第8話 春の夜の夢(「魚河岸 番屋」の四季彩)

事態はいよいよ深刻さを増している。

ただ、夜の街は既に非常事態がひと月以上も続いている。

既に下通は鋼鉄のシャッターが冷たい視線を送り合う場となってしまっている。

あくまでも夜の帳のせいであろうと胸を張り、背中の寒気を封じる。

春である。

ならばより、丈高く飲むべきであろう。


だからこそ、生け簀が堂々としている「魚河岸 番屋」さんが目に付いた。

世間の憂さを知ってか知らずか、魚は悠々と泳ぎ、しかし肴となる日を知らず。

世間の憂さを知ってか知らずか、若人は陽を歩み、しかし患となる日を知らず。


帰宅して所狭しと料理を並べる。

ウィスキーソーダを作りつつ逸る気持ちを抑え、たまらず一口食む。

が、春野菜の天婦羅を生半可に味わったのがいけなかった。

菜の花、ぜんまいふきとうなど、冬の苦しみを地中で耐え、その爆発させんとする生命力は味蕾を祝典に導く。

幼い頃は甘みに旨味を友にしたが、今はこの苦みが愉しみである。


そこに、普段は大将然としている穴子の天婦羅が旨味で下支えをする。

苦みもそれだけが続けば嫌味になる。

尾より始まり胸部に食べ進めば、次第に脂の旨味が増していく。

持ち帰りであるがゆえに塩を添えるが、これが汁であれば我を失ったであろう。

揚げ物をすべて胃に収め、馬すじの煮込みでひと息つく。

澄んだ汁の中に潜む肉は静かに味を秘めて佇む。

汁を一口すすればウィスキーソーダが進む。


ここで焼き空豆をおもむろに剥く。

独特の香りをしっかりと蓄えたその身は一粒で辺りを初夏に塗り替える。

個人的な好みのため酒を飲む際には枝豆の代わりに出されると狂戦士となる。

いつもの勢いを失い、言葉を失い、黙々とその身に塩を振り、口に運ぶ。

合間合間に酒を運び、全身でその味を噛み締める。

春から夏への移ろいはこの時期ならではの愉しさであり、家内でこれを迎えられる悦びはひとしおだ。


やがて、全ての酒を干して独り言ち。

焼きおにぎりをふたつ食べて、床に就く。


不安というものは否が応にも心を焼く。

その延焼を防ぐ豊かな四季を臓腑に宿し、確かな強さを魂に感じた。


【店舗情報】

「魚河岸 番屋」

熊本県熊本市中央区下通1-5-22 クィーンズアレイビル 1F

電話番号:050-5592-9944

営業時間:16:00~0:00(L.O 23:30・月曜休)

     


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