山海末男のこと

山野サキ

第1話

 店の裏手に増設した和菓子作り用の作業室。寸胴から立ちのぼるむわっとした湯気が室内に広がっている。コンクリの床の上に重ねられている深緑色の和菓子用のプラケースを水洗いしたり、小豆を煮たりしているうちに、気がついたらもう午後三時になるところだった。

 近くの河川敷からはサッカーをしている子供たちの声が聞こえてくる。川向こうの再生紙の工場で、その日最後の休憩を知らせるサイレンが雑音混じりに鳴りだした。僕は壁にかかっている時計から横に視線をやり、吊り棚をみた。

 吊り棚の上にはケーキ皿ほどの朱塗りの杯が置いてある。古いもので、漆がところどころはげている。その杯の両脇には百合や霞草が飾られ、向かって右端には小ぶりの教団旗が立てかけられている。

 こんな杯に店主は本当にありがたがって手を合わせているのだろうかと僕は思った。この杯、先代の店主が恩人からもらったものだそうだ。先代にならって店主は毎日和菓子——たいていの場合、それはぼた餅だった——を杯に載せて拝むわけだ。するとどういうわけか、その日に作る和菓子の出来がよくなるらしい。

 ちなみにこの行為は、店主や僕が入信している宗教団体——つまりは吊り棚に立てかけられている小旗が示す宗教団体——とはまったく関係がない。とにかく店主はこのを大切にしていて、所用でそれができない場合は、奥さんもしくは唯一の店員である山海末男がかわって行うことになっていた。

 この山海末男という店員は、正確な年齢は知らないが、おそらく六十代半ばくらいだったと思う。衛生帽を一応かぶってはいるものの白髪まじりのぼさぼさの髪を脇にはみ出させた色の黒い小男で、どろんとした目で笑うと黄色い前歯が一本抜けているのがみえてどこか滑稽な感じがした。

「もう小豆はいいからよ。火をとめて、そのヘラ棒で適当にかき回して蓋しておけ。あとでもう一回、移しかえて火にかけるからよ」

 山海は窓際までドーナツ椅子を引きずりながら持っていくと、窓を開け、脚を組んで座った。

「あの……」

 僕は湯気の向こうの山海をみた。

「なんだよ」

 山海はスポーツ紙を広げようとする手をとめた。

「助かりました」

「なにが?」

「ほら、今朝タイムカードを押しておいてもらった件ですよ」

「ああ」

「遅刻が帳消しになっちゃったし」

「気にすんな、今日は俺とおまえだけだしな」

「でも本当にいいんですかね、ご主人に報告しなくて」

「俺がいいっていっているんだからよ、もうそれ以上いわんでいい」

「まあそういうことなら」

「そんなことより、ひと休みしな。バイト二日目で疲れたろう」

 山海は煙草に火をつけ、スポーツ紙を広げた。「坂本君だっけ? おまえ、競馬はやらんのかい」

「やりませんよ。それより和菓子はどうするんですか? あの杯に載せておかなくていいんですか?」

 僕は寸胴の火を消した。「ご主人がそうするように昨日いっていたじゃないですか」

「今日は営業していないからいいんだよ。小豆を煮て、ぼた餅をいくつか作っただけだろうが」

「そうはいっても」

「ごちゃごちゃいうなよ。載せたことにしておけ」

 山海は壁の時計をみた。「もう午後三時だぞ、どうせすぐ取るんだし、いまさら載せたってしかたないじゃないか。だいたいよ、ばかばかしいだろうが。ぼた餅を載せた杯にぱんぱんって手を叩いて拝むかよ、おまえ」

「僕はそんなことはごめんですよ」

「だろう? 教団幹部からもそんな真似はやめるようにいわれているのにやめないんだよ、うちの社長は」

「ひょっとしてご主人、なにかほかの新しい宗教に入れ込んでいるとか」

 山海はひらひらと手を振った。

「ないない、この店は教団のおかげでやっていけているようなもんだしな」

 山海は窓の外に煙草の煙をうまそうに吐き出した。「それによ、今日はあれだほら、教団の理事会が主催する食事会だろうが。老夫婦がそろって本部に出かけてよ、夜になったらいい気分で帰ってくるんだぜ。分かるだろう? そんなあほらしいこと忘れているから」

「はあ……」

 山海は、別れ際にごねだす女でもみるように杯に目をやった。

「まったくよう、なんでそんなことするんだろうな。どうせあれに載せたって、ほとんど食わずに捨てちまうし。それともおまえが食うか?」

「遠慮します」

 僕は電気ポットのお湯でインスタントコーヒーを作った。そして店主のうちの古い台所につながる半開きのガラス戸をさらに開け、上がり框に腰を下ろした。薄暗い台所の小窓から差し込む日で、床板の一画が黒々と光っていた。台所の奥はさらに暗く、かすかに線香のにおいがした。


 山海は短くなった煙草の先端を指で潰して火を消すと、窓の外にそれを投げすてた。それからスポーツ紙をめくりながら大きなあくびをした。窓のすぐ外には、雨だれの染みが黒い筋になっている家具倉庫のクリーム色の壁面があるだけだった。視界は完全に塞がれていた。隣との五十センチほどの隙間に、山海は煙草を吸うたびに吸殻を投げ捨てていた。そもそも作業場は禁煙のはずだった。

「煙草、大丈夫なんですか?」

「ん? ああ、窓の向こうは水溜りになっているから、火なんてつきゃしないよ。なんならみてみろ」

 そういわれて、僕は窓から首を伸ばした。

 ところどころに泥水が溜まっている。そこにいくつもの吸殻が浮かんでいた。なるほどこれなら火はつかないかもしれない。でもごみはごみじゃないか。捨てていいわけがない。あたりにはそのほか骨だけのビニール傘やら空き缶やら水を吸ってぐにゃぐにゃになった雑誌やらが捨てられていた。奥の薄暗いところにはなにかの死骸みたいな黒っぽいものまであった。

「煙草も吸いにくくなったよなあ。坂本君だっけ? 煙草は?」

 山海はハイライトの箱を振ると、一本だけ少し出して僕に向けた。

「吸わないんです。体に悪いから」

 山海はちょっと嫌な顔をした。

「つまらねえ男だな。いくつだよ」

「二十一歳です」

「ひょっとして女もやらない口かい」

「おカネがないですし」

「カネ? そういう問題か? まあ世の中、万事カネ次第っていうのは分かるが」

 山海はまた新しい煙草に火をつけた。「なあ坂本君よ、おまえは教団に入信して何年目だ」

「十八歳の時に友達に誘われて入りましたから、三年くらい経ちますかね」

「で、どうだい、教団は。真面目に信心しているのか」

 僕はなんて答えればいいのか分からなかった。この店のアルバイトを紹介してくれた人も含めて、店の関係者全員が教団の信者だったからだ。僕は教団の排他的なやり方についていけなくなり、やめるつもりでいた。さらにいえば、つきあいはじめた教団とは無関係な彼女が棄教しろといったからでもあったが。

「そろそろやめたくなったか」

「ええと、その……」

 山海はにやりとした。

「無理しなくてもいい。おまえみたいなタイプはだいたいそうよ。二、三年で教団の胡散臭さに気づいてやめちまうのが多いのさ」

「山海さんは教団をやめたいって思ったことはないんですか?」

「ないね」

 山海はきっぱりといった。「だってこんなにおいしい宗教団体がほかにあるかよ」

「おいしい?」

「教団には信者がいっぱいいるだろうが。社会の様々な分野に影響力があるし、入っているとなにかとお得なことがあるんだよ」

「お得なことですか。なんですか、それ?」

「おいおい、それ以上は訊くんじゃねえよ。物事にはなんでも表と裏があるってことだ、な」

「それって宗教とは違うものなんじゃないですか?」

「おまえはあの教団がまともな宗教団体だとでも思っているのか」

 まだ長い煙草に山海はちらっと目をやり、やはり先端を指で潰して火を消すとそのまま窓の外に投げ捨てた。「いいか、この際だから教えておいてやるが、世の中にはふたタイプの人間しかいないんだ。利用する側の人間と利用される側の人間だ。おまえはどっちだ」

「どっちといわれても」

「はっきりしねえなあ」

 ちょっと潤んだような感じの濁った目で山海は僕をみた。


 山海はふらりと作業室を出ていった。二十分ほどすると、楊枝を口の端にくわえて牛丼臭い息をしながら戻ってきた。先端が潰れてつばで柔らかくなった楊枝をちらっと眺めてからそれを側面の窓の外に捨て、またドーナツ椅子に座った。そして作業着のポケットから缶コーヒーをふたつ取りだし、ひとつを僕にくれ、もうひとつは窓枠に置いた。さらにはガラケーと使い捨てライターも窓枠に置き、なにやら意味不明なことを呟きながらハイライトのフィルムをむきはじめた。

 窓枠に置いた山海のガラケーが鳴りはじめた。着メロは、時代劇『水戸黄門』の例のだった。

 山海はハイライトを窓枠に置くと、「来た、来た」といってガラケーを手に取り、にやにやしながら作業室を出ていった。ほどなくシャッターの閉まっている暗い売り場からわざとらしい笑い声が聞こえてきた。その場を取り繕うだけのたいして意味のない笑いだ。ところがどうしたものか少ししてそれが焦っているような声になった。

「なにも怒ることはないだろうが。ちょっとカネのバックが遅いっていっただけじゃないかよ」

 聞くとはなしに話が聞こえてきた。相手は山海が使っている競馬のノミ屋らしかった。カネの払いでもめているのだろうか。ついに山海が怒鳴りだした。しばらくああだのこうだのと大声で文句をいっていると思ったら、突然静かになった。ガラガラドシャーンとなにかが崩れる音がした。売り場をのぞこうとすると、僕にぶつかるようにして山海が作業室へ戻ってきた。

「どうしたんですか?」

「なんでもねえよ。暗いからぶつかって散らかしちまったんだ。あとで片しておくから気にすんな」

「でも」

「いいから!」

 山海はきつい声でそういうとドーナツ椅子にどっかと座った。そして側面の窓の外に痰を吐き、目の前に広がるクリーム色の壁を親の敵かなにかのように睨んだ。少しして舌打ちすると缶コーヒーを飲み干して窓の外に投げすてた。

 この人、なんだか得体の知れない怖いところがあるな、と思いながら僕はトイレに行った。そのあと僕が戻ってくると、山海は日本酒の一升瓶を床に置き、煙草を吸いながら湯飲みで酒を飲みはじめていた。酒も湯飲みも店主のうちの台所から持ち出したのにちがいない。煙草を持つ手が側面の窓から外に出ている。煙を室内に充満させないようにしているのだろうが、何本も吸っているのでたいして効果が期待できるわけもない。作業室には埃だらけの小さな換気扇がふたつ付いていて、申し訳程度に回っていた。

 ここはなにかひと言いうべきかとも考えたが、黙っておくことにした。一週間だけのアルバイトだし、面倒はごめんだ。飲みたければ酒でも洗剤でも飲めばいい。僕は山海からもらったまだ開けていない缶コーヒーを台所の上がり框に置いたまま、作業台のうえにある粉まみれの三分間用の砂時計をみつめていた。

「なんかいいたそうだな。おまえも飲むか」

 山海はすでに両方の頬ぼねの部分を赤くしていた。

「いえ」

 僕は壁にかかっている時計をちらっとみた。アルバイトは午後五時までだった。まだ一時間半もある。すっかりぬるくなったインスタントコーヒーを飲み干しながら、先日、河原のごみ拾いのボランティアで知り合った彼女のことを考えた。このあと駅前の喫茶店で待ち合わせをしていた。

「心配するな、酒ならいつものことだ。本当なら今日は休みだしな」

 山海はつまらなそうに僕をみた。

 それからすっかりやる気が失せたのか、山海は目のまえのみえないなにかを相手にぶつぶついいながらひたすら酒を飲んでいた。僕は作業台を拭いたり、道具を片付けたりしたあと、またインスタントコーヒーを作って飲んだ。

「まったくあのじじい、人使いが荒いからな。休みの日まで働かせやがって。そのくせ自分ばっかり儲けて、夫婦そろって食事会だあ? 教団のイベントで出す茶菓の注文、丸ごと引き受けてぼろ儲けじゃねえか。そうだろう?」

 山海はだいぶ酔いが回ってきているようで、揺れながら酒を飲んでいた。

 僕は早く五時にならないかと思いながらじっとしていた。

「おい」

 山海は突然僕をみた。「おい、おまえ、聞いているのかよ。おまえはあのじじいのことをどう思っているんだ」

「え、ご主人のことですか?」

「ほかに誰がいるんだ」

「ええと……」

 僕はたいして意味のない行為だと知りつつ、また壁にかかっている時計をみた。


 出入り口の横にある、壁かけ式の電話が音を立てはじめた。途切れ途切れに鳴り続ける半ば壊れている古い電話を、ちょうどトイレから戻ってきた山海が舌打ちをしながらとった。とたんに山海の表情が役者並みの見事さで笑顔に反転した。

「こりゃどうもどうも社長」

 そういうと、山海はわざとらしい笑い声をつけたした。「大丈夫ですよ、ええなにも問題ないですから。バイトの学生さんもよう手伝ってくれますし。それよりそっちはどうなんですか? けっこう気を使ったんじゃないですか? 教祖と話はできましたかね」

 店主はご機嫌のようだった。教祖の話がたっぷり聞け、個人的にありがたいお言葉までいただいたと店主の弾んだ大声が僕のところにまで聞こえてきた。山海の持ち上げ気味の応答が梯子を昇らせることになったのか、店主はますます得意げに一方的に喋った。そしてしばらくたってからやっと用件を話した。山海と僕にみやげをもらったので、それを持たせて奥さんを先に帰らせるとのことだった。おおかたこのあと、胸の大きなお姉さんのいる店にでも理事会の面々と繰り出すつもりなのだろう。

「なるほど分かりました。こりゃみやげが楽しみだ。ところでなんですかね、そのみやげっていうのは?」

 山海は煙草をくわえようとしてやめ、店主の返事を待ったが、それがなかったので笑い声を立ててごまかした。そのあとたいして意味のない話を少しして受話器を戻すと、山海は魔法が解けたみたいに不機嫌な顔になった。

「まったくよう、なにがみやげだ。はっきりいわないところをみると、どうせ洗剤の詰め合わせかなにかだな」

「洗剤?」

「去年は石鹸のセットだったしな」

「へえ」

 山海は窓際のドーナツ椅子に戻り、煙草に火をつけた。

「でも社長もばかだよなあ。俺なら教団のネットワークを使ってもっとカネを儲けるのに。それにせっかく和菓子を大量受注しても、お布施で大金持っていかれちゃな」

「ご主人、そんなにお布施をしているんですか?」

「去年はたしか一千万近くしたって聞いたぞ」

「ええ?」

 僕はつい大声を出してしまった。

「なんだおまえ、知らないのかよ。教団の食事会に呼ばれたのだって大金を寄付しているからだぞ」

「そうだったんですか」

「大ぐちの寄付している信者だけが呼ばれるわけよ」

  山海は脚を組むと、湯呑みに少し残っている酒を飲み干した。「でもまあ、社長も教団から大量の和菓子の注文をもらっているしな」

「それなら持ちつ持たれつってわけですね」

「冗談じゃねえ。その結果、一番割りを食っているのは俺なんだよ。今日だってそうだ、本当なら休日なのに」

 側面の窓から、山海は不満のかたまりを煙草の煙にして吐き出した。

「気持ちは分かりますよ」

「ここで愚痴をいってもしょうがねえけどな」

 山海は立ち上がって一升瓶をとり、自分の湯呑みに酒を注いだ。それから僕のカップに目をやり、「それでいいよな」といいながら僕のカップにも酒を注いだ。カップは空だったが、突然酒を注がれたので驚いた。とっさのことで拒否できなかった。

「ちょっと」

「いいから四の五のいわずに飲め」

「ご主人に怒られますよ」

「おまえは知らんだろうが、この和菓子屋を牛耳っているのはかみさんなんだよ」

「そうなんですか?」

「うるさくいうのは、社長じゃなくてかみさんのほうだ」

「そういえば、昨日も奥さんが細かいことに文句つけていましたよね」

「いつものことだ」

 山海は一升瓶を床に置いた。「ま、どうでもいいけどな。ほら、カネのない者同士で乾杯だ」

「カネ? 山海さんは教団で色々とお得なことがあるんじゃないんですか?」

 山海は口の端で笑った。

「坂本君だっけか、おまえ、あんな宗教団体はやめて正解だよ。常識の通じない頭のおかしな奴がいっぱいいるからな」

「まだやめていないですけどね」

「幹部連中なんか末端信者からカネを吸い上げることしか考えていないしな。あんなものどこが宗教なんだよ」

「はあ」

「なにをやるんでも、いちいち信者からカネを徴収するし。こっちとしちゃ、なんのためにお布施をしているんだって思うわ。そのくせ、いくら集まったかまったく発表しないしな」

 山海はぐいっと酒を飲んだ。「まぬけな末端信者はそんなことも分からずに、施設警備なんかに駆り出されてただ働きよ。もっとも信者にしてみればそこに生きがいを感じるわけだ。ばかじゃねえのかって思うけどな」

 僕は黙っていた。

「うちの社長なんかみてみろ。いいように教団にあしらわれているじゃねえか」

 壁かけ式の固定電話が、再び申し訳なさそうに途切れ途切れの音を立てはじめた。山海は湯呑みを窓枠に置くと、頬をばちばちと両手で叩いた。そして「あ」とか「い」とか滑舌の具合を確認しながら受話器をとった。電話をかけてきたのはまた店主だった。


 店主は相変わらずの大声で、もうひとついい忘れたことがあるといった。

「やれやれ、あたしのことが気になってしょうがないんですか、社長?」

 山海は皮肉まじりの冗談のあとに笑い声をつけ足すのを忘れなかった。

 店主は山海の笑い声をあっさりとかわしたうえで、ここのところ忙しいのに自分ばかりいい思いをして申し訳ないから臨時金を支給するつもりだといった。はっきりとは聞きとれなかったが、僕にもいくらかくれるようなことをいった。

「またまた社長、本当ですか? ボーナスとはべつに? 洒落じゃないけど、まさに『棚からぼた餅』みたいな気もしますが、いいんですかね」

 山海の声のトーンが一段明るくなっている。

 今度は店主が笑う番だった。たいして上手いことをいっているようには思えなかったが、山海の言葉にぴんときたのか、店主は杯にぼた餅を載せておいてくれたかどうか訊いてきた。山海はごく当たりまえのように載せたとぺろっと嘘をついた。

 電話を切ると山海は台所に上がり込み、冷蔵庫から魚肉ソーセージを二本持ってきて、ひとつを僕にくれようとした。

「ほれ、食え」

「勝手にはまずいですよ、山海さん」

「いやなら食うな」

 僕が受け取らなかったので、山海は二本とも持ったまま窓際のドーナツ椅子に座り、うち一本をかじった。

 山海はしばらく呆けたような顔をしてもぐもぐと口を動かしていたが、いきなり「あ!」と叫んで僕をみた。そのとたんソーセージが喉に詰まったらしく、焦った顔を横向きにして、作業台のわきにある流しの蛇口から直接水を飲んだ。

「大丈夫ですか?」

「死ぬかと思ったぜ」

「なんですかもう」

「臨時にくれるカネって、いくらか訊くのを忘れた。しまったな」

「そのくらい、あとで訊けばいいじゃないですか」

「まあそうだよな」

 山海はにっと笑い、一本抜けている黄色い前歯の様子をみせた。

 僕は作業室の裏口のドアを開けると、きれいに拭きおわった和菓子用のプラケースの山から一度に何段かずつ抱え、外のアルミ製の物置きにそれを全部しまい込んだ。仕事はこれであらかた終わりだ。外はまだまだ明るかった。ドアは開けたままでいいと山海がいうので、そのとおりにした。

 山海は酒に飽きたのか腰を上げると、寸胴の中身を大鍋に移しかえ、砂糖を混ぜて煮ながらときおり塩を入れて餡の具合をみた。

「それにしてもなんだな、社長もあれで苦労人だから被雇用者の気持ちをよく分かっているよなあ。それとも教団からなにかいわれたのかな。どう思うよ」

「臨時金って、本当にボーナスとは違うんですかね」

「当たりまえだ。ボーナスはべつだ。もっともボーナスはおまえには関係ない話だよなあ」

 山海はまた一本ない前歯をみせてへらへら笑った。

「ああそうですかね」

 僕は一瞬、奴の前歯の抜けている部分に吊り棚の花を一本差し込んでやりたい気分になった。

「そんなにがっかりするなよ。いくらだか知らんが、臨時金はおまえにも少しやるって社長がいっていたぞ」

 僕は黙っていた。

 山海はにやにやしながら大鍋から灰汁をすくいとった。

「いやあ、でもよう、こういうことはさ、まえもっていっておいてくれないと困るよなあ。仕事に対するって奴にも影響するしよ」

「どうせたいした額じゃないでしょ」

「おいおい、つまらないこというもんじゃないぞ」

 山海は火力を調節して大鍋に蓋をすると、窓際のドーナツ椅子に座って煙草に火をつけた。

 そこへ、またまた電話が鳴った。山海があごを振って僕に電話に出るよう促した。どうせ今度も店主だろうと思いつつ、僕は受話器を取った。いきなり店主のご機嫌な甲高い声が耳に突きささった。本部の食事会に招待されることがそんなに嬉しいのだろうか。なるほど、お布施だかなんだか知らないが大金をあっさり差し出すわけだ。

 店主は電話に出たのが僕だと分かると、いささか落ち着いた感じになった。

「坂本君かい、どうだい仕事は?」

「おかげさまで。山海さんにかわりましょうか?」

「面倒だからかわらなくていいよ。ただちょっと伝えておいてくれればいいから」

「分かりました」

 僕はそれからしばらくの間、店主の話を聞いて電話を切った。


 餡がいい具合に煮えているにもかかわらず、山海は動かなかった。ドーナツ椅子に腰を下ろしたままむすっとしていた。僕が伝えた店主の話を頭のなかで反芻し、どこかに自分にとって得になるところがないか確かめているのに違いない。手に持っている煙草の灰が落ちそうだった。

「煙草の灰が落ちますよ」

 僕は手にしているカップの酒に口をつけたことを後悔しつつ山海をみた。

 山海は煙草の灰を窓の外に落とした。

「臨時金を出すって、そういうことだったのか」

「ご主人のいっていたことですか? まあ今月の休みはないっていっても、あと二週間とちょっとじゃないですか」

「冗談じゃないぜ。労働なんとか法の違反じゃないのか?」

「それから山海さんが気にしていた臨時金の額ですが、これだそうですよ」

 僕は人差し指を立てた。

 山海は一瞬、僕の指につられて天井に目を向けそうになった。

「なんだ?」

「一万円ですよ」

「それだけかよ」

「はい」

「それはおまえの分だろう?」

「山海さんの分ですよ。そういっていました」

「こっちはここのところ休日潰して出てきてんだぜ。それが一万かよ」

「でも給金とはべつですし」

 僕の言葉に山海は舌打ちで返した。

 窓枠に置いてある山海のガラケーが鳴りだした。

 山海は煙草を窓の外に投げすて、二つ折りのガラケーをぱかっと広げた。そして画面をみて相手を確認すると、禍々しいものでもみるような顔つきですぐに電話を切った。負けずにまた電話が鳴りだした。ぶつぶついいながら山海はまたガラケーを広げた。

「うるせえ!」

 山海はいい終わらないうちに電話を切った。

 台所の向こうで人の気配がした。女の声が聞こえた。どうやら奥さんが帰ってきたらしい。足音が近づいてきた。やがて年齢に不釣り合いな水色の地に派手な花柄の着物をきている肥えた奥さんが台所から顔をのぞかせた。奥さんは作業室をみると、不快な顔をした。

「ちょっと山海さん、あんたまた飲んでいるの?」

「今日は休みみたいなもんだし、べつにかまわんでしょう」

「あんたねえ」

「だってこのまえも、ちゃんとやっておけば問題ないっていっていたじゃないの」

「なにいってんだい」

「それより、食事会はどうだったんですかね。社長の話だとなにやらみやげがあるとか」

 山海は猿でもわかるような薄っぺらな作り笑いをした。

 奥さんは改めて作業室をみまわした。

「うちの亭主の知り合いだかなんだか知らないけど、まったくもう」

「なんのことです?」

「あまり半端なことばかりしていると首にするよ」

 山海が笑いだした。

「まあまあそんなに怒らんで下さいな。また太りますよ」

「なんだって?」

「いや、べつに」

「あたしゃね、この際だからいうけど、あんたが前々から嫌いだったんだ。きったない格好をしてふらっと現れて。同じ教団の信者だっていうからお情けで雇ってやったのに、それを」

「いやあ、感謝しています」

「とてもそんなふうにはみえないよ」

「でもおかみさん、功徳を積む機会を与えてもらってこっちこそありがたいっていっていたじゃないの」

「ふざけんじゃないよ、誰があんたみたいなこじきに」

「こじき?」

「こじきじゃないか。こじきで悪けりゃ貧乏神か」

「ひどいいいようですな」

「毎日毎日うちの亭主がなにもいわないのをいいことに半端仕事ばっかりして」

「なんですか、急に? 食事会で面白くないことでもあったんですかね」

「ああもういい。今日限りで出ていっとくれ。あんたの顔みるだけでこっちは寿命が縮まるよ」

「臨時金は? それにボーナスもすぐじゃないですか」

「だからそのまえにさっさと辞めとくれっていってんのさ。あんたみたいな人間に払うカネなんてあるわけないだろう」

 さすがの山海も押し黙った。

「あんたがいなくなるだけですっとするよ。ほれもういいから」

 奥さんは手で追い払う仕草をした。「後はもういいから、着替えてくるあいだに消えとくれ」

 まさかこんな展開になるとは思わなかった。すでに午後5時は過ぎているが、帰り支度ができる雰囲気じゃない。室内の空気が刺々しかった。山海はくしゃくしゃになったスポーツ紙を広げて顔を隠すようにのぞき込んだ。ポーズなのは間違いない。酔いで赤くなった手が強張っていた。

「なにがボーナスだい、図々しい」

 吐き捨てるようにそういうと、奥さんの目がすうっと細くなった。「貧乏人が」

 山海は黙ったまままったく動かなかった。

「カネカネって、本当に欲深い男だよ」

 奥さんはぶつぶついいながら台所の向こうに消えた。


 山海はばさばさっと音を立ててスポーツ紙を畳み、作業台の上に投げた。それから一升瓶をとり湯呑みに酒を注ぐと、「んぐう」と唸るような声を出して酒をひと息に飲み干した。目に幕がかかったようになった。

「さあて仕事すっかな」

 山海はげっぷをした。ふらりと立ち上がると、大鍋のまえまで行き、蓋をとった。泡を立てながらぐつぐつと餡が煮えている。僕はその様子を少し離れたところからぼうっとみていた。

「おい、ちょっと来い」

 山海はヘラ棒を手に取った。

「あのう、このあと用事があるので、できれば今日はもう帰らせてもらいたいんですけど」

「いいから来い」

 次の瞬間だった。山海はなんのためらいもなく鍋のなかに痰を吐いた。粘り気があって少し緑がかった灰色のそれが、山海の回すヘラ棒によってたちまち餡のなかに練り込まれていった。僕は目のまえのできごとが信じられなかった。

「ついでだ」

 山海は鍋のなかに唾も吐いた。

「ええと、その……」

「おまえも吐け」

 山海は僕の背中を押した。

「は?」

「ほら、唾を吐け。早くしないとあのメス豚が戻って来るぞ」

「なにいっているんですか」

 山海は僕の顔に自分の顔を寄せ、上目づかいに僕をみた。

「おまえも酒飲んだろうが。いいのかよ」

「そんなあ」

「タイムカードも押させたくせに。いいのか?」

「だってあれは……」

「あれは、なんだ?」

「いやべつに」

「誰がフォローしてやったんだ? おまえ、分かってんだろう?」

 山海はまた僕の背中を押した。「ほれ」

「ちょっと待って下さいよ」

 山海のことだから拒否するとあとでなにをされるか分からない。どうしよう。ぐつぐつと音を立てている餡に僕は目をやった。

 やがて台所の向こうから足音が近づいてきた。






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