俺の日常は空気を読まない死神様に侵食されつつあります
薄井氷(旧名:雨野愁也)
第1話 出会い(前)
ある日、家に帰ったら、見知らぬ幼女がいた。……こう書くとふざけているのではないかと思われるかもしれないが、事実なのだ。本当に、一面識もない幼女が、俺の部屋で、蜜柑を貪り食っていた。
あまりにも日常から乖離した光景だったので、締め切り前の疲労による幻覚でも見たかと思ったが、机の上に山と積まれていた蜜柑が、一つ、二つと確実に減っていっているので、ああ良かった、俺は正常だと思った。でも、俺の頭がおかしくなったんじゃないからといって、この状況が少なくとも俺の思い描く日常とは程遠いものであることに変わりはない。驚くなと言う方が無理だ。
「……ヒュッ」
口から声にもならないような音が漏れ、俺は思わず手に持っていたレジ袋を落としてしまった。無機質な感触が手を伝い、袋がドサリと音を立てる。その音に気づいて、幼女はこちらを振り向いた。そして、
「……む、帰ったか。待ちくたびれたぞ」
と、小さな口をわずかに動かして言った。なかなかに可愛らしい声だった。……って違う、問題はそこじゃない!
「……ちょ、な、だ……誰だお前!?」
「名を尋ねる時はまず己から名乗る、という原則を知らぬのか? 汝は」
「いや、ここ俺の部屋だし! 侵入者であり名乗るべきなのはお前の方だろ!」
突っ込みどころが多すぎて処理しきれていないのは誠に遺憾なのだが、とりあえずこいつが誰で、なんでここにいるのかが分からないことには先に進めないので、意思の疎通が可能ならばいろいろと説明してもらわないとな……。そんなことを考えていると、幼女は少し考えた後、
「ふむ、一理あるな」
と言って、蜜柑を食うのをやめた。
「我が名は
「……はい?」
俺は耳を疑った。というか、こんな台詞を聞けばみんなそうすると思う。だって死神だぞ? あり得ないだろう、普通。
「汝の名は……確か
「……はっ? お前……なんで俺の名前を知ってるんだ? というかどうやってうちに入ったんだよ!」
「儂は死神じゃぞ? それぐらい知っておるわ。人の子の家に入るも造作もないことじゃ」
「全部死神設定で片付けようとすんな! 冗談抜きでさ、ホントお前何者なんだよ?」
「冗談など言うておらぬ。戯れ言は儂が最も嫌うものじゃ。……汝、よもやこの儂の言うことが信じられぬのか?」
なんか急に幼女の声色が高圧的で恐怖心を掻き立てるようなものになったので、ビビリな俺は「い……いえ、滅相もない!」と叫んだ。
……うん、この辺でちょっと俺の理解キャパシティを超えてきたようだ。このままでは話が前に進まないので(というか橘が怖いので)、死神云々の真偽についてはスルーしよう。
橘と名乗ったその幼女は、桜の花の模様があしらわれた綺麗な着物を着ており、小さな足には足袋を履いていた。土足ではなかった……玄関に見覚えのない草履がきちんと揃えて置かれていたので訝しく思ったが、それはこいつのものだったのか。肩の上で切り揃えられた、やや前下がりで真っ直ぐな、つやつやした黒髪には、可愛らしい桜の花の髪飾りが付いていた。長い睫毛に縁取られた、ややつり気味の澄んだ濃い紫色の目が、着物によく映えている。
見た目の年の頃はおそらく、六、七歳といったところだろうか。そして何より、……とても可愛い顔をしていた。だが、これだけははっきりと言っておきたい。俺は断じてロリコンではない。そこは絶対に誤解しないでいただきたいものだ。……え? じゃあ何でそんなに橘の容姿について詳しく説明したのかって? いや、そりゃあ、部屋にいきなり知らない奴がいたらそいつを注意深く観察するのは当然だろう。違うか?
ともかく、俺は橘の言うことが本当だと仮定して、話を続けることにした。そもそも、鍵が掛かっていたはずの俺の部屋に不法侵入したり、こんな文語調みたいな話し方をしたりしている時点で、この幼女が只者ではなさそうだということはお分かりいただけるだろう。
「……え、死神ってことは、もうすぐ俺死ぬってことなのか?」
「いや、そうではない。儂はただ、汝の作る
「……は? どういうことだよそれ?」
俺はやはり理解できなかった。いや、言っていることの意味は分かるのだが、その発言の意図が汲めなかったのだ。そんな俺の事情などそっちのけで、橘は言葉を継ぐ。
「儂は『ぐるめ』での。汝が美味なる食を作ると風の噂に聞いて、興味を持ったのじゃ。儂は汝の魂を刈ろうとはしておらぬ。汝にはまだ寿命が来ておらぬ故」
いや、誰に聞いたんだよそんな噂。俺は料理人志望でもなんでもねえぞ? ……でもまあ、今更そんなこと言ってもな……。
「はあ……。じゃあ、俺はアンタに飯を作ってやればいいのか?」
「まあ、そうなるな。期待しておるぞ」
「そうすれば、出ていってくれるのか?」
「……食の出来如何じゃの」
おい、ちょっと待てどういう意味だそれは。美味かったら満足して出て行ってくれるのか? いや、それとも美味ければ居座るつもりなのか? だったら、わざと不味くして厄介払いをさせて頂こうか……。
「汝、故意に不味い食を出そうなどと考えるでないぞ? さすれば如何なることになろうか、心得ておろうな?」
橘はそう言うと、おもむろに右の掌を上に向けた。
ズズッ……ズルッ……、という奇妙な音を立てて、その掌から何かが出てくる。見ると、それは……
巨大な鎌だった。
そう、死神がよく持っているあれだ。橘の背丈の1.5倍は確実にある。というか、俺の身長ぐらいあった。自慢ではないが、俺はかなり背が高い。自販機よりもでかいぐらいだ。それなのにその俺と同じぐらいの大きさなんだから……まあ、超でかかった。
「う、うおお……」
思わず声が漏れた。流石にそんな超自然的現象を目の当たりにしたら、いやでも橘は人間ではないと信じざるを得ないだろう。しかも彼女は、その大鎌を軽々と片手で持ち上げているのだ。意に沿わぬことをしたら最後、どうなるか分からなかった。
「……分かったよ、じゃあちょっと待っててくれ」
こうなればもう、不可抗力だった。道半ばで殺されてはたまらない。というか普通に命が惜しい。いくら生殺与奪の権をガッチリあちらに握られているとはいえ、こちらの出方次第で難を逃れられるのであれば是非ともそうさせていただきたいものだ。
俺は、そそくさとキッチンに向かった。
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