13日目、14日目

 ──なぜ売春し始めたのですか?

「幼少期のころ、面白くて虫を潰していたんです。初めは蟻や、カマキリといった小さな虫でした。それが小学、中学と上がるにつれ、カマキリからカブトムシへ、カブトムシから子猫へと小動物に対象が移っていきました...あの苦しんでいる小動物を見ると、自分の欠けた部分が満たされるようですっきりしたんです。

 ところが15の頃に売春を始めて以来、その悪癖がぱったりと止んだんです」


 もちろん上記の話は筆者の嘘である。実際には売春をした理由や動機など一切ない。なんとなく売春をしてハマったというのが実情だ。

 わざわざわたしがこんな嘘を書いたのは、ゲイの青少年が売春するという理解しがたい事実に根拠を見いだそうとするなら、この嘘がいかにももっともらしく見えるからである。

 何が言いたいかと言えば、これらによってわたしは精神科医の条件を示せるように思える。精神科医を精神科医たらしめているものとは何か?

 一つには全ての行為への根拠付けであり、また一つには警察や審判のように、ルールの番人であるということである。

 だから福良のようにこういう質問をされると医者は精神医学と人間の理解しがたさとの間に挟まり身動きがとれなくなる。

 13日目の夕方、診察室に呼ばれた福良は新川医師の前でうつ病についての考え方を披露しているところだ。そして18の頃からうつ病にかかりもう数年も経つのに、新川医師の言い分も聞き出された薬も飲んでいるのに、なぜ治らないのかと質問している。

「福良さん、あなたはうつ病ではなくうつ状態なんですよ」

「でも先生、この前の診断ではうつ病と言ったじゃないですか」

「それは自殺未遂を行ったからです。けれどうつ状態とうつ病は違うんですよ。抗うつ薬が効かないと仰っているのも...」

「じゃあ、抗うつ薬が効かないのはおれがうつ病ではなく単なるうつ状態だからってことですか?」

 新川医師は「そうなりますね」と小声で言った。うつ病とうつ状態とを区別するDSM-5やICD-11に則って発言する場合、こういう他ないのである。

 一方福良は絶望的な気持ちになる。うつ病とうつ状態、これは一体どう違うのか?では今まで出されていた抗うつ薬はなんの意味があるのか?精神科医が言えば白が黒に、うつ病がうつ状態になるのか?

「でもおれはうつ病ですよ、さっき言ったように自殺願望をずっと持っていて、こんなに苦しんでいるのに」

 福良があくまでもうつ病にこだわったのは、今までうつ病だと思い、それに慣れ親しんですらいたからである。

 こんなに死にたいと思って苦しんでいるのに、なぜ助けてくれないのか?なぜ今更突き放すような真似をするのか?医者のくせにうつ病一つ治せず、薬だけ出してなにが医者なものか!

 ここまでくると坊主憎けりゃというやつである。問題はうつ病だったのだが、今や裏切られたという気持ちから医者への憎しみに変わってしまった。

「自殺未遂を図ったのは、福良さんが親御さんを亡くされた反動でしょう?」

「いえ、全くそんなことは関係ないですよ!そのパソコンでおれが自殺未遂を図ったときの時期を調べてくださいよ、親が亡くなった時と自殺未遂を起こしたときと、全く時期が違うんですよ!」

「しかし、何の原因もなく自殺する人なんていないんですよ。福良さんが自殺未遂を行った時期と親御さんを亡くされた時期とが違っていても、なにか原因はあったはずです」

 言われてみて福良は自殺未遂を起こした時のことを努めて思い出そうとしたが、どんな原因も発見できそうに無かった。依存性が親の死といった外的要因と関係がない“なにか”によって起こったのと同じく、自殺未遂も親の死と関係のない“なにか”によってふと自殺したくなったように思えた。

 むしろ自殺未遂したとき、福良は心地の良い満足感すら覚えていた。そう、自殺(自殺未遂)と自殺願望、これには全く関係がなかった。

「いえ、全く原因なんかありません。おれが自殺未遂したとき、笑ってさえいました」

「そんなことはありません。何かしら原因はあるはずです」

 この問答は結局堂々巡りになってしまう。精神科医は精神医学の法に則って自殺未遂の原因を探ろうとするし、福良にはそれが思い当たらないのだから。

 この質問に対して新川医師は黙ってしまった。長い沈黙のあと、やっと看護師が診察時間の終わりを告げた。

 福良の質問の意図はうつ病とうつ状態の区別がどこにあるのか?ということだ。自殺未遂したからうつ病で、自殺願望をもっている今の状態がうつ病ではないとはどういうことなのか?

 新川医師の沈黙はそれへの答えを意味していた。つまり精神科医としては是非とも自殺未遂をうつ病と認めなくてはならないのだが、そこになんの原因も見出せないとき、マニュアルに書かれていないことは答えることができない。科学と人間の理由の付けられない不思議さとの間に板挟みになる他ないのである。

 なんの根拠もなくふと自殺したりふと蒸発する人間というのは確かに存在する。家に帰れば妻が待っており、会社でも普通に働いているサラリーマンが蒸発してそれっきり行方をくらます...という事件は60年代や70年代にいっとき流行ったが、そのケースだけでも充分だ。

 冒頭の考えに戻れば、精神科医はDSMやICDといった診断基準に則って行為の原因や根拠を探っているのだが、福良のように「自殺未遂したときにむしろ笑ってすらいた」という人物に出会ったとき、それは精神医学のマニュアルに載っていないため沈黙するほかないのである。


 看護師に呼ばれた海藤はパイプ椅子に座るなり「最近食事を摂っていないようですが?」と質問された。

 海藤は看護師や医者を信用していないのでロクちゃんのオナニーの件について話す気にはなれなかった。そもそも、話しても理解されないように思われた。

 新川医師はイライラとして足を小刻みに揺らしながら、「どうですか?一般病棟の方は?」

「普通です」

「そうですか...ああ、抗うつ薬を増量しておきます」

 福良が精神科医に裏切られたとすら思い反感を持ったのは、医者なんだから病気を治してくれるだろうという信頼感──精神医学、科学に対する信頼感──があったからだ。

 今の海藤のように初めから医者を信用していなければ、裏切られることすら無い。

 海藤は食欲の無さという理由から抗うつ薬の増量を貰い、福良は抗うつ薬が効かないという理由からうつ状態という診断名を貰った。

 対比的な2人に共通するのは互いに新たな誤解を貰ったということである。


 竹宮は診察室に入るなり「自分は頭が悪い馬鹿なんでしょうか?」と尋ねた。

 どんな観点からも「お前は馬鹿だ」と言うことはできないため、新川医師は発達障害に対してのマニュアル通りの発言をせざるを得ない。

 竹宮の悩みが自分自身の基準がもてないというのはもう述べた。この質問によってもう一歩進むとするなら、竹宮は三人称的な解決法を欲していると言える。

 つまり一人称的にも(竹宮は竹宮自身の答えによってはこの迷路から抜け出せない)、二人称的にも(友人や親による竹宮個人に対する答え)、満足できず、三人称的(医者や神といった客体的な他人)な答えを欲している。

 しかし、その答えは誰にも出せないのだ。

「自分の悩みは分かっているんです。どうすればいいのかも。なぜ入院しているのかも。ただ、答えてくださいよ、もし先生が自分のことを馬鹿だと言ってくれれば、自分はそれが受け入れられる気がするんです」

 では、仮にもし新川医師が「そうです、あなたは頭が悪い馬鹿なんですよ」と言えば、竹宮は納得しただろうか?

 否。AAの神の教義を福良が受け入れられないように、竹宮も受け入れられないだろう。彼の悩みはではどこからが馬鹿で、どこまでが馬鹿ではないのか?というふうに続くだけだろう。

 けれど、もし覚えておられるならば、海藤が閉鎖病棟のときにしたIQ検査によって三人称的な答えは出せるのではないか?

 現にわたしは竹宮が精神病院に入院した時のIQ検査の結果を見せて貰ったのだが、彼のIQは101で全く知能的に問題はないのである。

 だが、IQ検査の結果すらアテにもならない。

 竹宮がバーテンを辞めしばらく引きこもっていた頃、精神病院を通して障害者支援センターから就労支援を勧められ、彼は賃金200円のB型作業所に通うこととなった。

 クーラーのついていない蒸し暑いB型作業所で労働しながら、鼻くそをほじりながら作業する知的障害者や、何かの歌を延々と歌いながら作業する知的障害者にさえ、彼は自分の仕事のペースが手を抜いている訳でもないのに遅れていることに気づいた。

 彼は無意識に知的障害者を見下していたのだろう。しかし自分が知的障害者にも劣ると気付いたとき、彼はふっきれ、そして「自分は頭の悪い馬鹿なのだろか?」と問うことになった。

 この話は竹宮の行為への根拠付けではなく、IQすら基準にならないことを示すエピソードに過ぎない。


 最後にロクちゃんが診察室へと入ったが、ロクちゃんは医師の質問や知的障害と書かれたカルテを不思議そうに見ている。

 知的障害の診断基準はIQ検査によって決まるが、しかしIQ検査の結果がまるで役に立たない竹宮のようなこのバラバラの世界にあって、それはなんの意味をもつのか?

 もっと言えば、福良のように精神科医が黒と言えば白でも黒になる精神病院において、なんの診断基準などあるものか。

 新川医師はロクちゃんを前にして気楽に診察していた。ロクちゃんの人生の全ては知的障害というレッテルに集約され精神医学のマニュアルに書かれていた。

 精神科医は、知的障害者にも最も人間的な承認欲求や罪悪感といった苦悩が存在することを認めないであろう。そんなことは精神医学のマニュアルには書かれていないのだから。



 精神科医について述べたのだから、今度は看護師について語らなければならない。

 わたしが実際にある看護師に聞いた話では、引きこもりの患者の一人がラジオの同じ部分を何度も聞いていて、それが不思議で仕方ないとのことだった。

 同じ部分で話の内容も全て分かっているのに、なぜ繰り返し聞くのだろう?


 翌日、抗うつ薬の副作用で一日中眠たく食欲も無い海藤は、福良と話をしながら、自分の手がなにかを語るときの竹宮のように動くのを見て驚いてしまった。

 自分の挙動や思考が誰かに似通っていると感じることは不愉快である。自分自身が存在せず、名もない大勢の一人のうちの一員になった気がする。

 そこで彼は「あの『少年よ大志を抱け』なんて初めに言い出した人は嫌なものですね!」と大声で(自分を周り大勢と区別するために)言わなければならなかったが、徒労に終わった。

 なんとか手の動きを抑えようとしても、話が活発になるに合わせてその手の動きもますます似てくるからだ。

 尤も、ここで問題となっているのは画一化といった問題ではなく個性の問題だった。

 海藤が言わんとしたことはどういう意味だったのか?それは教育全般に対しての不満の表明だ。

 福良も昨日の診察以降精神科医に対しての不満をもっていたのだから、喜んでその意見に同意するだろう。そして海藤の意見は彼が思っているよりも平凡で区別されないものとなってしまうだろう。

 この点でラジオのパーソナリティというのはわたしたちの時代のヒーローである。引きこもりの患者は自分の意見をパーソナリティに自己投影して、繰り返し聴くことで自分の意見が正しいという確認を何度も行っている。

 看護師がこれを理解できないと言ったのは、普通に生活して普通に友人がいるために人と話したいや確認したいといったフラストレーションが溜まらず、わざわざ自分の意見を気にかけないからだろう。

 もし海藤が手の動きを感じたように自分の意見を見つめ直したとき、その平々凡々さに嫌になって付き合いきれなくなる。それならば心酔するラジオのパーソナリティにでも自己投影してしまった方が楽だ。

 精神科医にも看護師にも理解できないのは個々の障害などという特徴的なものではなく、個々の最も人間的で平凡すぎる悩みであった。


 ところでもしわたしが精神科医だったら、この物語の登場人物の中にいくらも根拠を付けることが可能だろう。

 例えば福良の依存性や医学への信頼についてはこう言える。それらは彼の幼少期に由来していると。

 福良の親は一時期占いや細木数子に傾倒しており、数万円する運気が上がるネックレスだの水素水だのを買っていた。

 彼の持病が悪化したとき、運悪く親はホメオパシーに傾倒しており、ホメオパシーは自然療法を良しとするため、持病の薬を頑なとして出さず彼は持病で一晩中苦しむこととなった。

 それ以来占いや依存といったものにアレルギーがつき、彼は医学の方を信頼するようになったと。

 こう説明されるといかにももっともらしく聞こえるが、こんな説明は冒頭で書いた筆者の嘘ほどに意味のないものだ。

 そして精神科医の条件とはこの嘘を真面目に信じることである。

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