プロトタイプ

Hoshimi Akari 星廻 蒼灯

プロトタイプ

 地下鉄の電車の中は、薄暗く、雨天の湿った空気で淀んでいた。

 座席の脇に立って手すりを握っている人の、反対側の手に握られた傘、そこから滴る雨粒……座席に座る人たちが持つ幾つもの濡れた傘……そこから、雨は車内に忍び込んでいた。

 単調で規則的なリズムを刻んで、電車は進んでいる。このまま永遠に同じリズムが刻まれて、電車が永遠に走り続けても、誰も気づかないんじゃないかと僕は思った。

 今日と明日に違いはない。昨日と今日に違いはない。電車が次の駅につかなくても、たとえ毎日に変化が訪れなくても、この電車の乗客たちは気にせず地下の薄暗い線路の上を、同じ姿勢で固まったまま見過ごしていくのではないかと思った。

 車内の電気が突然に落ちた。辺りは文字通りの真っ暗闇になり、何人かの口から小さな悲鳴が上がった。停電したのだ。

 電車は緩やかに速度を落としていく。携帯電話の液晶やライトを使って辺りを照らそうとする人が現れるが、それでも辺りは黒いインク瓶の中身のような暗闇だった。

 僕は天井を見上げた。自分の体の位置がつかめないので、ちゃんと頭が上を向いているかどうかよく分からない、不思議な感覚だった。平衡感覚がつかめず倒れそうになってしまい、少し慌てた。重心を取ろうと両腕を広げた瞬間、車内に電気の光が戻ってきた。

 電車も再び元の速度へ近づきながら運転を始めた。ただ、車内には、僕以外の人がいなくなっていた。

 車内の照明が、チカチカとまたたいて、それからもとの明るさへ戻った。

 僕は辺りを見回した。さっきまでここには人がいたはずだった。信じられない思いで、しばらく固まってしまった。それから辺りに手を伸ばしてみたり、座席の上に手を置いてみたりして、本当に人が誰もいなくなっていることを確かめた。不気味で、空いた座席に腰かけることはできなかった。

 電気がついたときのように突然、種明かしが起こるんじゃないかと期待して、僕はしばらく黙って立っていた。何も起こらないことが分かって、今度は隣の車両へと歩いていった。扉越しに向こうを覗いたが、隣の車両にも人はいなくなっていた。さらに反対側の車両も見に行ったが、同じだった。

 僕はようやく恐怖と不安を感じはじめた。いったい何が起こったのだろう。一番まともな答えは、僕の頭がおかしくなったのだろうというものだった。もとから、この電車には誰も乗っていなかったのだ。それを、僕は自分以外の人達も乗っていたのだと思い込んでいた。それが、突然の停電で僕の見ていた幻覚は消え去り、乗客が僕一人だけのこの電車の本当の風景が戻ってきた。

 おかしかった僕の頭が、まともに戻ったという方がいいか。ありもしないものをあったと思い込むことは、過去の記憶に関して言えば、全く起こりえないことじゃない。眠っている時に夢の中で見た出来事を、実際に起こったことだと勘違いしてしまうことは、よくあった。

 とりあえず、電光掲示板でこの電車の行き先を確かめた。

 少なくともあと数分で、次の駅へ到着するはずだった。電光掲示板に流れている駅名を眺めながら、ふとおかしなことに気がついた。そういえば、どうして僕はこの電車に乗っていたんだろうか。見覚えのない行先の駅名と、終着駅の表示が、目の前にあった。携帯電話を取り出して、地図アプリを開いた。どこかに向おうとしていたのなら、経路検索の履歴が残っていたかもしれない。しかし、しばらく操作していなかったためか、アプリはタイムアウトして最初の画面に戻っていた。

 やがて電車は駅へ着いた。通り過ぎることもなく、速度を落とし、ホームへ到着した。僕は電車を降りた。左右を見渡して他の乗客が降りるのを確かめようとするが、誰の姿も見かけなかった。それどころか、ホームにさえ人の姿は見当たらなかった。僕は時計を確かめた。自分が間違って深夜の回送列車に乗っていたのではないかと思ったからだ。アナログの時計は2時を指していたが、午後か午前か分からなかった。携帯電話で時間を確認すると、14時という風に表示されていた。

 ホームへ出て、そのままエスカレーターを昇った。エスカレーターは動いていた。電車も、降りてから少し経つと、再び扉を閉じて次の駅へ向かって動き出した。電車の発車を伝えるアナウンスが流れている。それ以外に人の声は聞こえない。

 駅の構内は無人だった。改札口に隣接した窓口にも駅員の姿一つない。電気はついていた。改札も機能していた。僕はポケットから定期券を取り出して清算しようとした。チャージされていた分で料金は足りていたのでそのまま改札を通った。

 いったいこんな時、どんな表情をすればいいのだろう。誰も僕を見ていないこんな時に。

 地下鉄の構内に、僕の足音だけが響いていた。僕は微笑んだ。何かがおかしかったのか、それとも気が狂いそうになるのを必死に抑えようとして浮かんだ笑いだったのか、分からなかった。何にせよ、無人の駅に僕の微笑みを目撃する他人はいなかった。

 そしてから、地上に出た。僕の驚きは、電車の中から人が消え去った時の比ではなかった。数年前に起きた大災害の時、出かけ先で一晩を明かし、どうにか帰ろうと向かった駅の備え付けの掲示板に映っていたニュースを見た時のことを思い出した。まるで映画のようなその出来事は、”Catastrophe”という英語を僕に連想させた。生涯使うことは無いだろうと思っていた”Catastrophe”という単語を、僕はそのとき初めて口にした。

 地上の建物は見渡す限りどれも倒壊し、辺りは焼け野原だった。コンクリートの破片や原型をとどめていない何かの残骸が、舗装の砕けた地面の上にバラバラと転がっている。

 僕はゆっくりと、廃墟になった街の中を歩き出した。今や焦って事態を飲み込もうとする必要はなかった。人の気配は全くしなかった。人がいなくなると、世界はこんなにも静かになるのかと僕は思った。

 いったい誰が、こんなことをしたんだろう。いったい、〝何〟が……。

 僕は、本当に人がいなくなったのかどうかを疑った。もしかしたらどこかに紛れて立っていて、ひょっこり僕の視界に入るなんてことがあるんじゃないかと想像した。誰か、ここで起こったことを説明できる誰かを見つけたかった。

 しかし、僕が見つけたのは人ではなく、これまで見たこともないような奇妙な物体だった。

 〝それ〟は、倒壊した建物のコンクリートの陰から突然僕の視界に現れた。

 四角形……三重、四重と内側に同じ形を描いて、一つの頂点を地面に、一つの頂点を天に向けた正四角形の物体だった。

 青や紅、黄色などの原色で彩られたそれは、空中に浮かんでいた。僕の頭と大体同じくらいの高さにいた。僕は、今度こそ声を上げて笑い出してしまった。自分では必死に抗おうとしたが、それが心のタガが外れた時に人が漏らす笑い声だと分かった。

 走って逃げだした。その正体不明の物体が浮かんでいた場所からできるだけ遠くに行こうとして走った。しばらくの間走り続けてから、息が切れた僕はようやく足を止めた。途中でまたあの物体と似たようなものに出くわすことはなかった。

 あれは何だったんだろう。地下鉄から人が消え去ったことよりも、地上が荒野に変わったことよりも、あの物体の存在の方が遥かに強い恐怖を僕に与えた。害を与えるような何かには見えなかった。しかし無人の駅や倒壊した街とは違って、それは説明や理解を頑として拒むような何かでできていた。

 ここはどこだろう。

 僕は近くにあった瓦礫の上に腰を下ろした。そして、肩でする荒い呼吸を少しずつ鎮めながら、寝そべって空を見上げた。

 空だけは、変わらずに在った。昨日の空ともずっと昔の空とも変わっていない。

 僕はこれからどうしていけばいいんだろう。どうして世界はこんな風になったんだろうか。その答えはどこで見つかるんだろう。

 考えようとして、やめた。考えることは、今まで飽きるほどしてきた。今はただこうして寝そべって、誰もいない焼け野原の中で空を見上げていたかった。

 澄んだ空気が心地いい。少し眠たかった。

 僕は空を見上げ続けた。まるで誰かがそこにいたかのように感じた。

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プロトタイプ Hoshimi Akari 星廻 蒼灯 @jan_ford

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