前が自堕落な生活送ってないか、姉ちゃんがわざわざ確認に来てやったのに」

「徒歩3分の所に住んでるくせに、遠路はるばる来たみたいな言い方するなよ! あと俺は、ちゃんと健康で文化的な最低限度の生活営んでるから安心しろ! ……というかアンタ暇なのか?」

「大丈夫だって、重役出勤だから」

「いや、ちゃんと仕事行けよ!」


 姉貴は小規模な会社の代表取締役をしている。自分で起業したのだ。どうやら大学の時から起業サークルに所属していたらしい。俺には縁遠い世界だけど。なんかよく知らないが、割とゆるい会社らしい。でも始業時間は守れよ。


 俺と姉貴は、俺が大学1年で姉貴が大学4年の時、一年だけ同じアパートで二人で一緒に暮らしていた。その後、姉貴が社会人になるにあたって部屋を出て行ったので、俺は一人暮らしになった。その時からお互い住所は変わったが、今も両方東京に留まってるし、なんだかんだ近所に住んでいる。


「……ん? 誰かいるのか?」


 姉貴がちょっと驚いたような声を出した。どうやら玄関に見知らぬスニーカーが脱ぎ散らかしてあったのに気づいたらしい。……脱いだ靴はちゃんと揃えろって、真紀に後で教えないとな……。


「ああ、まあな……」


 俺はちらりと後ろを見た。相変わらず真紀は部屋の隅に座り込んでいる。


「誰だ、あれ?」

「いや、前に話した死神の子なんだけど……」

「ああ、マキとかいうんだっけ?」


 流石姉貴、物分かりが早くて大変助かる。俺は姉貴に紹介しようと、気まずさを我慢しつつ真紀に近づいた。姉貴も一緒に来た。


「なあ、さっきは俺が悪かったよ。なんかいろいろ聞いちまってごめんな。……でさ、今俺の姉貴が来てんだ。で、お前を紹介したいから、……ちょっといいか?」

「……」


 真紀は無言で、ゆっくりと顔を上げて俺を軽く睨んだ。そのまま彼は、自分の目の前に視線を向ける。


「……?」


 真紀はちょっと首を傾げた。……え? 何かあったのか?


「……あ、姉……貴? だって……」


 真紀は姉貴をまじまじと見て、眉間にしわを寄せた。一方の姉貴の方も、真紀を見て少し目を見開いた。そして、


「お前、男だったのか……?」


と言った。


 次の瞬間、真紀はうつむいたかと思うと、急に立ち上がった。そして、声変わり前の甲高い声で叫んだ。


「何だよ、男だったら悪いのかよおばさん!」


 ……あ、やべえ。

 俺はすぐにでもそのその場から逃げ出したかったのだが、そんな猶予はなかった。


「……誰がおばさんだこの野郎。あたしはまだ31だぞ。それなのに、このあたしをおばさん呼ばわりたぁ、テメェ、なかなかいい度胸してんじゃねーかおいコラァ。ちょっと表出ろやクソガキ」


 姉貴はドスのきいた低い声でそう言って、真紀に負けじと立ち上がった。姉貴が180センチ近くあるのに対して、真紀は160センチないくらいなので、その差は歴然だ。というか姉貴、目がすげー怖えんだけど。これマジでキレてるよ。


「……」


 真紀がゴクリと唾を飲む音が聞こえた。流石にちょっとビビったらしい。だが、その後すぐに体勢を立て直し、


「……っ、じ、上等だよ! ……ってか、アンタ、本当に女か……?」


と言った。が、残念なことに、虚勢を張っているに過ぎないようだ。その証拠にかなり腰が引けている。


「あ? 見て分かんねーのか。まあ確かに胸はそんなにねーけどよ。でもあたしはついてねーから。何なら触って確かめてみるか?」

「……」


 ……姉さん、それはマジでやめてください。真紀ドン引きだから。ついでに俺もドン引きだから。


「……い、や、結構、です……」


 真紀は姉貴にすっかりビビってしまったようで、すごすごと引き下がった。そして背伸びをすると、俺にこっそり耳打ちした。俺と真紀の身長差は30センチ以上あるので、俺は気を利かせて、その時ちょっとかがんだ。そうしたら真紀に睨まれた。……なんで?


「……おい、おっさん。この人、ホントにアンタの姉ちゃんなの?」

「ああ、そうなんだよ。嘘くさいけどな」

「背が高いとこくらいしか共通点が見つかんねーんだけど?」

「だよな。あ、でも顔はどうだ?」

「……言われてみればちょっと似てる」

「うん、よく言われるよ」


 真紀はしばらく姉貴を見ていたが、そのうち観念したのか、


「……ご、ごめん、なさい……」


と、消え入りそうな声で姉貴の方を見ずに呟いた。


「……まあ、分かりゃいいんだよ。あたしも悪かったしな。ちょっと名前が女っぽいかなと思ったからなんだが……ところで「マキ」って、どんな字書くんだ?」

「……写真の「真」に、えっと……」

「『日本書紀』の「紀」だな」


 真紀が少し戸惑っているようだったので、俺は助け舟を出した。


「……ん? それってどっちだったっけ? 言偏ごんべん? 糸偏いとへん?」

「糸偏だ。糸偏に「己」って書くやつ」

「ああ、なるほどな」


 姉貴も分かってくれたようだ。確か「紀」には、『日本書紀』っていう意味もあったような気もするんだが……。


「真紀……か。いい名前だな」


 姉貴のそんな一言に対して、真紀は複雑な表情をしていた。


 

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