第2話 何物でもない何か
失望は、唐突にやってくる。
いつものように、青葉が仕事を終えて帰る頃には、午後七時を回っていた。定時は五時半のはずだ。しかし、新米の青葉にはやるべき仕事が両手から溢れ出しそうなほどたくさんある。そして、その仕事は全部大切なものだから手を抜いてなんかいられない。
もちろん、定時で帰れないのは青葉だけではなかった。青葉と同期の桐谷や伊津(こっちは呼吸器内科だ)も、自分の両手から溢れ出しそうな仕事に四苦八苦していた。
「俺も新人の頃は真面目に残業してたな」
そう振り返ったのは、医局で青葉のデスクの隣の赤坂千逸だ。赤坂は外科医で、その若さからは想像できない技術を持っており、天才外科医などと言われている。一時期ドラマなどで医療モノが流行った時、赤坂に出演依頼がかかったと言う噂は、ここ、椿原総合病院の中だけでなく、全国的に広がりを見せていた。才色兼備――きっと、そういう言葉が似合うのであろう。青葉から見た赤坂は、誰にも文句の言いようがない整った顔立ちをしている。しかし、本人はそんな評価を気にするでもなく、黙々と自分の仕事をこなす。その様が、まだ駆け出しの青葉から見ても好印象だった。天才だって、仕事は青葉と同じか、それよりもっと多いはずだ。赤坂は、青葉より何倍もの患者を抱えているのだ。
「最近は宿直してると変な死体がいっぱい来るから嫌なんだよ」
「変な死体?」
「そう。なんでも最近の連続殺人の被害者? らしいんだけど、お前、知らねえ?」
「何をですか?」
「死体の状態。なんか、とりあえず変なんだよな。死体がオカシイって言うか。でもウチ今DOA当番だし、救急断れねえし、警察の奴らには解剖してくれって言われるし」
めんどくさいんだよ、と、赤坂が小さく舌打ちをした。
赤坂の言う、「変」という言葉が引っかかるが、青葉は「そうなんですか」と神妙な顔をして頷く外なかった。天才が変だと言うのだから、変なんだろう。――この時青葉は、その変な事件に巻き込まれるなんて予想だにしていなかった。
「じゃ、俺帰るわ。残り頑張れ」
「はい! お疲れ様です」
型にはまった挨拶をする青葉に、手をひらひらさせて応じた赤坂が居なくなってしまうと、話し相手が居なくなったこともあって医局はしんとしたものになった。日中は、絶えず電話がなったり居眠りの口実を探している医師たちがいたりしてそこそこ賑やかなので、医局に一人きり、と言うものにはいくら経っても慣れることは無い。同期達は病棟に居るのだろう。フロアを見渡してみると、荷物だけが無造作に残されている。
――確か、この前も。一人になると、赤坂の言う「変」が気になってくる。前回の宿直の時に送られてきた死体は、そして、毎日お茶の間のニュースで流れている連続殺人は――いや、自分には関係ないはずだ。青葉はかぶりを振って今自分の仕事に集中することにした。定時の五時半は、とうの昔に過ぎていた。
そして、冒頭に戻る。
いつも通り、アパートに帰って来た青葉は、毎度の如く鍵を探していた。
その時である。
隣の――百々の部屋のドアが開き、一人の青年が吐き出されるようにして出てきた。
青葉はどきりとした。百々の部屋からは、物音さえすれど人が出入りするのを見たことがなかったからだ。
本当のところ、百々はここに住んでいないのではないか、とすら青葉は考えていた。誰かが百々の名前を使ってこのアパートに入っているのではないか、と。百々の名前を使えば、どんなところだって入居を許可してくれるだろう。多分。大学時代から勉強に必死だった青葉は幾ばくか世間に疎い。あの百々を知らない、という人間が存在するのを知ったのも最近のことだ。百々は医師界では名高かったが、世間は医師界にはそんなに興味がないようだった。
「こんばんは」
目が合った。部屋から出てきた青年が一言、言う。静かだけどどこか凛と通った声だ。似ている、と、思った。その声は学会で自分の研究内容を淡々と発表する、百々の声によく似ていた。自信のある、厳格な響きさえそこには見受けられる。顔は――暗くてあまり見えなかったが、そんなに似ているような気はしない。兄弟それぞれ、父母どちらかに傾いたのだろう。
「大鷹の弟の、大鳳です。いつも兄がお世話になっています。」
「いえ、世話なんて」
「これからもお世話になることがあると思いますが、よろしくお願いします」
弟、と名乗った大鳳は軽く頭を下げ、「では」と言って早々に青葉の脇をすり抜けて出て行ってしまった。やはりここは、百々大鷹が住んでいるのだ、と思うとくらりと目眩がした。
そんなに広くない、陽当たりがいいだけのワンルームである。百々くらいならもっといい部屋に入れるだろうに。それもこんな田舎ではなく、もっと都会に住めばいいのに。手が届く距離にいるからこそ、こんなことを考えるのだろうな、と、青葉は思う。和歌山に留まる理由なんて、仕事以外ならあまり無いような気すらするのだ。やっぱり医師を辞めてしまったんだ――青葉は少しだけ、失望する。あまりに突然だったから、失望、というより残念だ、という気持ちの方が強かった。
直接会ったことはまだないが、大鳳の言葉から察するに、百々は以前とは違った状態なのだろうか。身体でも壊していたら……いや、わからない。隣のドアはしっかりと閉じられていて、物音ひとつしない。
それにしても、大鷹の弟は大鳳と、煌びやかな名前が続く。確か百々の父親は、大鯨という名前だったと思う。百々大鯨も、名高い医師だった。確か精神科に明るかった気がする。
なぜこんなことばかり覚えているのかと問われると、青葉は百々のことを崇拝対象のように思っていたからだ。先にも述べた通り、医師を目指したのは百々の存在が大きい。だからこそ、今医師と名乗れるようになったことが少し誇らしかった。もう医師でない百々とも、仕事を共にしてみたいと思っていたが。彼は定年までまだまだあるだろうはずだから。
百々が行動を始めたのは、その晩からだった。
がたん、と乱暴にドアを閉める音で、青葉は目覚めた。時計を見る。なんだ、まだ、夜中の三時じゃないか。そう思って、青葉は自分を起こした物音を呪った。
……しかし、今までこんなことは無かった。四月からここに住み始めて、一度も。それに、百々が越して来たのは最近じゃないか。ハッとする。今音を立てたのは、その音の大きさからして隣のものだろう。耳をすませると、靴の音がした。乱暴に靴を履くような音だ。
隣は、百々しかいないはずだ。百々の部屋とは反対側の部屋が無人だということは確認済だ。百々が、外出している? しかも、こんな時間に? 青葉は不審に思いながらも、眠りの淵に呑み込まれていった。がちゃんと、乱暴に施錠される音だけが青葉の意識の最後に聞こえた。
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