#コーヒーは人生

中州修一

イタリアン・サマー


昼下がりの町。お昼休みの僕。


コンクリートの上を歩いていると、まるで自分が炎で焼かれているかのような熱を全身に感じる。

僕は現役時代と同じ予備校に通っているが、去年の夏であれば、お昼休みに外に出れば人でぎゅうぎゅうになり、僕のメンタルを圧迫しているはず街中まちなかも、最近は人がぐっと減って歩きやすくなった。言ってはいけない雰囲気だが言うと、コロナ万歳。


しかしデメリットも付きまとう。いつもお世話になっている定食屋は春からずっと通えてないし、ただでさえ熱い上にマスクもつけなければいけない。


でも塾の中にいると僕の心が病んでしまいそうなので出るしかない。今日は特にそうだ。模試が返ってきたからね。


町をふらふらと歩く。駅前まで歩くと、コロナなんてお構いなしのサラリーマンがちょろちょろと駅を行き来したり、家の中では消化不良なのか、僕と同い年くらいの人たちが大勢で遊びに来ていた。くそう、密です。ソーシャルディスタンスです。


頭はすでにパンクしかけて、訳のわからん単語を並べ始めたので、人がいて近づいてはいけないとわかっていても駅のホームに入ってしまう。


駅に入って、気が付くと、塾の中ではサラサラした肌触りだったお気に入りのTシャツが肌にべったりと張り付いていた。


気分は最悪、体も水分を求めている。


僕は何とか自動販売機まで漕ぎつき、水を買った。


マスクを取ってポケットに入れる。そして水を流しこむ。マスクのせいで嫌な汗で蒸れていた口内にキンキンに冷えた水が入ると、口内の湿気や心の曇り、額に浮かんだ大粒の汗、あらゆるものが冷水に流されていくのを感じる。



夏まで、本当によくやった。

塾が休講になったから、家で受験勉強を始めた春。本当に大変だったし、何より僕が浪人したのを知らない友達から遊びに誘われることが多かった。その度に僕は自分は浪人したと報告し、友達と疎遠になっていく。

親にはまたあの苦しい日々を味わわせる結果となった。僕が模試結果を見せるたびに、両親の顔には不安が浮き彫りになっていく。


桜が散るころ、早々に僕は後悔していた。やっぱり滑り止めの私大に行けばよかったと。意地なんて張らずに、親の反対を受け入れておけばよかった。と。

今日の模試結果で思い知らされる。自分は今惰性で受験に挑んでいると。去年受かったのだから、今年は滑り止めには行けるだろうという心の声。耳を貸したくなかったが、事実僕は怠けきっていた。


よくやった。自分にかけた言葉が、過去形の時点の時点で終わっているのだ。

クリアになった思考がまた僕を苦しめる。水なんて飲まなければよかった。



そうやって暗い気持ちに沈んでいると、気が付くと、駅の壁際、自販機の隣に人一人しか通れない細い道があることに気が付く。

いかにも怪しい、不自然な入り口だった。中をのぞいても、先が見えない。

でも、暗い気持ちに沈んでいた僕は吸い込まれるように道に入っていった。


歩く、歩く。照明は最小限。気が付くと後ろから差し込んでいた駅からの光も消えている。一本道なのに、どっちの方向から来たのか分からなくなる。


いきなり目の前に木のドアが出現した。僕は好奇心でそれを押し開ける。

ひんやりとした広い空間に出た。決して明るくはない。だが僕はそこにだれか人がいるのと、カウンターがあり、椅子があるのが分かった。


「いらっしゃい」


落ち着いた中年くらいの男性の声が聞こえた。きっとカウンターのところに立つあの人の声だろう。

一言聞くだけで自分まで落ち着いてしまうような、やさしい声だった。


「好きなところに座りな」

「は、はい……」


いらっしゃい、と言われたからにはここは何かのお店だろう。

なにも分からないが好奇心が勝った僕は、七つ一列に並んだカウンター席の一番端の椅子に座った。


「お兄さん、コーヒーは好きかい?」

「え?......ああ、まあ飲めなくは、ないです」

「そうかい」


彼は何かをカウンターの下から何かを取り出す。


ようやく目が慣れてきて、それがコーヒー豆のパッケージであることがわかる。

それだけではない、カウンターから見て男性の向こう側にはコーヒーのドリッパー、ポット、あと名前は知らないが、コーヒー豆を挽くやつが置かれてあった。


彼は慣れた手つきでコーヒー豆を計量し、挽いていく。コーヒー独特の香ばしい香りがカウンター越しに香ってくる。


それから彼は、ドリッパーに豆を入れ、円を描くようにお湯を注ぐ。薄暗い中で、ポットの銀色が鈍く光を反射する。次の瞬間、挽いた時とは比にならない、しっかりとしたコーヒーの香りが漂ってくる。


「はい」


淹れ終わったコーヒーを、僕に差し出してくる。カップの中でコーヒーは湯気を上げていた。


「あ、僕、コーヒーには砂糖入れるんですけど……」

「とりあえず、飲んでみな」


彼はそう言って僕に促してきた。


コーヒーを一口すする。舌が火傷しそうになるほどの熱さが舌を襲った後、鼻を抜けるような香ばしさが口の中で広がり、口の上には強い苦みが残る。


「苦いです……」

「はは、そうか」


僕が思いっきり顔も歪めると、彼はにっこりと笑い、今度は別の袋から豆を取り出す。


「それは、深煎りの豆だ。イタリアン・ロースト」

「はあ……?」


僕がわからないという風に首をひねると、彼はコーヒー豆を少しカップに取り出し、僕の目の前にそれを置いた。


「コーヒー豆は、何も最初からこんな黒いわけじゃない。コーヒーの豆の木からとったコーヒー豆は、とても青い。」

「その豆の中に含まれる味を引き出すために、青いコーヒー豆を、水も油も使わずに火を通すんだ。深い浅いって言うのは、火を通す時間が長いか短いかってこと。」


説明しながら、彼はまた別のドリッパーに豆を入れてお湯を注ぐ。

そして淹れたコーヒーをまた僕の前に置いた


「飲んでみて」


先ほどと同じようにコーヒーをすする。今度は、舌の奥のほうに強い酸味が走る。しかし、それもすぐに消え、後にはさっぱりとしたコーヒーの香りが口内に漂う。


「こっちは酸っぱいです」

「よくわかったね」


語彙力をかけらも感じさせない回答をすると、彼は感心したような声を上げる。


「それは浅煎りの豆だ。火を通す時間が短い豆。浅煎りの豆は酸味が強くさっぱりと、逆に深煎りの豆は苦みが強くコクがあるんだ。ちなみにライトローストって名前だ」

「へえぇ……」


そのあと、もう一回最初に飲んだほうのコーヒーを啜ってみる。

さっきよりも明らかな差を感じた


「実は、豆の種類、産地によって適切な焙煎時間っていうのがある」

「適切じゃない豆を長く火に当てると、その豆の持つ油分が引火してしまって飲めなくなってしまうんだ。」

「だから豆の特徴を見て、何度も何度も焙煎してみる。適切な、おいしくなる焙煎時間の長さを見つけるんだよ」


彼は僕に語りかけるようにやさしく教えてくれた。


「深いんですね、コーヒーって」

「そう、深いよ。人生に似てる」


「人生?」


「そう。自分自身に火を通す。自分の特性を知らないから、最初はもう少し行ける、まだいけるって、火に長く当たろうとするんだ。そうすると、ある時失敗する。コーヒーをダメにしたときみたいな、焼けるような後悔、悲しみが自分を襲う」

「でもだんだんと自分を知ってくると、火にどれくらい当たればいいかがわかってくる。自分を理解するってこと。」

「だから最初は自分の身を焼き続けた方がいい。きっと失敗ばかりで悲しい事、後悔する事も多いと思うけど、大切なのは自分はどこまで耐えることができるか見極めることだ。」


「……なるほど」


彼に言われたことを自分でかみ砕きながら、理解する。自分の置かれた状況とコーヒー豆を照らし合わせてみる。

ああ、なるほど。そうか。自分は今自分を焙煎しているのか。ほかの人は一年で終えたそれを、僕は倍の時間試している。これが成功かどうかはわからない。だが……


「うん、いい顔をしている。さっきとは見違えるみたいだ」

「はは、そうですかね」


僕はそのまま深煎りのコーヒーを一気に飲み干す。強烈な苦みが舌の上で広がった。

でもその苦みの中の旨味が、僕に到達点を示してくれたような気がした。


「帰ります。お代はいくらですか?」

「そうか。……お代はいらないさ。ただのコーヒーの味見会だからね」


そう言って彼はクスリと笑う

それにつられて僕も笑うと、椅子を立った。


「じゃあ、また来ます。ごちそうさま」

「ああ。また迷ったら来な」


僕は彼を背にドアを引いて長い一本道に出た。

次の瞬間、床にベルトコンベアが付いたように体が加速したようにを感じた。


次の瞬間僕は自販機の隣に立っていた。

後ろを振り向くと、そこは壁だった。叩いても中に道がないのがわかる。


駅は依然として人は少なくい。僕はマスクを取り出すために、ポケットに手を入れる。

すると、中から小さな袋が入っていることに気がつく。

彼が最初に見せてくれた、イタリアン・ローストだ。


「帰ったらコーヒー飲むか」


僕はそう言って、日の中に飛び出した。


コンクリートから反射する熱が、僕を焼く炎のように感じる。




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