第5話 夏の炎(その3)

 暑い。

 うだるような暑さだ。

 雪華は浴衣にたすき掛けして、竈の前に屈んでいる。

 並んだ釜と鍋の蓋が共にグツグツ煮立って踊っている。

 雪華の額には玉の汗が浮かんで、顎から滴り落ちる。

 ささやかな台所の、開け放った窓の向こうには、浅草に建設中の「凌雲閣りょううんかく」とかいう塔が望める。

 建設途上の現在でも充分高いが、完成した暁には、巴里のエッフェル塔を抜いて世界一の高さになるという。

 丹波が浦益うらますの杉戸の親分の所へ発って三日が経っている。

 無常も杉戸の親分に呼ばれて、一緒に出掛けて留守だった。

 書道教室と代筆業はその間休業だったが、マア日頃から開店休業のようなものだから、収入面はともかく、営業的にはさほど問題がない。

 雪華は最近ようやく気付き始めている。

 どうしてこんなヒマな書道教室や代筆業で、無常と自分二人が慎ましやかではあるが、どうにか食べて行けるのか。

 その答えがすなわち、今無常が杉戸の親分の所に出向いているということなのだ。

 無常が杉戸の親分に何かの仕事を依頼され、それを行うことによって報酬を得ているのだ。

 そしてその「何かの仕事」が「手刀術」を使うものであるらしいことも、雪華は察している。

 …「手刀術」を使うような仕事が、平和なのどかなものでないことも、すでにその「手刀術」の使い手である雪華には充分察せられた。

 多分、かなり危険な仕事だろうし、あるいは、法を犯すようなこと、法を犯さなくともそのギリギリの線のような、ヤバい仕事をしているのかも知れない。

 雪華がそのことを訊くと、無常も丹波同様、「余計なことに首突っ込むんじゃねえ」と一喝する。

「お父っつぁんが私に手刀を教えたんじゃないか」

 雪華も負けていない。

「何を」無常は目を剥いて血相を変えて怒鳴り出す。「俺がおまえに手刀を教えるのは、あくまでおまえが自分の身を守るためだ。それ以外の余計なことには決して術を使うんじゃねえ。手刀は使い方を間違えると、人生そのものが狂っちまう。俺みてえにな」

 そう吐き捨てるように云うと無常は、ちょっとゾッとするような、気味の悪い笑い方をする。

 するともう雪華は、それ以上無常を問い詰めることが出来なくなる。

 雪華は無常の過去を詳しく知らない。

 無常が語りたがらないためだ。

 ただ、丹波が無常を呼ぶ時の、「和尚」の由来は教えてくれた。

 と云っても、詳しくではないが。

「なあに、俺は昔本当に坊さんだったのさ。マア、相当なナマグサ坊主で、その上マモノだからな。途中で尻まくって寺から逃げ出しちまったのよ。それからはマア、こうしてヤクザな生き方をしてるが、マトモに坊主やってりゃ今頃は寺の住職ぐらいやっててもおかしくない齢だからな。それで丹波さんは俺のことをからかって和尚って呼ぶのさ」

 丹波とはどこで知り合ったのか、と訊いたこともある。

「なあに、昔丹波さんに命を助けてもらったことがあるのよ。以来俺はどんなことがあっても、あの人の云うことだけはキチンと聞いて来た。何か頼まれれば、命に代えてもそれはやり遂げる。あの人だけは、俺にとって絶対なのさ。だからこうしておまえを育てているんだ。丹波さんの頼みでなかったら、俺は絶対子育てなんてしなかった。そういう意味でも、俺は丹波さんに感謝している。雪華、おまえのようないい子を授けてくれて有難うございますってな。この恩は一生かかっても、きっと丹波さんにお返ししなきゃならねえ…」

 この時無常は酒を呑んでいた。

 酒で機嫌が良くなった時にだけ、こういう話をしてくれる。

 しかし、それでも先の話以上の話にはならない。

 無常といい、丹波といい、肝心な話をしようとはしない。

 今の雪華は、その点にも気付いていた。

 竈の前でぼんやりともの思いにふけっていた雪華は、不意に覚醒するや立ち上がり、背後に立った者の喉元に右手を突き付けた。

 凍った、殺気漲るまなざしで相手を睨み据えたが、誰だかわかって雪華の顔に、朗らかな笑みが広がる。

「なあんだ、彫鉄さんか」

「なあんだ、じゃねえよ」馬のように長い面に猿のような目鼻立ちの中年男が、ホウッと息をつきつつ云った。「危うくお陀仏になる所だったぜ…。雪ちゃん、学校はどうした?」

「もう夏休みよ」

「何してやがる」

 不意にまた、彫鉄の背後から声がして、雪華も彫鉄もギョッとしてそちらを見た。

 その声がするまで、彫鉄はもちろん雪華も、まったく気配を感じなかったのだ。

 無常が仏頂面で戸口に立っていた。

 いつも大ざっぱなだらしない恰好をしている無常には珍しく、紋付袴にパナマ帽といういでたちであった。

 そして、額の刻印はそうとわからぬほどに綺麗に塗り隠されている。

「へへっ、済まねえ」彫鉄は照れ隠しにニヤニヤしながら頭をかく。「ついその、雪ちゃんの首筋を見てたら、どうにもショーバイっ気がムラムラッとしちまって…。それにしても、雪ちゃんの肌は、こりゃもう絶品だねえ」

 そこでホウッと一息ついた彫鉄は一言ポツリ。

「…彫りたくなる、肌だねえ…」

「またそれか。馬鹿云ってるんじゃねえ」

 無常は一喝した。

 その時にはもう、雪華は手桶に冷水を汲んで、手ぬぐいと共に「お父っつぁんお帰り」と云いながら、無常に差し出している。

「ん」

 無常は手桶の水で手を洗う。

 するとたちまち、額の刻印が現れて来る。

「夏はどうもれていけねえや」

 手拭で顔を拭きつつ無常は云う。

「彫鉄さんもどうぞ」

 雪華がすすめると、

「や、こりゃ有難てえ」

 と彫鉄もジャブジャブ顔を洗う。

 すると、彫鉄の額にもくっきりと黒の刻印が現れて来るのだった。

 戦争に行って「名誉臣民」となったマモノに対する差別は、十数年前に法律上は撤廃されたが、そんなことで千年以上も続くマモノに対する世間の偏見の差別意識が消える訳もない。

 無常も彫鉄も、そして丹波も「名誉臣民」だが、三人ともそんな制度が出来る前に生まれたので、当然ながら額に刻印をされてしまっていた。

 だからこうして、三人とも表を歩く時は額にドーランを塗って隠している。世のマモノの中には、刻印を晒して堂々と往来を行く強者つわものもいるが、ここの三人は三人とも、商売柄余計なトラブルは招きたくないので、大多数のマモノたちと同様、無難に額にドーランを塗っている。

 サッパリした無常は框を上がって、部屋の隅から碁盤を持って来た。

「彫鉄、早速一勝負だ」

「望むところよ」彫鉄は雪華の渡した手ぬぐいを使っている。「そのためにこんなクソ暑い中わざわざ来たんだ」

「もう、お父っつぁん、着替えてからにしなさいよ」

 呆れ顔で雪華が云い、無常も彫鉄も爆笑する。

 うだるように暑いが、実に平和でのどかな、夏のとある一日の風景であった…。


 ****


 寝苦しい夏の夜、開けた窓から時折入る風に、蚊取り線香の煙がたなびく。蚊帳を吊った中に無常と雪華が眠っている。昼間の暑さが体力を消耗させるためか、二人とも深い眠りに落ちている。無常のイビキはひどいが、雪華はもう慣れているのか、こちらもぐっすり眠っている。

 毎晩遅く、手刀の訓練を欠かすことなく(現にこの晩も、例によって神田明神の境内で訓練して来た)、感覚を研ぎ澄まして、人の気配を計る訓練も怠らなかった。

 だが、帝都東京に来てから十余年、ずっと平和な日々が続いていた。

 いつしか、安心と油断がべったりと染みついていた。

 気付いた時は遅かった。

 蚊帳の四隅が切られ、眠る二人の上にドサリと落ちた。

 間一髪無常はその下から転がり出て立ったが、構えて気を統一するヒマがなかった。

 そうして右腕を手刀にしなければならないのだが、それより早く、闇の中で一閃するものがあった。

「ギャッ」

 短くも凄まじい声が響いた。

 ようやく蚊帳の外へ這いずり逃れた雪華の前に、ドサリと何かが鈍く落ちた。

 いきなりパッと周囲が明るくなった。

 雪華の前に落ちたのは、人の腕だった。

 ハッとして雪華は見上げ、叫んだ。

「お父っつぁん」

 右腕を切断された無常が膝から崩れ落ち、にじり寄ろうとした雪華の前にズンッ! と見たことのない形の刀が突き立てられた。

 それは青龍刀であった。

 雪華は振り向いた。

 同時に何かがはぜる音がして、熱気が急に押し寄せて来た。

 炎が障子に燃え広がっていた。

 その炎を背にして、ヒヒが突っ立っていた。

 あの、猿の一種のヒヒだ。

 いや、それは凶悪なヒヒのような面付きの男であった。

 ヒヒに見えたその男の顔は、実は笑っていたのだった。

 目や剥きだした歯が金色にギラギラ輝いているのは、炎が反映しているのだ。

 男は手刀を訓練する時の雪華同様、黒装束に身を包んでいる。

 雪華は脚に力が入らず、男の方を見据えながら、ズルズルと部屋の隅へ尻を滑らすより他なかった。

 と云っても、狭い部屋のこと、たちまち背が壁に当たった。

 右腕を構えたが、全身が震えて気を統一出来ない。

 口も震えて、歯の根が合わず、カチカチカチカチ、音を立てる。

 男を睨み据えるのが精一杯で、倒れてのたうち回る無常の方へ近付くはおろか、そちらを見やることさえ出来ない。

 炎は今や天井まで達し、畳にも燃え広がりつつあるのだが、男は意に介する風もなく、雪華の前に屈み込むと、構えた雪華の右手首を苦もなくつかんでひねり上げた。

「うっ…くっ…」

 雪華はあっという間にうつぶせに組み敷かれた。

 男は決して丹波のように屈強なのではないが、人の身体のねじ伏せ方をよく知っているらしく、雪華はまったく抵抗が出来ない。

 その雪華の浴衣の帯がたちまちするすると解かれ、これまたたちまちのうちに両手首を後ろに持って行かれ、縛り上げられた。

 男は雪華を蹴飛ばしてあお向けにした。

 雪華の浴衣の前がはだけた。

 雪華はこの晩腰巻を使っていず、まだ成熟せぬ身体が露わになった。

 男の笑いがさらにゾッとするものに変わった。

 男は黒装束の前をモゾモゾといじった。

 やがて、世にも醜悪な、黒ずんだ奇怪なものがまろび出て雪華の方を向いた。

(汚い…)

 瞬時に雪華はそう思った。

 まだ雪華にしっかりした性の知識はなかったが、禍々しさと嫌悪を強烈に感じた。

 そう、それは少なくとも、丹波のとは似て非なるものだった。

 男は雪華の上にのしかかって来る。

 男の両手が雪華の内股を押し広げる。

 禍々しく汚らしいものの先が、そこに触れる…。

 雪華と男の顔の間にズッ! と青龍刀が突き立った。

 壁に突き立った反動で青龍刀はゆらゆら揺れて、炎を反射してギラギラ光った。

 床に突き立っていた青龍刀に縋ってようやく立ち上がった無常が、左手でそれを引っこ抜いて投げたのだった。

 投げたとたん、また無常はバッタリと、蚊帳の上に倒れ込んだ。

 すかさず雪華は男の股間に膝蹴りを喰らわせ、青龍刀の下をすり抜けて立った。

 男は「ギャッ」と叫んで股間を抑えつつ前のめりに崩折れた。

 雪華はたちまちに気を統一した。

 手首を縛っていた帯は切れてハラリと落ちた。

 男は一旦崩折れつつも立ち上がっていた。

 もはや笑っておらず、凶暴さのみの表情になっていた。

 だが雪華は反撃する隙を与えず、男に向かってX字に右腕を閃かせる。

「ぎゃああああっ」

 顔をX字に斬られた男は絶叫してその場に倒れた。

 雪華はもはやそれ以上男に構わず、目をカッと見開いて倒れている無常の傍らに屈み込む。

「お父っつぁん。お父っつぁん」

 雪華は声を限りに叫ぶ。

「バ…バカ野郎…」無常は息も絶え絶えに云う。「何を…愚図愚図していやがる。とっとと失せるんだよ。ずっと…教えて来たじゃねえか。俺に…構うんじゃねえ…」

「嫌だ」雪華は叫ぶ。「嫌だよ、お父っつぁん」

「うるせえ。早く行け…。チッ、油断したな。俺もモウロクしたもんだ…。早く、行けったら…。教えた通りにするんだよ。…あ、それからな、おまえのおっ」

 そこで、目をカッと見開いたまま、花澄無常の頭はガクリと横に倒れた。

「お父っつぁん、お父っつぁん!」

 雪華は叫んで無常の身体を揺すったが、そこでハッと我に返った。

 炎はもはや、四方に広がっている。

 そう、愚図愚図しているヒマはないのだ。

 雪華はすぐさま立ち上がって土間に飛び降り、常に竈の脇に汲み置いてある手桶の水を頭から被った。

 そしてそのまま、すでに炎の廻っている板戸に体当たりして、表に転げ出た。

 表にはもう近所の連中が飛び出して騒いでいた。

 戸板が外れて「キャアッ」と悲鳴が上がったが、次いで雪華が転がり出て来ると、また「ワアッ」と声が上がる。

「雪ちゃん大丈夫かい?」

「お父っつぁんは?」

 口々に人々が声を掛けるが、雪華はもはやそれには目もくれず、その人々に背を向けて、素足のまま、走り出した。

「ちょっと雪ちゃんどこ行くんだい」

「おおい、待てよ」

 人々の声はたちまち遠くなる。

 雪華は一目散に、深夜の下町を走り続ける。

 人気のない街角を幾度か曲がる。

 遠くで半鐘や警笛の音がする。

 濡れた浴衣の裾が脚にまとわりつくので、いつしか雪華は裾をまくり上げて、走っていた。

 もし人に見られたらなんて、思う余裕すらなかった。

 とある町角を曲がった所で、人にぶつかった。

「おおっと危ねえ」

 男の声がした。馴染みのあるその声に、雪華はハッと顔を上げる。

「ゆ、雪ちゃんじゃねえか」

 馬面に猿の造作のその顔が、仰天して雪華を見ていた。

「するってえと、あの火事は、やはり…」

 彫鉄が云うと、雪華はうなずき、急に涙が溢れて来た。

「泣くのはまだはええ」彫鉄が厳しく囁く。「とにかく、一緒に来な。急いで」

 彫鉄は雪華を抱え込むようにして、今来た道を急ぎ足に引き返した。


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