第2話 雪の華

 重たい鉛色の空の下すべてが、白一色に覆われている。 

 雪は止んでいたが、凍え切った大気は、鋭い刃の如くだ。

 その中を、必死に雪をかき分けかき分け、喘ぎつつ、もがきつつ、転がるように、前へ進んでいる生きものがいる。

 それは、雪蓑に身を包んだ人間だった。

 若い女だ。

 齢の頃は十七、八といった所か。

 頬は真っ赤、息は吐く先から凍りつく。

 雪は深く、脚も身体も思うように前には進まぬ。

 しかし女は、がむしゃらに、無我夢中に、とにかく前に進む。

 後方から「いたぞ」「撃つな、生け捕れ」「大声出すな、雪崩が起きるぞ」と云う男たちの声と、犬たちの吠え立てるのが聞こえる。

 女は一瞬ギクリと立ち止まって、声の方に顔を向けた。

 だがまた向き直ると、再び雪をかき分けかき分け、前に進む。

 女はもはや声に構う様子はなく、ただひたすらに、前に進む。

 雪に覆われている下に何があるかなど、まったく頓着する風もない。

 そんなこと、考える余裕もないのだ…。

 夏場のこの辺は、緑の美しい谷間であった。

 女がしゃにむに前へ進んでいるのは、その河岸の岩場の上であって、雪がどっさり降り積もっているから白一色にしか見えないが、夏場であれば凸凹の岩の連続で、とてもこんな風に突き進めるような場所ではない。

 いや、冬場だって、いつどこで雪を踏み抜いてしまうか、わかったものではない。

 何せここは、川べりの岩場なのだ。

 岩と岩の隙間、本流に流れ込む小さなせせらぎ、そんなものはすべて深い雪が覆い隠していて見えない。

 そんな所を踏み抜いたら最後、雪の中に埋もれるか、滑って転んで運悪く積雪の薄い岩に頭を強打するか…。

 いずれにせよ、がむしゃらにこんな所を突き進むのは、無鉄砲以外の何物でもない。

 だが女は…。

 殺される。捕まったら、この子もろとも、殺される。

 その一念だけが、頭の中で渦巻いている。 

 女は、孕んでいる。

 女の動きが、ハタと止まった。

 遠くだった犬の咆哮が、急に近くなった。 

 だが女はそれ以上先に進めなかった。

 途方に暮れて背後を、周囲を、そして足元を見た。

 足の下は、断崖絶壁だった。

 さすがにこの切り立った断崖は雪も覆い隠す術を持たなかったものらしい。

 川の流れが滝となって遥か下方に轟きとともに落ち込んでいる。

 女はまごついていた。

 だが先はもちろん、右も左も、逃げられそうな所はなかった。

 右は山肌を覆う雪の壁であり、左は滝に向かって勢いを増す激流だった。

 女がまごつく間にも、犬の咆哮は近付いて来ており、「いたぞ」と云う男たちの声もまた、近付いて来る。

 女は、意を決したように、断崖の下を見つめた…。



 この様子を、滝の下の木陰から見ている鋭いまなざしがあった。

 まなざしの主は、やはり雪蓑に身を包み、猟銃を抱えた、精悍な顔付き、身体付きの男であった。

 男はその場で猟銃を構えると、狙いを定めた。

 その先には、断崖の上で立ち尽くす、雪蓑を着た女の姿があった。

 男が、銃爪ひきがねを引いた。

 銃声が轟き、女は断崖から真っ逆さまに、滝壺へと落ちていった。

 銃声と共に、白銀の山肌が大きく崩れた。

「雪崩だ」「助けて…」「キャウーン…」

 悲鳴を上げる男たちと犬たちを、雪崩は容赦なく呑み込んでゆく。



 滝の上で起きた雪崩は、勢い余って滝壺にも落ちて来て、その青黒く凍え切った水を激しく波打たす。

 その中から、先程の男が現れた。

 男は褌一丁の裸で、そのたくましい腕に、雪蓑姿の女を抱え上げている。

 男は女の濡れそぼって蒼ざめた顔を見た。 

 女は目鼻立ちの整った美しい顔をしている。

 男の方は野人のように髪も髭もむさ苦しく伸びている。

 そして、その額の真ん中には、黒々と丸い刻印がある。

 男が撃ったのは、女の足元の石だった。

 足元のバランスを失って、女は滝壺に落ちた。 

 雪崩まで起きたのは、男の意図したことではなかったが、好都合だった。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 おまえが死んだら…俺も死ぬ。

 男は岸に女の身体を横たえると、その雪蓑を引き剥がした。

 そして、さらにその下の粗末な野良着を脱がせかけて、ハッとして手を止めた。

 男は急いで女の服を元通りにすると、女の身体を起こし、背負った。

 その男の背に、鬼の顔があった。紅蓮の炎の中で、クワッと目を剥き口を開いた、鬼の顔だ。

 女を背負った男は、猟銃を手にして、急ぎ足に、褌一丁の裸のまま、雪の中を歩き始めた。



「和尚。俺だ。開けてくれ」

 表からの怒鳴り声で、花澄無常はなずみむじょうはハッと目覚めた。

 紅く燃える火の傍で、いつの間にかウトウトしてしまったらしい。

 目覚めると無常は、老僧の如き枯れた外見と裏腹な敏捷さで戸口へ駆け寄り、扉代わりの菰をめくった。

 女を背負った男がぬうっと入って来た。

「何だい丹波さん、その格好は」無常は呆れ声で云う。「いくらあんただって、雪ン中褌一丁ってのはねえぜ」

「そんなことより、湯を沸かしてくれ」丹波と呼ばれた男は、背負って来た女を火の傍らに下ろして云った。「産まれそうなんだ」

「何ィ」無常は素っ頓狂な声を上げる。「ここで産むのか」

「仕方ねえ」丹波は苛立ちを隠さない。「もう赤ん坊が出掛かってる」

 無常が呆気に取られていたのは一瞬だった。

 次の瞬間には、そこで煮立っていたイノシシ鍋を持って表に飛び出すと、中身をそこにぶちまけ、代わりに雪を詰めて駆け戻り、火に掛けた。

 たちまち雪は溶けて水になり、そして湯気が上がって沸き立った。

 丹波が女を横たえると、とたんに女は顔をしかめ床をかきむしり、悶絶し始めた。

 丹波は改めて女の雪蓑を引き剥がし、その下の凍り付きかけている野良着もむしり取って全裸にした。

 女の広げた脚の間から、すでに赤ん坊の頭が覗いている。

「和尚、ハサミか何か、ないか」丹波は赤ん坊の頭を凝視して云う。「ヘソの緒を切るんだ」

「ハサミって云ってもな」傍らに来た無常はキョロキョロする。「ごらんの通りの掘っ立て小屋だ。まさかここで産むとは思っちゃいねえし…」

 そう。

 ここは文字通りの山の中の炭焼き小屋であって、中はこうして大人三人がいるだけで一杯の狭さだ。

 花澄無常はしばし途方に暮れた顔をしていたが、やがてニッと笑って右手を丹波の前に突き出した。

「忘れてたぜ」無常は云った。「俺にゃこれがあるんだ」

「ああ」丹波はそれを見てうなずく。「じゃ、そっちは頼むぜ。俺はこいつを抱いて温めている」

 そう云って丹波は、悶絶し続ける裸の女を、己のたくましい肉体で持って鎮めるように抱きしめ、撫でさすり始めた。

「ちぇっ、自分は肉布団かい」無常は舌打ちする。「まあいいか。たまにゃこの右手を人助けに使うのも。オイ、丹波さんよ。あんたの背中の炎般若も、今夜は目尻下げて、ニヤけて見えるぜ」

 しかし、そんな無常の戯言をかき消すように、女の呻きがひときわ大きくなった…。

 やがて…。

 ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ。

 激しい泣き声と、ほかほかの湯気と共に、赤ん坊は花澄無常の手の内にあった。

「女の子だぜ」

 そう云うと無常は、大事そうに赤ん坊を左腕の内に抱えて、右手を自分の顔の前に拝むように立てた。

 一瞬、無常の顔に冷ややかなものが漲った。

 そして、「ヤッ」という掛け声と共に、赤ん坊の上にその右手を一閃させた。

 すると、赤ん坊の腹から女の脚の間へとつながるヘソの緒が、ハラリと落ちた。

「おい、しっかりしろ!」

 丹波が突然声をあげ、女の身体を揺すった。

 丹波は女の胸に耳を当て、女の鼻先にも耳を近付けた。

 女は、息をしていなかった。


 ****


 手をかざせば切れてしまいそうなほどの澄み渡った青空の下すべてが、白一色に覆われている。

 おだやかな冬の日であった。

 大気が凍え切っているのは相変わらずだったが。

 その中に、粗末な炭焼き小屋は建っていた。

 そしてその前に、老僧の如き風体の、花澄無常の姿があった。

 もっとも、本日の無常はその姿の上に膝下まである長どてらを着込んでいる。

 その筋では通った凄腕の「手刀使い」花澄無常にしては何とも情けない姿だが、背負った赤ん坊に風邪を引かせる訳にはいかない。

「ごらん、雪華ゆきか」無常は背中の赤ん坊に語りかける。「雪割草が咲いているよ。綺麗だねえ」 

 無常を知る者が聞いたら、その猫撫で声に愕然としてしまうだろう。「非情の無常」あるいは「無慈悲和尚」の異名を取る彼の口から「綺麗」なんて言葉が出るのも、彼を畏怖する者が聞いたら耳を疑うに違いない。

 だが…。

 この子は俺の命だ。この子のためなら、俺は死ねる。

 この子が生まれてまだ一週間しか経たないが、無常はもう、そう思い定めている。

 無常はそれほどまでにこの赤ん坊が愛しくてならない。

 無常は背中を少し傾けて、赤ん坊に雪割草がよく見えるようにしてやる。

 無常の足元に文字通り雪を割って、可憐な白い花が咲いている。

「雪華や」無常は背中を傾けたまま、語りかけ続ける。「おまえの名前はねえ、この花から採ったんだよ。こうして雪の中に咲く花のように、美しく、たくましく育って欲しいってね」

 無常からは見えないが、背中の赤ん坊はしっかりと目を見開いて、雪の中にすっくと咲く花を見つめている。

 つぶらな瞳に焼き付けるかのように。

「それにしても」無常は溜息混じりに云う。「おまえのおっ母さんも、丹波さんも、どこ行っちまったんだろうねえ。困ったもんだねえ」

 無常の眼が、不意にギラリと光った。



 それからしばらくの後…。

 雪を踏んでやって来る、三人の男たちの姿があった。

 いずれも雪蓑姿の、屈強、かつ凶悪な面構えの男たちであり、手には猟銃、腰には刀やナタを差している。

 男たちは炭焼き小屋の前に立った。

 その凶悪な面に、凶悪な笑みが浮かんでいる。

 一人目が顎をしゃくると、他の奴はうなずいて小屋の入口の左右に付く。

 一人目が入口の菰の向こうに耳を澄ませ、他の奴にうなずいて見せると、菰を引きちぎって中になだれ込む。

 誰もいない。がらんとしている。

「畜生。ずらかりやがったか」

 二人目が云った。

「まだ遠くに逃げちゃいないな」三人目が焚火跡に手をかざして言った。「まだ温かいぜ」

「俺たちが来た道に足跡はなかったな」一人目が云った。「ってことは裏から逃げやがったのか。なら、足跡があるはずだ。オイ、誰か見て来い」

「合点だ」二人目が云う。「俺が見て来る」

 二人目が出て行き、残りの二人は狭い小屋の中を見回している。

 一人目がフト気付き、火の消えた炭焼き窯の中を覗き込もうとした。

「なんだあいつ」三人目が云った。「どこまで見に行ったんだ。えらく時間が掛かるじゃねえか」

 一人目はギョッとして顔を上げ、三人目と顔を見合わせた。

「俺が見て来る」

 三人目が行こうとするのを、一人目が「待て」と引き止め、「俺も行く」と云った。

 三人目はうなずいて、二人で表に出た。

 そのとたん、二人とも「ヒッ」と叫んで立ちすくんでしまった。

 何故なら、そこに二人目が倒れていたからだ。

 死んでいるのは明らかだった。

 そいつの首が、可憐な雪割草の傍らに転がって、青空に向かって微笑んでいたからだ。

 胴体の方は首から一間ほども離れた場所に倒れていて、周囲の雪を盛大に紅く染めている。

 二人は、お互い蒼白な顔を見合わせた。

 一人目は小屋にとって返し、三人目はガタガタ震えたまま突っ立っている。

 だがたちまち、「ギャアッ」という叫びが中から聞こえたきり、あとはシンと不気味に静まり返ってしまった。

 残った男に、小屋の中を覗く度胸など、もはやない。

「ワアアアッ」

 男は悲鳴を上げて、小屋の前から逃げ出すべく、元来た方へ駈け出した。

 股間はぐっしょり濡れている。 

 だが慌てたためにすべって転んだ。

 その男の目の前に、にゅっと足が突き出された。

 この雪の中、素足であった。

 男は顔を上げた。

 長どてら姿の花澄無常が、にこやかな笑顔を向けていた。

「この雪の中、ご苦労なこった」無常はいたわるような優しい口調で云う。「本来なら、お茶でも出すのが礼儀だがな」

 その口調と笑顔に、男もつい釣り込まれて笑顔になる。

「だがな」にこやかなまま無常は云う。「悪いがおまえさんにゃ死んでもらうぜ」

 男は表情を変えるヒマもなかった。

 無常の右手が素早く男の首に一閃し、同時に男の首はポーンと勢いよく宙に舞い、一瞬遅れてその斬り口から盛大に血が噴き出した。

 その時にはもう無常は、男の身体の上を身軽に飛び越し、小屋へと駆け戻っていた。

 小屋の中は血腥ちなまぐさかった。男の屍体は一つだけのはずだが、二つあるように見える。

 男は縦に、身体を真っ二つにされて転がっていた。無常はもちろんそれを見ても表情一つ変えず、その屍体を足蹴にしてどかして、火の気のない炭焼き窯の中に腕を突っ込んだ。

 やがてゆっくりと、大事そうに抱えたその腕の内に、赤ん坊が抱かれていた。赤ん坊は目を真ん丸に見開いて、無常の顔を見つめている。

「雪華、もう大丈夫だ」無常は赤ん坊を抱きすくめて猫撫で声で囁く。「おまえは偉いなあ。ちっとも泣かねえで、よく辛抱したなあ。おかげで助かったよ。だが…」

 無常はすっかり血腥くなった小屋の中を見回して溜息をつき、呟いた。

「もうここにゃいられねえな」

 …ややあって、黄昏はじめた冬空の下、炭焼き小屋は炎に包まれていた。

 その時には、花澄無常も雪華も、その姿はもはやあとかたもなく、消え失せていた。  

 

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