第37話 羽根(3)

榊はバーンからゆっくり離れて、立ち上がった。

ふらつきながら、一歩一歩進んでいった。

「統……」

『なぜ〜〜そいつと一緒にい〜る〜んだ〜?お前の〜そばに〜いていい〜〜〜のは俺だけだぁ~』

「統…」

『何度〜〜で〜〜も邪魔〜〜して〜や〜る〜。お前だけ〜〜幸〜せに〜〜なるな〜〜〜ん〜て許すものかっ〜〜』

「どうして……こんな事に…なったの?」

彼女が呼びかけてもその影には何も届いていないのか、それとも聞こうとしていないのかまともな反応は返ってこなかった。

両手を前に伸ばすとその影に一番近い結界ところに触れた。

榊が触れても痛みは感じなかった。

ただ触れたという感覚だけが手のひらから伝わってきた。

透明な空気の層のようなものに触れたような感覚だ。

「ね、統、聞いて」

『とぉ〜もぉ〜〜こ〜。と〜も〜〜こ~』

「大学時代、…楽しかったね。ふたりでいつまででもピアノを弾いていた。あの頃が……懐かしい…」

目を閉じると走馬燈のように彼との思い出が蘇った。

両手に頬を寄せた。

まるでその影に寄りかかるように見えた。

かつてそうしていたように。

「でも…取り戻せないのね……?」

ゆっくりと目を開けた。

『と~も〜〜~こ~〜〜』

(私が好きだったあなたは…もう……いないのね…?)

寄せていた頬を離し、まっすぐに影を見た。

変わり果てたかつての想い人の姿を見た。

顔の形はあるものの、その部分だけ表情はわからない。

ただ部分的に見えるものもあった。

血走り大きく見開いた目。

裂けているようにも見える口。

不自然に長く伸びた腕。

どこをとってもかつての面影などなかった。

こんな姿になってまで自分に固執する恐ろしい存在になり果ててしまった。

そんな榊の姿をバーンは背後から静かに見守り続けた。

「…………」

「オッド先生………お願い……」

震えた声で彼の名を呼んだ。

「統を…送ってあげて……」

しかし、はっきりとそう告げた。

「…わかった」

そう言った途端に魔法陣がさらに光り輝いた。

中央に見える十字架から金色の光が漏れた。

バーンは右手の指をまっすぐに伸ばしたまま胸の前に横一文字に置いた

左手は固くコブシにしたまま下に降ろされたままだ。

榊にも聞こえる声で詠唱をはじめた。

「審判と怒りの雷は…数えられ、オークの似姿にて北に……隠されたり。

その枝は地のために流される……すすり泣きと嘆きの22の巣なり。

枝は日夜燃え、蠍の頭と毒が混じった生硫黄を吐き出す…。

一瞬の1/24のあいだに…5678回……吠える雷あり…」

榊が握りしめた両手を胸の前に置きながら、少しずつ後退した。

おそるおそる足を動かしていた。

バーンは右手を天空に向けて差し出した。

彼の眼にしか見えない、この近辺にいる精霊達が彼の呼びかけに応じ、風に乗って集まりはじめた。

「100の大いなる地震を伴い、1000の大波はとどまるときを知らず、

……こだまする時も知らず…。人間の心は……その思いを行う…」

おおよそ使えるとは思えない工場内の蛇口という蛇口から突然、水が噴き上がり始めた。

炎の周りに霧状になった水が噴きかかった。

バーンの声が響き続ける中、影の頭上が円形に光を放ち始めた。

建物のちょうど天井付近だ。

あたりは昼間のような光に包まれた。

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