「虎、排水口、苺パフェ」

須賀目 光彩

「虎、排水口、苺パフェ」

「ふぅ……」

 シャワーから出る湯をくぐった。

血だ。

 それらは渦巻く様に透き通った水と一緒くたになって排水溝に吸い込まれてゆく。

「ハハッ」

 ――少女の血は旨い。純粋無垢であればある程。




「ねえ、おじさん」

 スーツの裾を引かれて目を落とすと、そこには八歳くらいの長髪の女の子が立っていた。

「――さっきから引っ付いてきてたのはお前か。あのなァ、男は多少老けて見えても"おにいさん"って呼べよ」

「うー、じゃあおにいさん、ユキおなかへった。レストランつれてって?」

「ハァ?」

 女の子、ユキは悲しげな表情で俺を見つめてくる。

「そんなこと親に言え。じゃあな」

 俺が踵を返して立ち去ろうとすると、「待って!」とユキが大きな声を出したものだから、周囲の通行人が訝しげに俺達を見ながら通り過ぎていった。

「うるせぇ! デケェ声出すんじゃあねぇよ……!」

「うっ……ごめん、なさい……」

「――ハァ」

 ここで泣きだされでもしたらどうなるものか……。ただでさえ外で目立つことができない身なのに、『ガラの悪い男が女の子を泣かせている』なんて通報されてしまえばすぐさま警察沙汰だ。

「わーかった。ファミレスでいいか? ただし、メシ食ったらすぐ帰れよ? わかったか?」

「えっ? いいの⁉ ありがとうおじさん!」

「……だからおにいさんだって……ハァ」

「おにーさんっ! 行こっ」

 ガキのくせに現金なやつだ……。

 俺は仕方なく、嬉しそうに着いてくる少女と共に徒歩三分程度のファミリーレストランに入店した。

 思った通り、店員は俺達のことを怪しい二人組が来た、という目で見てきたが席にはすんなり案内してくれた。

 席につくと、「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたら――」と店員が二つの冷水をテーブルに置くやいなや、

「イチゴパフェ!」

 と店員の声を遮って、ユキが元気よく手を挙げて満面の笑みをうかべた。

「かしこまりました。苺パフェが一点ですね」

 店員は少し驚きはしたものの、慣れた様子で端末を操作する。

「おい、お前腹減ってんじゃねぇのか! パフェはデザートだろうが」

「いいのー! ユキはイチゴパフェが食べたいの!」

「もっと腹にたまるもん頼め。大体お前、メニューも見ずにテキトーに注文すんな。もっとガキの好きそうなオムライスとかあるじゃねぇか」

 メニューを開いて見せてやったが、ユキは『イチゴパフェ!』の一点張りで、コイツが満足するならいいか、と諦めて(なるべく早くガキにご帰宅願う為に)、「じゃあホットコーヒー」と自分の注文も済ませた。

 店員が会釈をして戻っていくのを見てから、

「パフェで腹一杯にならなくても知らねぇからな。追加オーダーはナシだ」

 と一応釘を刺す。

 ――ここで本題に入ろう。

「で? お前なんで一人で出歩いてたんだ? 親御さんは?」

「パパもママもお仕事でいない……。帰ってきても、ユキのこと……」

「まあ最近は共働きも多いからな。それは仕方ないとは思うが」

 ――初めから気になっていた。今日の最高気温は三五度。しかも今は午後一時。何故、手首まで隠れるパーカーを着ている?

 俺はガラでもないが、少女の身を案じて、自らその理由を解明しようとした。

「お前、ちょっと手ェ貸せ」

「えっ?」

 半ば強引に少女の細腕を掴み、袖をまくる。

 ……やはりか。

「この痣どうした。パパか? ママか?」

「ち、違うよ! ユキが勝手に転んじゃっただけ!」

 児童虐待の典型的な言い訳だな。まあこの際わざわざ真偽を確かめる必要もない。

「まあいい。お前がドジってことにしといてやる。――で? なんで俺みたいなヤツに声かけた?」

ユキはあからさまにバツが悪そうな顔で俯き、「えっと、えっと……」と必死に返答を考えている。

「優しそうな人はいっぱいいるけど、みんな、話しかけても交番に連れていかれちゃうから……ちょっと怖そうなおにいさんにたよってみたの」

 怖そう、か。まあ間違っちゃいないな。

「怖い人なら他にもいっぱいいるぜ? 俺みたいな末端の下っ端なんか……こんなことガキに言っても仕方ないか」

「まったん? おにーさん、したっぱなの? ザコ?」

「オイ! 会って数分の大人にむかってなんて暴言吐いてんだ!」

「うっ、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ユキは今にも泣きだしそうな顔をして、消え失せそうな声で何度も謝った。

「あー、泣くな泣くな! ガキに難しいこと喋った俺が悪かった。だから泣くな」

 コイツは大声に怯えて泣きだしたのではない。普段から刷り込まれている“怒られる恐怖”で反射的に、いつもの癖で、謝っている。

「安心しろ。俺は手はあげねェよ」

 そう言ってゆっくりと頭に手を乗せようとすると、”いつもの癖“でユキは両手で頭をかばって、ギュッと目を瞑った。

 それでも俺は小さな手を押しのけ、ぎこちなく頭を撫でる。

「おにいさん……ごめんなさい、ごめんなさい……」

「謝るな。お前はなにも悪くない」

 そうだ。悪いのは、少女をこんなにも臆病にさせてしまった両親と、周りの人間、そして社会だ。

「パパとママが怒ったり殴ったりするのはお前が悪いからじゃあない。人間誰しもストレスで八つ当たりしたくなることはある。お前の家庭ではそれがいきすぎちまってるだけで、誰も助けてくれないだけで、お前が全て一人で抱え込んじまってるだけなんだよ」

 優しい口調で語りかけつつ、頭を撫で続けていたらユキは段々と落ち着きを取り戻し、微笑んでくれた。

「お待たせいたしましたー。苺パフェと……コーヒーです」

 やっと心を開いてくれたユキの眼前に大きなパフェがそびえ立った。

「うわあ~!」

 目をキラキラさせて、まるで初めて見たかの様にその大きなグラスを前のめりで見つめている。

「ユキ、パフェなんて初めて!」

「えっ、本当に初めて食うのか?」

「うん! ありがと、おにいさん!」

「お、おう……」

 まあ、コイツの家庭環境なんて憶測でしか判断できないが、おおよそ家族で外食、なんてことはしないんだろうな。

「その、なんだ……。いつもは何食ってんだ?」

「んと、おにぎりとか、パンとか……かな?」

「コンビニのやつか」

「うん!」

 手料理もナシ、か。

「ほら、そんなに眺めてたらアイスが溶けちまうぞ。食えよ」

「うん!」

 嬉しそうに返事をしてからスプーンを手に取り、「スプーン長ーい!」とまた驚いている。それから、行儀よく「いただきます!」と言って、恐る恐る頂点に飾られた大粒の苺とソフトクリームを頬張った。

「んん~~!」

 うまそうに食うな……当たり前か、初めて、なんだから。

「こんなおいしいもの初めて食べた! おにいさんもいる?」

「いや、いい」

 という俺の言葉を遮って、パフェを山盛りにすくったスプーンをぐいとこちらに差し出してきた。

 こんな笑顔で渡されたら、受け取らないのは悪い気がして、スプーンを手に取り口に押し込んだ。――本当は甘いもの、苦手なんだがな……。

「お、うまいな」と気を使ってコメントすると、ユキはもっと笑顔になって、また夢中で食べ始めた。




「ごちそうさま~!」

 ユキが嬉しそうにそう高らかに告げたのは約十分後。

「おし。じゃあ帰るぞ」

「うん。ありがとう! ユキ、とっても元気がでたよ!」

「そうか。良かった」

 相槌を打った俺は――少女の手をしっかりと握った。

「あれ? まだどこか連れてってくれるの?」

「ん、まあそんなとこだ」

 俺はそのまま速足で自宅に向かう。「おにいさん、手、痛いよ」と言う少女の声も無視して、前だけを見て歩き続ける。

「――着いたぞ」

 到着したのは寂びれた一件のアパート。俺の根城だ。

「どこ? ここ……」

「俺の家だ。入れ」

「う、うん」

 躊躇いながらも素直に部屋に入ってくれた。

 ――これから自分がどんなめにあうかも知らずに。

「ふう」

 俺は靴を脱いで部屋に入ると、ジャケットとワイシャツも脱いだ。

「おにいさん、これー……、トラさんの、絵?」

「ただの刺青だ」

「へえー、かっこいいね!」

 なにも疑っていない、信じきっている、純粋な、幼気な、視線。

 そう、俺は虎を背負っている。気が遠くなるほど長い、カタギとはかけ離れた生活の中の産物。

 いくら汗を流しても、血を流しても、変わらない、俺の居場所。

「なんにもないね、このお部屋」

 少女の声がぼんやりと俺の耳をかすめてゆく。

 早く、早く、この、少女の……。

「おい。お前、髪にクリーム付いてるぞ。ほら、風呂場はここだ」

「え? 気付かなかった。洗ってもいいの?」

「ああ」

 俺はそれだけ言って、相手に見えないようにキッチンの包丁を後ろ手に取った。

 衝動。

もう我慢していられない。もう待ってはいられない。

 少女を押し込む様にして二人で風呂場に入る。

「えっと、お湯のボタンは……」

 背を向けている少女の細くて白い首を捕まえて、タイル張りの床に仰向けに組み伏せた。

「えっ」

 小さな声をあげた少女の顔に、徐々に恐怖の色が広がっていく。

 俺は無言で、胸部の服を斬り裂いた。

「おにい、さん……?」

 もう何も聞こえなくなった。

 いや、自らの心音だけが大きく反響している。

「ハハッ」

 呼吸が速く、荒くなる。

 少女の容姿も、わからなくなる。

 そして、露になった肌を深く斬り開く。

 そうすればやっと……、やっと心臓が――。

 恐怖か、痛みか、ショックか、少女が失神してしまった。

「オイ! 寝るな! 台無しだろうが……!」

 空いた左手で頬を強く叩くと、見開いた目から涙が溢れ出す。

「それでいいんだよ。俺を憎め! 俺を、世界を!」

 深紅に染まった視界から、心臓だけを鷲掴み、その扇情的な香りを楽しむ。

 自分の為だけの温もり。自分の為だけの匂い。自分の為だけの世界。自分の為だけの、食事――。

 口元が高揚感で緩みきっているのがわかった。

そして、

「ハァ……ハァ……」

 大きく口を開けて、むしゃぶりつく。

 ああ、旨い、旨い、苦い、甘い、旨い、美しい。

 血飛沫、流血、赤色、血、血、血、血、血。




「ふぅ……」

 シャワーから出る湯をくぐった。

血だ。

 それらは渦巻く様に透き通った水と一緒くたになって排水溝に吸い込まれてゆく。

「ハハッ」

 ――少女の血は旨い。純粋無垢であればある程。

 浴槽に力無くよこたわった少女をチラリと見る。

 シャワーの湯とは違う、温かな感触が頬を伝う。

「……ああ、ユキ、お前……ユキ、ユキ……!」

 ――お前も、あんまり旨くなかったなァ。

「虐待されて、行く当ても無くて、まだ小さいのに家に帰りたくなくて、帰ってもなにもかも怖くて、苦痛で……。そりゃ、旨くないよなァ……ユキ……ユキ」

 顔を見ると涙は余計に止まらなくなって、俺は床に崩れ落ちた。

「なんでそんな幸せそうな顔してんだよ、お前――」

 幸せになりたかった。愛を受けたかった。誰でもいいから助けてほしかった。

 こんな、俺でも。

「ユキ、お前、幸せか?」

 いくら待っても、いくら泣いても、返事なんて無かった。

 ――いつだってそうだ。俺は、こんなことを何度繰り返したってなにひとつ得られない。

 幸せも、愛も、道端に簡単に転がっていそうな当たり前の、普通の生活も……。

 俺は血に濡れた包丁を自らの首筋に近付けた。

 シャワーの音だけが響く狭い世界。視界が揺らめく。

 そして、ブラックアウト。

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「虎、排水口、苺パフェ」 須賀目 光彩 @sugame_kohsai

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