第8話 月下の柳(その1)

 カーン、カーン、カーン…。

 女学校の屋上の鐘が鳴ると、教師は教科書を閉じた。

 級長である雪華が凛とした声で号令を掛ける。

「起立」「礼」

 立ち上がったセーラー服の女学生たちは、深々と礼をする。

 本日の授業はすべて終了であった。

 礼から直ったとたん、雪華はいきなり背を突っつかれてギクリとした。

 反射的に右手が出そうになるのを、慌てて左手で押さえる。

 頭ではわかっているのだが、身体に染みついた手刀の術は、雪華から決して抜けようとはしない。

 術を使わなくなって、もう五年になろうというのに…。

 雪華は一瞬厳しく張りつめた表情を、温和な笑みに切り替えて、振り返った。

 雪華のそんな事情など知らぬ丸山トミ子の、いつもの無邪気な笑みに満ちた丸顔がそこにあった。

「ねえねえ、雪ちゃん。今の授業、ノート取り忘れちゃったんだけど、写させてもらえる?」

 トミ子は垂れ気味の目を上目づかいにお願いする。

 彼女が上目づかいなのは媚びているばかりではなく、実際、雪華はトミ子より頭一つ分ぐらい背が高い。

 口の悪い同級生は雪華とトミ子のことを「凸凹二重奏」と呼ぶ。

「また居眠りしていたでしょう」雪華は苦笑混じりの呆れ顔で云う。「気持ち良さげな寝息が聞こえて来たわ」

「へへえ…」トミ子は三つ編みおさげ髪のきっちり分けた真ん中をポリポリ掻きつつ、ペロリと舌を出す。「だって、あの先生の漢文の授業、お経みたいなんですもん。雪ちゃん、よく耐えられるわねえ…」

「私はトミちゃんがいつ先生に注意されるかと、気が気じゃなくて、眠たくなるどころじゃなかったわ」

 雪華がそう云って困惑顔で肩をすくめると、トミ子はプッと吹き出し、つられて雪華も吹き出し、それから二人でゲラゲラ大笑いになった。

 だがそれは教室の中で目立つことはない。 

 何故なら周りの女学生たちがもっと大声で笑ったり喋ったりしていたからだ。

 先程までの静寂が嘘のように、校内全体が若々しく華やいだ活気に、生命力に、満ち満ちているのだった。

「いいわ。ノート貸したげる」そういうと雪華は不意に真顔になった。「その代わりトミちゃん、一つお願いがあるの」

 トミ子はドギマギしてしまった。

 真剣な表情になった時の雪華には、女のトミ子でさえ心をさざめき立たせるほどの、まるで冷涼な真剣の刃の輝きのような、妖しい艶めかしさがあるのだった。

 特に今日は、雪華の腰まで伸びた黒髪はあでやかに陽光に輝いて、その妖しさがなおさら強調されている。

 トミ子はグッと唾を飲み込んで、目を一つパチクリして、ようやく返事をした。

「…何? お願いって…」

「あのね」雪華は声を潜め、トミ子の耳元に口を寄せ、囁く。「これから、あんみつ食べに行かない?」

 トミ子はしばし呆然とし、それからプッと吹き出した。

「何だ。何を云うのかと思ったら」トミ子はゲラゲラ笑って云う。「別にいいけど、また行くの? 平之助さん、迎えに来てるんじゃないの?」

「ううん。今日は大学でバリツの演武があって、一時間ばかり遅れるらしいの。だから、その前に、ちょっと…」

 そう云ってはにかんで微笑む雪華の顔を見て、トミ子の胸はまた妖しくざわめく。

 今さっきまでのあの妖しい怜悧さと、このひっそりと咲くタンポポのような可愛らしさとの落差よ! 

 しかしその変化はごく自然で、わざとらしさは皆無なのだ。

 トミ子はざわめく胸の内で感嘆のため息をついていた。

「いいの? 学校ここの図書室で待ってた方が良くはなくて?」

 少したしなめるように、さらにはいささかの意地悪もこめてトミ子は云った。

「だって、図書室の本、めぼしいものはほとんど読んじゃったもの」

 雪華は少し唇をとんがらせて云い、それがまたトミ子の胸を熱く焦がす。

「トミちゃんがイヤならよすわ。…その代わり、ノート貸すのもなしだわ」

「いいわよ。行くわよ」慌ててトミ子は云う。「また、いつもの所?」

 雪華はまたはにかむような微笑みを浮かべ、うなずく。

「雪ちゃん、すっかりあそこのあんみつのトリコねえ…」

 雪華はまたうなずく。

 その表情にほんのわずかな翳りのいろがよぎったことに、トミ子は気付かない。



 雪華の通う女学校は省線沿いの下町にある、ミッション・スクールなのであった。

 浦益の方へ帰るなら、校門を出て左に行かねばならないが、トミ子と連れ立って歩く雪華は、それを右に行っている。

 トミ子は少々鼻が高い。

 実際の鼻のことではない。

 それはむしろ低い。

 道行く人が雪華を見て振り返る。

 トミ子はそれが嬉しく、かつ自慢なのだ。

 自分が全く他人の視線を集めないことなど、この時のトミ子は全然意識していない。

 ただただ、雪華が他人の感嘆の目を集め、かつ自分がその友人であることが誇らしい。

 かつてそのことを、これから向かうあんみつ屋で、トミ子は雪華に云ったことがある。

 すると雪華は、困惑気味の微苦笑を浮かべ、手を小さく顔の前で振り、「よしてよ」とだけ云うと、もうこの話題は終わり、と云うように窓の外へまなざしを向けてしまった。

 以来、トミ子は雪華にこの話をするのはやめて、その代わり自身の密やかな愉しみとして、一人で悦に入っているのだ。

 通りをつらつら歩いてゆくと、やがて目当ての店が見えて来る。

 とある街角にある、何の変哲もないあんみつ屋だ。

 あんみつ屋なら、ここに来るまでにも、通り沿いにいくつかあった。

 他の女生徒たちの話題に上るのは、もっぱらそれらの店のどれかであった。

 だが、雪華は何故かそれらの店には目もくれず、あんみつを食べるのは絶対ココと決めているようだった。

 正直トミ子としては、他の子たちの口の端に上る店のあんみつも食べてみたいし、それらの店の前をむざむざ通り過ぎるのは口惜しくもあるのだが、雪華は断固としてそれらの店には目もくれないのだった。

 トミ子は何度か、他の店に行こうと提案したのだが、そのたびに雪華は実にキッパリと、その提案を断るのだった。

「ううん。あのお店がいいの。でなければ、あんみつなんか食べないわ」

 そう云われると、トミ子としては引き下がらざるを得ない。

 何故ならトミ子にとっては、あんみつを食べることそのもの以上に、それを雪華と一緒に食べることの方が、はるかに重要な問題だったからだ。

 …ともあれトミ子は、そのいつものあんみつ屋の、通りに面したガラス窓の際のいつもの席で、雪華と向かい合って座って、あんみつが運ばれて来るのを待っている。

 こうして雪華と二人きりでいられる時間は、トミ子にとって何物にも替え難い、貴重な、心ときめく至福の時間であったが、雪華の方はそんなトミ子の心の内を知ってか知らずか、席に着くと、ずっとガラス越しに表を見ていて、トミ子が何を話しかけても上の空の返事なのだった。

 これは、今回に限らない。

 この席に座ると、雪華は時折、急にこんな状態になってしまうのだったが、今日はのっけからこうだった。

 このあんみつ屋に通い出した最初の頃は、そんな雪華に本気で腹を立てたこともあるトミ子であったが、何度言っても雪華のそれは直らない。

 しかも、その窓の外を見つめる雪華には、どこかただならぬ真剣さが漂っていた。

 それは、息を潜めて獲物を狙う野獣の如き真剣さ、とでも言いたくなるような雰囲気なのだった。

「一体何を見ているの」

 一度トミ子は訊いたことがある。

「ううん、別に、何も…」

 雪華はびっくりした様子で慌ててそう答えた。

 鈍感なトミ子でもそれが嘘だとすぐにわかった。

 何故なら、表をボウッと見ている雪華が、突然かすかにピクリと身体を震わすことがあって、そうすると、降り積もったばかりの白雪のような雪華の肌に薄っすらと赤みがさし、かつ、そのまなざしに鋭い光が宿るのが見て取れるからであった。

 それは、溜息が出るほどに美しい光景であったのだが、同時に何が雪華をそうさせたのか気にもなって、トミ子はそのまなざしを追って表を見る。

 しかしそこにあるのは、何の変哲もない、帝都東京の下町の、その往来の凡庸な風景であった。

 そこは四つ辻で、その四つの角にはこのあんみつ屋と、通りをはさんだ右向かいには八百屋、左向かいには金物屋、そしてはす向かいには町医者が開業している。

 目抜き通りが交差しているので、人の行き交いは多い。

 結局トミ子には、雪華が何を見ているのか、皆目見当がつかない。

 それに、張りつめたような雪華の横顔は、どこか哀しく儚げでもあって、トミ子はうっとりと見つめてしまう。

 なので最近のトミ子は、黙って雪華の好きなようにさせている。

 二人の前にあんみつが運ばれて来た。

 が、雪華は表を見つめたままで、目の前のあんみつに気付く様子もない。

 トミ子は匙で雪華のあんみつの器を軽く叩く。

 ハッとして雪華は向き直る。

「えっ、何?」

「何? じゃないわ」トミ子は呆れ顔だ。「まさかここへ来た目的を忘れた訳じゃないでしょうね」

「目的?」雪華は動揺している。「目的って何?」

 雪華があまりにも動揺しているので、トミ子まで動揺してしまう。

「イヤだな、雪ちゃん、冗談よ」トミ子は慌てて云った。「ここへ来た目的は、あんみつを食べることでしょ?」

「あ、ああ、そういうこと…」

 雪華はなぜだかホッとしたような顔をして、それから両手を合わせて「頂きます」と呟いてから、あんみつに匙を入れる。

「フフッ…。ゴメンね」雪華は餡を口に含みつつ微笑む。「…トミちゃんの居眠りがどうやったら直るかなって、考えていたのよ」

「余計なお世話だわ」

 トミ子も餡を口に運びつつ云った。

 するとまた、雪華は匙を宙に止めたまま、窓の外に目が釘付けになっている。

 雪華の頬がパッと紅に染まっている。

 まるで薄紅の桜が一斉に花開いたかのように。

 まなざしには篝火が燃えているかの如き、強い光が宿っている。

 トミ子は思わず、雪華のまなざしを追って窓の外を見やっていた。

 八百屋の店先では威勢の良さそうな夫婦が大声で客を呼び込みつつ、狭い店の中をせわしなく動き回っていた。

 金物屋では古ぼけた感じの中年女が一人ぼうっと店番をして座っている。

 そして町医者の前では白の割烹着姿の婦人がホウキで医院の表を掃いている。

 四つ辻の人の行き交いは相変わらず多い。

 平凡な、ありふれた、下町の往来の日常風景が、そこに展開されていた。

 ハッとして雪華がこちらに向き直ったので、トミ子もギクリとして向き直った。

 雪華は大きく目を見開いていた。

 これほど狼狽している雪華を見るのは、トミ子は初めてであった。

 しばらく二人は、お互いギクリとした表情のまま、向かい合っていた。

 と、トミ子は窓外に気配を感じ、そちらに視線をやった。

 とたんにトミ子の顔がパッと赤らむ。

 雪華が窓外に視線をやったのと、ガラス窓がトントンと叩かれたのが同時であった。

 窓外には、学帽、黒詰襟の制服姿の平之助が、憮然とした表情で立っていた。

 雪華は窓ガラス越しに平之助に向かってすまなそうな表情で手を合わせた。

 平之助はやれやれと云った表情の後、ニッコリ笑顔になった。

「出ましょう」

 雪華はそう云って席を立った。

「平之助さんは誘わないの?」

 トミ子は慌てて云った。

「平之助さん、お金ないのよ」雪華はトミ子に囁いた。「学費以外のお金、平之助さん、全部自分で稼いでるのよ。休日にバリツの道場で講師のアルバイトをして。きっと平之助さんのことだから、誘えばここの支払い、全部自分が払うって云うに違いないわ。それ、気の毒だから…」

「そうなの…。じゃ、長っちりは悪いわね。出ましょう」

 トミ子はそう云ってまだ器に残っていたあんみつを急いでかっ込んだ。

 雪華が財布を出そうとするのを、口のあんみつをごくりと飲み込んだトミ子が止めた。

「いいわ。今日はおごり。ノート借りるんですもの。お礼の先払い」

 二人は表に出た。

 すると、トミ子は急にそわそわし始めた。

 平之助に改めて、ペコリと頭を下げた。

 そして、「じゃ、サヨナラ」とだけ云うと、ぴゅーっと逃げ去るように、帰ってしまったのだった。

「おかしな人だなあ」

 平之助は苦笑して云った。

 その平之助を見て、雪華も苦笑する。

「何?」

 怪訝な表情を浮かべた平之助に、雪華は首を横に振る。

 そして雪華はふと四つ辻の方を見た。とたんに雪華の表情とまなざしが、哀しく翳った。

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