祝福のダンデライオン
12521
第1話 春は、残酷にやってくる
嘘だろ、と、咄嗟に思う。
長い長い夜勤が終わって、青葉延時は自分のアパートに帰って来た。ようやく、とも言える。今日の夜勤はハードだった。急変が三つと、あと外来が一件。外来の一件は最近ニュースに挙がりはじめた連続殺人のものだろう。もう病院に来た時には、息は無かった。
疲れた。身体は一刻も早いエネルギー補給と、睡眠を欲している。そんななか、青葉は何気なく隣の部屋の表札を見て唖然とした。
存在していないはずの名前が、そこにある。いや、訂正しよう。存在してはいけないはずの名前、が、そこにある。
青葉は、長かった研修医時代を乗り切り、この四月からここ、椿原総合病院に採用になった、いわゆる新人である。和歌山県椿原市は元の人口に加えて若者が集まってきており、これからの発展が見込まれていると言っても過言ではないだろう中核都市である。
椿原総合病院はそんな発展途上の地に身を置いており、地域密着型とも言えるスタイルで県下でも一二を争う病院だ。ベッド数は五百余。地域の病院としては大きいと言えるが、他府県に比べるとちっぽけなものである。それに少しばかり規模が大きいもので、ひなびた田舎には余計大きく見えるものだった。総合病院と謳っているため、外科はもちろん、診療科は多い方だと言っていいだろう。その中でも、救急対応については二十四時間受け付けるなど、病院としても意欲的に取り組んでいるようだ。なんでも、病院の成績を支えているのは、救急救命と整形外科、神経内科だと言う。
そんな神経内科医として、新しく入ってきたのが青葉だ。医師の同期は全科を合わせて数十名で、今年は例年に比べて少ないねと院長がぽつりと零したのが印象的だった。
しかし、今までの医者数が足りずに患者にロクに手が回らなかったのだと愚痴混じりの言葉を吐いたのは前年度で辞めた神経内科医だった。和歌山県は、全国的に見ても神経難病患者が多いことで有名である。荷物をまとめに来たのだと言う年配の医師は、最前線から退き余生を楽しむのだと晴れ晴れと語った。「まあ頑張ってよ。」手をぽんと肩に乗せられ、青葉はぎこちなく微笑んだ。
数人しかいなかった貴重な神経内科医に、また一人新しい医者が入ってくる。噂は、瞬時に駆け抜け広がり、青葉が入職する前に幾ばくか話題になっていた様子だったようだ。何せ病院は女社会。すぐに噂などは広まるものだ。そんな中に、ひとり入っていくのは躊躇われた。しかし、そうも言っていられない。どうせ他の科でも一緒だ。青葉が入職してから数か月が経って、やっと好奇の目から逃れられようとしている。
話を元に戻そう。
青葉は見つけてしまった。自身のアパートの隣の部屋――一週間前には誰も入っていなかったはずだ――には、青葉のよく知った名前が貼り出されていた。
「百々大鷹」
何度も見た。学会でも、教科書でも、参考文献でも、あとついでに夢でも。それはとろりと溶けて青葉の心をやわらかく包むみたいな、緩衝材のような響きだった。あくまでも、青葉にとっては、である。百々、大鷹。青葉は明け方に飲んだコーヒーのせいで苦くなってしまった口の中で転がすように名前を読み上げる。間違いない。これは、あの人だ。同姓同名などないだろう。だって、幼くして彼を憧れ溺れたネットの海では、個人の名前ばかりが浮き上がり、他人の選択肢などを許さなかったのだから。
彼は十数年ほど前から、青葉の憧れであり続けた。
百々大鷹。神経内科の祖として、今も研究を続ける一人。彼の残した偉業は今でもテキスト上で学生相手に輝いている。それは栄光だった。青葉はそこに雷名を見た。そして、それよりなにより、百々は抜群に神経内科の患者を診るのが上手かった。神経難病の患者は、そのキャラが濃いことでも有名だ。しかしそんなアクの強い患者の状態を的確に見極め、適切な処置をとる、他の医師が匙を投げるなか、百々はいつだって神経難病患者の期待の星でもあった。――と、ウィキペディアには、そんなことも載っている。(なんと彼はウィキペディアに載るほどの人間なのだ!)
しかし、それは表向きに、である。
青葉の記憶に間違いがなければ、百々は五年ほど前に薬物所持で逮捕されている。その時に医師免許も剥奪されていたはずだ。それを知った時、土砂降りのような失意と絶望が青葉を襲った。なんで、どうして、あんなに信じていたのに、と。裏切られたようで、青葉はどうしようもなく大きなため息をついたのを覚えている。
だって、青葉が憧れて医師を目指したのは、百々が医師界に居たからなのだ。
失望したのは、青葉が百々のことをファンのように慕っていたからかもしれない。いや、今も、憧れ続けている。だから尚のこと、たちが悪い。
これが、「存在してはいけない名前」の理由だ。
青葉は内心、焦っていた。もし今ここでばったり出会ってしまったら? 挨拶だけでは済まない気がする。きっと自分はうまくこの場を切り抜けることは出来ない。何せ相手は百々大鷹なのだ。憧れのひとなのだ。夜勤明けの今だから、という理由もある。そんなことを考えて、青葉は必死で家の鍵を探す。しかしこんな時に限って青葉を嘲笑うようにかばんは中身をただかき混ぜた。ああもう鬱陶しい。全部ぶちまけてしまおうか。そんなことを考えていると、恐れていたことが起こった。
隣の家のドアが音を立てたのだ。
これはいけない、と、青葉は慌てて鍵を探す。鈴付きの鍵が――あった。やっと見つけた。青葉はこれまたせわしない動作で鍵を開け、隣人と顔を合わすことなく自分の部屋に滑り込んだ。
***
「――っていうことがあったんですよ」
いつもと同じ昼下がりである。青葉は同期の桐谷(彼は消化器外科だ)と遅めの昼食を摂っていた。
「へえ、と言うことは、百々先生出所したってこと?」
「出所……」
「出所でしょ。間違いなく。」
桐谷はすました顔でそう易々と言ってのけた。「出所」という名詞に戸惑いを隠せない青葉に、桐谷は笑う。
「色々考えるだろうけど、それは延時が考えすぎな気がするな。考えすぎ、っていうか、意識しすぎ?」
「うーん、確かに『出所』に抵抗はあるかもしれない」
箸を放り出して唸る青葉に、桐谷は笑う。
「いいじゃん、憧れのセンセイが隣で」
言い終わるか否かというところで、桐谷のPHSが鳴った。「すぐ行きます」の言葉と同時に通話を切った桐谷は、「ごめん、またな!」と後片づけもそこそこに食堂を出て行ってしまった。
出所、かあ。と青葉は思う。確かに薬物所持の執行猶予は五年だから、計算は合っている。しかし医師免許を剥奪されている百々がまた医師界に戻ってくるとは考え難かった。――あんなに尊敬していたのに。されていたのに。「栄光」そのものだったのに。青葉はただただそんなことを勝手に思う。彼に憧れて身を投げたこの世界にもう百々は帰ってくることはないのだ。
昼下がりのこの時間帯、食堂は閑散としている。つけっぱなされたテレビが、連続殺人の解説をしていて、それに見入っていた青葉は、自分のPHSが鳴っていることに数秒遅れて気が付いた。医局の点呼だった。そんな時に、ああ、自分は医師として働いているのだな、と、感慨深くなって、青葉はのらりくらりと冷めたパスタを口に運んだ。まるで粘土でも食べているような感覚だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます